
先に注意しておくが、これは過激な文章である。
前2作について、じつは長らく「高評価を受けているが十分な理解はされていない」のではないかという疑いをずっと持ってきた。
これまで語らなかったのは、どちらかというとわたしの考えすぎだと思っていたせいである。
それが今回正式タイトルとして3作目となる笑み男が発売され、さらに笑み男に関連して制作者インタビューが充実したことで、どうやら自分の考えすぎではなく本当にこのシリーズを高評価してきた多数の人々が注目していたのとは違うテーマが「ファミコン探偵倶楽部」というシリーズのメインテーマであるらしいことがわかってきた。
ファミ探前2作を高評価してきたライトな多くのファンは、おそらくシリーズにやや誤った先入観を持っていた。
もう少し控えめな言い方をするなら、作品の表面的な一部の理解に留まり、作品の核となる部分には注意を払ってこなかった。
とはいえ、旧作でメインテーマが理解されなかったのにはそれ相応の理由がある。
いちばんはシリーズの主題になるテーマとは別の箇所に演出的な力が入っていたことにある。
犯人探しや事件解決、そしてホラーないしサスペンスといった要素が「面白すぎた」。
またディスク版当時のプレイヤーの年齢層が低く、作品の核となるテーマを考えるには幼かったこともかなり大きな要因と想像する。
ディスク版当時のプレイヤーはおそらく小学生からせいぜいで中学生が中心だった。
多くの当時幼かったプレイヤーは前述した犯人探しや事件の解決、とりわけ際立っていたジャンプスケアーな(びっくりどっきりさせる)演出といった表層的な一部に意識を取られたと考える。
そして、これらの要素を非常に好感をもって受け止め、その部分のファンになり、高評価し、「それこそがファミ探だ」と考えた。
そうした背景をわたしも良く理解する。
わたし自身「ファミ探の制作サイドが力を入れているのはやはりその部分なのかな」と長らく考えて来たからだ。
結果的に、犯人探しや事件の解決、そしてジャンプスケアーな演出はディスク版をプレイしたかなりの多数派によって高く評価されて来た。 そして、ファミ探前2作への【世間】の評価そのものが「怖い作品」「怖くて面白いゲーム」といったものになった。
それが今作で「作品への不十分な理解」であったことが判明したわけである。
ファミ探はたしかに世間で高く評価されてきた。しかし作品のメインテーマは30年以上にわたり多くのファンに理解されていたとは言えなかったのである。
第3作笑み男ではハード性能の圧倒的な進化などもあって表現力(表現手法)が増すなどもあり、シリーズの主題が誤解のない形で、全面に置かれ届けられた作品であると感じた。これはわたし自身のプレイ直後の強い実感である。
ところがシリーズのファンを自認する人たちの少なからずがその主題をこれまで理解して来ておらず、「なにか自分の好きなファミ探と違うものをお出しされた」と感じたようだ。
旧作からのファンで、なおかつ笑み男をまさしくファミ探であると感じたのはかなりコアなオタクか、そうでないなら作品の理解力が非常に高い人であると思う。
他方、笑み男でファミ探にはじめて触れたプレイヤー、とりわけ先入観に通ずる前情報がほとんど無かったであろう非日本語圏ならびに非英語圏のプレイヤーからはかなり高い評価を得ている。
これはシリーズにやや偏りのある先入観の無いプレイヤーにとってこの作品が高評価に値するものであることを程よく示していると思われる。
その本作笑み男であるが、ファミコン探偵倶楽部シリーズのメインテーマを全面に押し出したことによって、シリーズにおいてどうかという域を超えてビデオゲーム史において非常に大きな作品であると考えるに至った。
前置きは長くなったが本稿の本題はこれからであり、その話をしたい。
ファミコン探偵倶楽部 笑み男は、その出来上がりを見るに「完全社会派作品」と呼んで過言ではない。
おそらく坂本さんは「社会派作品として世に出そう」「ビデオゲームとして画期的なことをやってやろう」なんてことは考えていない(と思う)。
坂本さんは単に表現したいものを表現されただけだ(おそらく)。
が、結果的に出来上がった笑み男は世界最大のビデオゲームメーカーによる社会派作品というビデオゲーム史に残る位置づけとなった。
日本のカルチャー、サブカルチャーにおいては社会派作品は決して珍しくはない。
小説の分野では社会問題に言及することを主題とした作品は当然のように非常に多い。ベストセラーでドラマ化も繰り返しされている医療問題を扱った「白い巨塔」、児童虐待を主題においたミステリー「永遠の仔」など話題作に限っても枚挙にいとまがない。
