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「月触2」
──満ちた月は、人の心にいつもと違う影を落とすものかもしれない。
伊賀忍群頭領・百地邸の離れに、綾之介たちは滞在していた。
そんな時ではないはずなのに、何を思ってか三人して酒を飲んでいた。平和だったはずの伊賀が、織田軍の進撃によって危機に陥っていく現実から目を反らしたかったのかもしれない。
それを証明するかのように──もしくはいつもどおりの弱さで、一番初めに酔いが廻ったのは龍馬だった。
結局、それもまたいつものことで綾之介と左近が残された。前にもこんなことがあったと、表面上は静かさを保つ心のうちで、そう綾之介は思い出していた。
あの日もこうして、やはり満ちた月を杯に映していた。
「今宵は少しも飲まぬのだな」
声を掛けられて、その言葉の奥に隠された意味に、薄く感じていた緊張が現実に姿を現す。あれは酔いが見せた夢ではないのだと、耳元で声がするようだった。「・・・・やはり、飲めるような気分ではないだろう」
「だからこそ飲まずにはいられない。そういう夜もある」
左近が笑って言った。それに、綾之介は答える言葉がなかった。
思い出さずにはいられない沈黙を少しでも感じずにすむように、綾之介はまた杯の月に目を移した。あの時と違うのは、杯に注がれたその液体に一口もつけていないことくらいだろう。
あの夜は多少なりとも飲んでいた。
飲んでいたからこそ、あんな夢をみたのだと、自分をそう納得させるために綾之介は、今日は酒に手をつけていなかった。
そういえば・・・・と、思い立つことがあって、綾之介は顔を上げた。
「そう言う割に、お主も今日は少ないな」
「まあな」
酔いのせいにされてはたまらないからと、けれどその一言を男が口にすることはなかった。「あの時も、そなたはそうして月を杯に映していたな」
代わりに男が発した言葉に、綾之介の持つ杯の月が波打ってその形を崩した。
「そうして、一体何を考えている?」
「・・・・別に、これといって何かを考えているわけではない」
声が震えるのを、必死で抑えた。夢が現に取って代わるような錯覚を覚える。
そんな綾之介の様子に気づいているのかいないのか、左近は言葉を続けた。
「本当に何も考えていないのか、それとも考えていることを隠したいのか・・・・思いつめていることに、自分で気づいていないだけなのか」
「どういう意味だ?」
最後の一言が胸に引っかかるようで、綾之介は杯の月から視線を左近に移した。うすい微笑を浮かべた男と目が合う。
「そのままの意味だ」
「私が一体何を思いつめているというのだ」
「そんなことは言っていないだろう? 俺は尋ねただけだ。
──だが、そうだな。もしお主が思いつめているとするなら、それは己を偽っていること。そして、人を殺すことに対する迷い。そんなところだろう」また、月が崩れた。
あまりにも不自然に、けれど反射的に顔を左近から背けてしまう。
「──私が戦いに迷っていると言うのか?」
あえて前者の問いに対する答えを避けた。それ問うのはこの男相手にはあまりにも危険な気がして。それとも、今さらなのだろうか。
「それは自分自身に聞くことだ。だが、確かめるまでもなく、そなたはもう気づいているはずだぞ」
「──迷うも何も、もともと気持ちのいいものではないのは、わかりきったことだろう」
心の中で違うという声がした。そういう問題ではないのだと。左近が言っているのは、自分が迷っているのは、もっと別の理由からなのだと。
「それだけか?」
まるで、綾之介の心の声を聞いたように、左近が畳み掛ける。
「他に何がある」
「人を殺める事に対する恐れ。それでなければ──自分が新たな悲しみをみ生み出すことに対する恐怖。そんなところではないのか?」
杯の中で光が散った。月は形を戻さない。
「・・・・今さらだな。そんなことを恐れていては信長を倒すことなどできぬだろう」言葉だけを見れば正論。しかし、声の震えを抑えきれなかった。
この男は、どうしてこんなにも自分自身見たくない人の心のうちの闇を表に引きずり出してくるのだろうか。
──この男は、気づいている。
「お主は本当に、信長を倒したいのか?」
「何を・・・・・・当たり前だろう」
