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「月触1」
──それは月の見せた夢だったのか──
野宿ではなく、珍しく宿に泊まった夜だった。伊賀へと向かう途中のことだった。
何を思ってか、三人して酒を飲んでいた。不意に、そうしたものに頼りたくなる夜だったのかもしれない。
──月が、あまりにもきれいで。一番初めに席を立ったのは龍馬だった。
もともと酒に弱いのだろう。おぼつかない足取りで部屋に戻っていった。
そして、部屋には綾之介と左近が残った。綾之介はさして酒を飲んだ様子がない。
窓の桟に腰をおろし、先ほどから杯に月をうつしてぼんやりとそれを眺めていた。眺めてはいるが、果たして目に入っているのか・・・・。
自然とも不自然ともいえない沈黙が二人の間に流れていた。
「月か?」
「え?」
その静寂を、男が不意に破った。
だが、その意味は今ひとつ綾之介には伝わらなかったらしい。
聞き返されて左近はもう一度言った。
「月を、見ているのか?」
「ああ。そう・・・・そうだな」
本当にそうなのかと尋ねたくなるような危うい返事に、しかし左近はそれについては言葉を重ねなかった。
「そろそろ全部空くな」
代わりに、というわけなのか、銚子のいくつかを手にしてそんなことを呟いた。
「まさかまだ飲む気か、左近?」
呆れたように綾之介は尋ねた。
その部屋にある、空になった銚子の数は三人で飲んだとすれば多くはない程度の数だったが、そのほとんどをこの男一人で引き受けていたとなれば話は別だった。
酔った様子がないと言っても、いい加減気になってくる。
「・・・・そうだな。いや、この辺りでやめておくか」
そう言った左近は苦笑とも微笑とも言いがたい表情を浮かべていた。
「その方が無難だな。──それにしても強いな、お主は」
「俺は酔えないからな」
「────」
その言葉にはどこか自嘲・・・・もしくは自虐めいた響きがあって、綾之介は言葉を紡げなかった。
「月を・・・・」
「月?」
思い空気の圧力に耐えかねるように、男の言葉をただ返す。
「昔、月を手に入れたいと思ったことがある。
幼い頃だ──どうしたって手に入るはずのないものなのにな」
「私も、似たようなことをやったことがある。誰でも多かれ少なかれ、一度はやることではないのか?」
全くの嘘ではないのかもしれないが、明らかに取り繕う響きのあるその言葉に何を思ったのか、左近は薄く笑った。
「かもしれん」
その言葉に綾之介は小さく息を吐いた。
正直に言ってこの男は苦手だということを今さらのように自覚する。
左近と、特にこうして二人きりで話すと、なぜか大概その主導権が完全に向こうに移ってしまう気がした。
それともう一つ。──この男には、気づかれている気がする。
「今のお主がしているように、水か何かに月を映したこともあったな・・・・」
「ああ、それでか・・・・なぜ急にそんな話をするのかと思ったぞ」
そう言って綾之介は視線を杯から上げると窓の外に向けた。
いい加減お開きにしよう、と話を終わらせるには今の空気は微妙すぎて、立ち上がることも出来ない。
見上げた先にある満月の光は鮮烈で、この夜にはいささか明るすぎる気がした。
「明るすぎるな、今夜は」
「!」
なかば息を呑んで綾之介は振り返った。
いつの間に動いたのか、男は至近距離に立って同じように空を見つめていた。
「なんだ?」
「いや・・・・こんなところでまで、そんな風に気配を殺す必要はないだろう」
日常生活レベルにおいて人の気配を感じ取れない、ということは綾之介にはほとんどなく、それだけに動揺したらしかった。鼓動が早い。
「癖だ。今さら直らんさ」
左近の手が綾之介の持つ杯に伸びた。
「左近?」
「これで最後か」
男が横目に自分を見つめてきた。吐息が触れ合いそうなほど近くに、互いの顔があった。
微かに触れた部分から伝わる体温が、ひどく意識される。
「さ・・・・」
男の腕が背に回される。そして、そのまま引き寄せられた。
瞬間、傾いた杯から零れ落ちた雫の冷えた感触がした。
「っ! なにをするっ!!」
我に返ると同時にそう叫んで、綾之介は左近を思い切り押しのけた。
「き・・さま・・・・っ! 酔ってるな!?」
顔が真っ赤になっているだろうことが、綾之介には自覚できた。
それに対して珍しく肩を震わせて左近が笑っていた。
「そうかもしれん」
「お主がこんなに酒癖の悪い男だと走らなかったぞ、全く・・・・!」
綾之介は立ち上がるとそのまま部屋を横切った。
そして、出掛けに男を振り返って言った。
「少しお主も酔いを醒まして来い」
パシンと、小気味良いくらいの音を立ててふすまが閉められた。「酔いを醒ませ、ね・・・・」
床に転がった杯を拾い上げて左近は低く笑った。そして、その表情は静かに冷めた。
「・・・・・・酔えないと言っただろう、俺は」
それは、苛立ちめいたものの混ざった、苦い口調だった。
見上げれば天頂の月は小さく、蒼かった。
それは、決して手に入れられないものだ。
水に映し、その幻に一瞬触れることが出来る程度で・・・・。
「────」
ふと、男は手の内の小さな杯に目をやった。先程まで『彼女』が持っていたものだった。
「・・・・・・酔おうと思えば、酔えるものかも知れん、な」
浅い目眩めいたものを感じつつ、その淵に押し当てられた男の唇に淡い微笑が洩れた。冷たい月光の下、背筋を這い上がる戦慄に耐え切れず躰が震える。
寒さからくる震えではない。そんな時期ではなかった。
──左近という男に、自分の知らない自分の姿を引きずり出された気がした。
「酔っていたのだ・・・・」
敢えて綾之介はそう声に出した。自分を納得させるために、自分自身に言い聞かせるために。
左近も、そして自分もまた酔っていたのだと、そう言い聞かせなければ納得できなかった。
そう、これは酒と月が見せた一夜の夢。
朝になれば、すべては記憶の彼方に消えるてしまう。
意味などありはしないのだと、綾之介は自分に対して繰り返した。
──そして、それが夢でも酔いの結果でもないと知るのは
まだ、もうしばらく先のことだった──