また、社会問題を扱ったマンガにも事欠かない。創世記の漫画家には戦争体験者が多かったせいもあると思うが、水木しげる氏や手塚治虫氏の戦時中の自伝や、アドルフに告ぐ、はだしのゲンのように社会問題を描くための作品をマンガカルチャーの黎明期の作家が極めて数多く手掛けている。
当然映画は全世界的に見てもこの傾向が顕著である。
しかしながら、ビデオゲームでは小説や映画、マンガほどに社会問題と向き合うことを主題とした作品はない印象である。
ヒューマンドラマはある。著名なところでは「CLANNADは人生」というネットミームを生んだCLANNADなど、泣きゲーを例に上げてもよいだろう。
しかし、社会派と呼べる作品は少ない。
これはマンガでは黎明期から当たり前のように社会派作品があったことを考えると、「ストーリーを読ませる」作品がビデオゲームに40年近く存在しながらジャンルとして存在しないことは奇異にすら感じられる。
もちろんビデオゲームにも社会派作品、社会問題を取り上げる作品が全く無いわけではない。
社会問題を引いている作品としては、このサイトにも多くのプレイヤーがいるだろうタイトルで言うと、すぐに思いつくのは探偵神宮寺三郎シリーズの「夢の終わりに」がある。夢の終わりにでは麻薬によってたくさんの人々が人生を狂わされる様が伺える。
ただ、プレイヤーに麻薬の恐ろしさについて深く考えさせようとしていたか、と問われるとやや疑義はある。(これは人によって意見が分かれるかもしれず、夢の終わりにはそのくらいには社会派の要素があると思う)
直近のタイトルになるが笑み男のすぐ後に同じく都市伝説を題材として発売された都市伝説解体センターもまた、奇しくも現代のプレイヤーに非常に身近な社会問題についてえぐってくる作品である。
こちらについては制作サイドのインタビューで「今の社会に対する怒りのようなものがある」と言及されており十分社会派作品と言えそうな内容である。ただし、「それを訴えることが目的ではない」ことも同時に述べられている。
ゲームの登場人物・主人公(=プレイヤーキャラ)を超え、プレイヤーそのものに倫理観を問い選択させる作品も一定数ある。
これまたこのサイトにも多くのプレイヤーがいるだろう作品で言うと、逆転裁判2の最終話が思いつく。究極的な二択を選ばせる場面があり、弁護士とはどのようなものかという問いをプレイヤーに残す。
社会派ゲームとして必ず名前が挙がるタイトルには、インディーズのThis War of Mineがある。
これはおそらくこのサイトの読者がよく知るタイトルとは言い難いため少し詳しく説明するが、ゲームシステムとしては拠点拡張型のサバイバルゲームになる。
これが社会派ゲームとして必ず名が挙がるのは、ボスニア紛争をモデルとしていること、特殊能力など無いごく普通の一般市民として戦時下での生と死、倫理観をほぼずっと問われ続けるところにあると思う。
例えば自分たちの食料も乏しい中で助けを求めてきたホームレスに食品を分け与えるか、脚を負傷して家に帰れない父親を銃弾飛び交うなか子供のもとまで送り届けるか、性的暴行を加えられそうになっている女性を助けるか見捨てるか、助ける場合でも暴行しようとした相手を殺害するかそれとも囮となっておびき寄せるに留めるか……、といった選択を市街戦が終わるまでの数十日間にわたって時には1日に何度も迫られ続ける。
戦争を指揮官として動かすゲームは多いが、ただ巻き込まれた無名の一般人として迫られる選択は紛争下に限らず身近にもじつは類型があるような内容とも言える。
現実にあった紛争という題材そのものも前述の日本のマンガで見られた戦争体験者の自伝に通ずるものがあるし、おそらくプレイした後でもプレイヤーに現実で似たようなことがあったら自分はどうするか考えさせる力がある作品であろうと想像する。
この点が社会派作品として必ず名前が上がる点であろう。
さて、少ないながらここまで挙げてきた社会性のあるタイトル、社会派タイトル、あるいはプレイヤーに選択を迫るタイトルと比較しても、ファミコン探偵倶楽部 笑み男はなおいくつかの特筆すべき点がある。
最も大きな特徴は、作品が明らかに物語の中心に据えた社会問題について、プレイヤーそのものに答えのない問いを投げかける点にあると考える。
笑み男のミノル編で描かれる内容、そして最後の問いかけは明らかに制作サイドが表現したかったものを示している(注:共通する内容は笑み男編でも通底して描かれており、ミノル編がすべてと言う気はないがミノル編がよりわかりやすい)。
ミノル編の最後の問いは、
1. プレイヤーキャラ(探偵くん)ではなくプレイヤーそのものに問うているこの4点が思いつく。もっとあるかもしれない。
2. プレイヤーに「A」「B」のようなどんな選択肢も示さない(プレイヤーに全くフリーで考えさせる)