綾之介は敢えて視線を逸らすと杯を凝視した。逃げ出したい衝動に駆られていた。
「本当に、そうか?」
男の立ち上がる気配に、弾かれたように彼女は顔を上げた。反射的に体が後ろにひこうとする。
そんな彼女に歩み寄ると、左近は突然、その手で綾女の頬を包んだ。
手から滑り落ちた杯が、畳の上をしばらく転がっていった。「目を逸らすな」
思わず自分の瞳から視線を逸らした綾女を責めるように、左近の手にわずかながら力がこもる。
それを感じながらも、綾女は左近を見つめることが出来なかった。
「本当に信長を倒したいのか?」
「当たり前だと言っている・・・・!」
押し殺した叫びを綾女は洩らした。そんな声になったのは、胸が苦しくて仕方がないからだ。
彼女自身、それを自覚していた。
「・・・・そうして、いつまでも目を逸らしつづけるつもりか。そんなことが出来ると思っているのか?」
「何のことだ!」
「なぜ、女であることまで偽らねばならなかった」思わず、綾女は息を詰めた。
思わぬ方向からの切り口に、顔色を変えて男を見上げていた。
「俺が気づいていないとでも思っていたのか?」
むしろ溜息のように吐かれたその言葉に、あやめは小さく息をついた。
「・・・・・・いや」
しばらくの沈黙。
破ったのは男の方だった。
「なぜ、女であることまで偽らねばならなかった?」
「・・・・・・女は、あまりにも無力だ。女でいては戦えなかった!」
その一言を吐き出した瞬間、胸のうちが嘘のように楽になるのを感じた。
他にも思っていたことはもっとたくさんあったに違いないのに、まるで、その偽りが苦痛のすべてだったかのように。
男は、諭すように淡々としていた。
「たとえ人に偽って見せたところで、お主が女であるという事実は変わるまい。女が本当に無力であるというなら、どちらにしても戦えなかったはずだ。
誰を騙すことが出来ても、自分自身を騙しきることなどできぬものだからな」
「それでも、私は・・・・!」
「『それでも』──? それでも、他になにがあると言う? お前が女を捨てた意味は何だ? そこまでして仇討ちする意味は? 死んだ人間の敵を討つことにそれほどの価値があるのか?
女としての生き方など他にいくらもあったはずだ。子をなし血をつなぐことも出来たろう。なぜそうしなかった? どうして、敢えてこんな道を選んだんだ!?」
「それは・・・・!」
泣き出しそうな声で綾女はそう叫び、しかし、それ以上の言葉がどうしても出てこなかった。「なぜ、戦う道を選んだ? 女を捨ててまで。
────お前には、わかっているはずだぞ」
綾女は唇を噛みしめて男から顔を逸らした。
「そこまでして選んだ道をこのまま進むことになぜためらいを覚えている? どうして今さら人を殺めることを恐れて始めているんだ!
・・・・お前が言わぬというなら、俺が言うぞ」
「よせ!」
弾かれたように綾女は叫んだ。が、遅かった。
「お前は死に場所を求めて戦っている」
「左近──!」それはほとんど悲鳴にしか聞こえない声だった。
重く硬いものを抱きかかえたように、胸が詰る。
だが、男に容赦はない。
「目を逸らすな」
低くそう言い切って、そしてさらに言葉を続ける。
「だからこそ、そなたは殺すことに迷っているのだ。死を望んでいる自分が、生きることを願っているものを殺すということを理解しているから、だからこそ苦しんでいる」
「違う! 私は死を望んでなどいない!」
綾女は男の袖をなかば縋るようにつかんで、顔を下に向けたままでそう叫んだ。
「私は生きなければならないのだ!」
「本当にそう思っているのなら、俺の目を見て言え」
「────」
むしろ静かな男の声に、綾女は弾かれたように顔を上げた。
まっすぐに左近が自分を見つめていた。
「私は・・・・」
同じ言葉を言うだけでいいはずだった。
『私は死を望んでなどいない』と。
けれど、その目を前するとまるで口の中に舌が縫いつけられたように、言葉は出てこなかった。「私は、死を・・・・」
「目を逸らすな」
強い口調ではなかった。
その言葉に、なぜか涙があふれた。
自分を見つめる明るい鳶色の瞳は痛いほどに静かで、嘘はつけないと綾女は知った。
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