3. 作品の最後に問うておりゲームの中で考えさせるものではない
4. プレイヤーがどんな答えを出したとしてもゲームからの答えはない
1~4を複合して考えた時、笑み男という作品は、ゲームを終えた後に現実世界を生きていくプレイヤーが、日常の中で考えていくことを極めて明確に求めていることがわかる。
しかも「そういうゲームが作りたくてゲーム会社を立ち上げた」みたいなインディーズではなく、世界最大のビデオゲームメーカーである任天堂が内製タイトルで行ったインパクトが大きい。
これは、ビデオゲームに社会派要素をこれほどまでに持ち込めるのだという、ビデオゲームの文化的な範囲拡大を行ったとまで言える。
結果的に、であるが。
(繰り返すが坂本さんは「ビデオゲームが社会派作品をやれることを世に示そう!」なんて考えてこの作品にしたとわたしは思っていないので)。
その笑み男に対してはしばしば、もしくはかなり頻繁に「任天堂がこの作品を出したことに驚く」という意見を見かける。この驚きを表明する言葉は世界中の言語で見かけた。
また他でもない坂本さん自身が、本当にこれを出してよいのか(会社の許可を得られるか)懐疑的だった様子がインタビューからうかがえる。
しかしながらアシスタントプロデューサーの宮地さんが大丈夫と太鼓判を押し、実際そのとおりあっさりとこの作品の開発許可が降りたように、はたから見ていてもわたしはこの作品は任天堂が任天堂だから出した作品だと感じている。
任天堂は子供から大人まで、ファミリーが、そして子供たちが安心して楽しめるゲームを提供しているゲームメーカーであることは自明と呼んで良い。
その点で言えば、今回日本でこそCERO Cとまだ比較的年齢制限が低いものの、欧米では17歳以上ないし18歳以上の規制がついたファミコン探偵倶楽部 笑み男は表面的に見ればたしかに任天堂製らしくはない。
しかしながら、笑み男は「世の中の子供たちのために、大人がプレイして考える」ことを求めてくるゲームである。
本作の、身近にいる現実の子供たちについてプレイヤーに考えさせる姿勢は、ミノル編だけではなく笑み男編でも極めて明確に言及されている。
ファミコン探偵倶楽部 笑み男は、子供たちにはプレイさせないが、わたしたち大人のプレイヤーに対して世の中の子供たちのことを、さらには家族のことを考えさせるゲームなのである。
これは普段の任天堂とアプローチ手法が違うだけで、「子供たちのためのゲーム、ファミリーのためのゲーム」という世間が持っている任天堂の姿勢にじつはしっかり適合したものと言えるのではないだろうか。
笑み男は、プレイした大人たちに世の子供たちについて考えさせる作品であるというこの点さえ理解していれば、任天堂が本作にすんなりGOを出し、極めて異例なティザーで衆目を集め、実写映画の広告枠などにCMを投入したという力の入れようも良く理解できる。
この作品は、ディスクシステム当時は子供だった大人になったプレイヤーに向けて、「大人になった我々がいま身近にいる子供たちにできること」を考えてほしいと伝えてくる。
世の中の子どもの中には任天堂のゲームに触れない子もいるだろう。
けれど、ファミコン探偵倶楽部 笑み男は任天堂ゲームのユーザーではない子供たちまで含めた世界中の子供たちのための作品であると言って過言ではない。
そうである以上、これは間違いなく極めて任天堂の本質に根ざした作品であることがわかるし、従来のビデオゲームの枠を超えた社会性を持っていると主張するのもこれによる。
前述したかつてない広告手法から言っても、おそらくチームとしての任天堂は、この作品の自社においての価値、ひいてはビデオゲーム史上における意義をよく理解していたと思われる。
笑み男は間違いなく任天堂の精神を表した作品なのだ。
仮に社会派作品として作品そのものに意義があるとしても、なぜそれをファミコン探偵倶楽部でやったのだという意見もあるいはあると思う。
しかしながら本稿の冒頭では過激あるいは攻撃的な記載をしたが、もとよりファミ探は家族愛をテーマとした作品であった(わたしは前2作は「親子愛」がテーマだと思っていたが今回「家族愛」であったことが明言された。
ファミ探は長らく多数派に理解されていなかっただけで本来ヒューマンドラマを主題としていたシリーズであり、笑み男ではプレイヤーの年齢層を大人に限ることでより深くヒューマンドラマに力を入れたら結果的に社会派と呼べる域に到達した、という過程が想像され、作り手側にとっては案外と自然なことだったと想像ができる。
その上でもう一点、コマンド選択式アドベンチャー(本作で言うインタラクティブドラマ)でこの作品が登場した意味は、ビデオゲームで社会派作品をやる上でかなり大きいと考えるに至った。
世界からの感想の中には、これまで映画や小説を見てきてもこれほどの衝撃は覚えたことがないという体験の強さを評価する声が聞かれる。わたしも同意見である。
その大きな要因として考え得るのが、コマンド選択式アドベンチャーの「読み飛ばしができない」という要素である。
このゲームシステムは直前のやり取りをきちんと読んで(聞いて)いないと次に何をやればいいかわからない。
笑み男では進行による詰まりがかなり低減されたが、詰まりがないということは前段を読んでいれば次にすべきことが比較的容易に理解できるということでもある。
読んでいても読んでいなくても詰まる箇所が多く結局総当たりとなるような事例と異なり、「読んでいればだいたいわかる」となると、裏を返せば読み飛ばしがしにくいのだ。
つまり一文一文を、プレイヤーはいつの間にかしっかり読み、前の一文に応じて次の自分の行動を決めるクセがついてしまうのだ。
さらには一文一文から直後の行動だけでなく全体のヒントを拾い出そうとするプレイヤーも多いだろう。
つまり、作中のたった一言や一つのリアクションに対する集中力を、全編を通して高く維持できるのがこのゲームシステムなのである。
(本稿において余談になるが、このコマンド選択式の「一文一文をちゃんと読まなくてはならない在り方」が、プレイヤーによっては冗長に感じられるやり取り、きちんと読んでも事件解決のヒントにならないと感じられるやり取りのストレスを倍加させたのではないかと疑っている。)
ストーリーをしっかり描くタイプのビデオゲームの代表格には現在ノベルゲーム(日本におけるビジュアルノベル)が存在するが、長い文章が続き選択肢は要所要所でわずかに出てくるだけのビジュアルノベルと異なる集中力を求めてくるのがコマンド選択式アドベンチャーゲームである。
このシステムを変えることなく本作を持ってきたのが天才的な「これなら伝わる」という直感によるものなのか、あるいは考え尽くした思考の結果なのか不明だが、作品に深く向き合ったプレイヤーには他のメディアから受ける以上の印象を与えたことは確かなようだ。
しかし、この項の内容について「笑み男に限って言えば『読み飛ばしできない』という理屈はおかしい」と感じた方はいるだろう。
その疑義は正しい。
なぜなら笑み男が最も高いメッセージ性を訴えるミノル編は他でもない読み飛ばしも可能なアニメーションを中心とした構成になっているからだ。
しかし、これについては笑み男は極めてアグレッシブな手法でアニメーションパートさえ「読み飛ばさせない」ようにしている。
もう項のタイトルからして過激だが、シリーズ2作目でありファミ探シリーズの世間一般のイメージを確立したと言えるうしろに立つ少女は、冒頭に述べた「高評価を受けているが十分な理解はされていない」という在り方をも決定づけた作品だと思っている。
ゲームとしてうしろに立つ少女が高い評価を受けていることは疑いようもない。
少なくとも日本国内において現状では笑み男より確実に高い評価を受けているだろう。
しかしながらうしろに立つ少女はファミコン探偵倶楽部というシリーズの家族愛というメインテーマを伝えることにおいて成功していたとは言い難い。
もちろんすべての人に伝わらなかったわけではない。うしろに立つ少女で描かれた親子愛に気づいたプレイヤーも当然いる。だがそれ以上に、親子愛というテーマを重視しなかったプレイヤーははるかに多い。
消えた後継者との共通点も鑑みて「ファミ探シリーズでは家族愛こそが主題だ」と気づきそれを重視したプレイヤーは、笑み男が出るまでのこの35年間断じて多数派ではなかった。
うしろに立つ少女の作中において、親子愛、家族愛というテーマが弱かったとは思わない。
わたし自身はある意味ではずっとこのテーマについて言及し続けてきた身でもある。
うしろに立つ少女は親から子への愛情、それが呼ぶ業の深さ、人生の皮肉、そうしたものを極めて繊細に丁寧に描ききっている極めて優れたヒューマンドラマである。
しかしながら、それが多数派のプレイヤーには伝わらなかったことも事実だ。
なぜか運良く気づいたわたしのようなプレイヤーもいるし、読解力の高いプレイヤーにおいては当然しっかり気づいているが、現実的に世評を見ればファミコン探偵倶楽部のヒューマンドラマとしての素晴らしさはほとんど重視されてこなかった。
メインテーマが伝わらなかったとすれば、作品としての高評価・商業的成功とは裏腹に、創作活動としては一つの失敗という向きがあると思う。
さて、では笑み男と同様に読み飛ばししづらい同じゲームシステムを用いながら、うしろに立つ少女でなぜこのメインテーマが伝わらなかったのだろうか?
個人的には、この原因は意外と単純ではっきりしたものだと感じる。
事件解決後にその話が出てしまったからだ。
多くのプレイヤーの興味は、事件の解決にあった。
すべての事件の真犯人がわかり、キーであった浅川しのぶの遺体がどこにあったかもわかった。
枝葉のちょっとした疑問は残っているが、多くのプレイヤーがプレイ中ずっと知りたかったことは全部わかった。
これが概ね「大鏡前」までのシーンであり、百歩譲っても「空木探偵事務所での会話」までである。
その後、スタッフロールの直前に「シリーズのメインテーマ」、うしろに立つ少女の物語の核となる校長の秘密が明らかになるわけだが、すでに多くのプレイヤーの興味、もう少し控えめに言ってプレイヤーの集中力はこの時点ですでに失われていたはずである。
ただでも非常にショッキングな「振り返り」から「犯人の告白」「浅川しのぶの遺体」と畳み掛けるように続いたところで、平穏さを取り戻した空木事務所での仕上げのパートを経て「はい、終了。怖くて面白かった!」となった後でようやく親子愛・家族愛というメインテーマが出て来るのである。
これがうしろに立つ少女でシリーズのメインテーマが多くのプレイヤーに「読み飛ばされた」かなり大きな要因であると考える。
もうおわかりの方も多いと思うが、笑み男は完全にこの逆を行っている。
たしかに佐々木英介の事件は解決したが、プレイヤーの興味を18年前の事件にさんざん惹きつけておきながら、18年前の猟奇的な事件の真犯人の動機、動機どころか本当に18年前の事件の犯人が都筑実なのかといった真相も、都筑実は結局どうい人間だったのかということも、笑み男編では何もわからない。
本当に何もわからないと言っていいくらいわからない。
うしろに立つ少女が事件をすべて解決してしまってからメインテーマを出したためにメインテーマを読み飛ばされたのとは裏腹に、笑み男はプレイヤーが気になっている事件、佐々木英介の事件ではなく18年前の少女連続殺人事件を大げさでなくなんら解決しないまま本編を終わらせた。
そしてミノル編で再度メインテーマと合わせて18年前の事件の真相を出してきたのである。
だから本作においてはプレイヤーの興味は維持された。
おそらくアニメーションパートさえ、さほど読み飛ばされることはなかったと思われる。
なぜならそこにプレイヤーの興味を引き続けた18年前の事件の真相があるはずであり、実際あったからだ。
あの在り方になった理由は他にもあると思っている。
インタビューで語られる通り、制作サイドとして、そしてファミコン探偵倶楽部という作品において土足であの凄惨な過去に踏み込むことはさせたくなかった、というのが一番そのとおりだと思う。
また、プレイヤーが何もできない過去の出来事であるというつらさがもたらす演出上の効果については一度わたしも言及しているとおりである。
しかしながら、事実としてうしろに立つ少女でメインテーマが伝わらなかった構成の逆を行くことになり、少なくとも世界的に見れば多くのプレイヤーにこのシリーズがどういう作品かをはっきり「伝える」ことに成功したと思われる。
伝わった結果、思わぬヒューマンドラマ・社会派作品だったせいで「自分が好きだったファミ探ではない」と感じた人はいるだろう。
それは残念ながらあなたの考えていたファミ探と、ファミコン探偵倶楽部というシリーズが描いてきたものがどうやら違ったかららしい、と言うより他にない。
つまり、正しく伝わったことによりシリーズに対する誤解が解けたのだ。
笑み男が「ファミコン探偵倶楽部シリーズ」としても非常に大きな価値を持つのはこの点にある。
12. Jun. 2025