menu
 
「月触3」
 

──月に触れた夜。
   
「私は死を、望んでいる──」
左近は何も言わなかった。
そして、一度認めてしまうと、もう彼女には止めることができなかった。
「そうだ。その通りだ! 私は、死に場所を求めて戦っているのだ!
 ・・・・一人生き残ってしまった。逝けるものなら共に逝きたかったのに、私だけが生き残ってしまった!!
 私は無力で、それなのに私だけが・・・・・・。それでも生き残ったからには、この命を無為にすることはできない。・・・・けれど」
「・・・・お前は死を望まずにはいられなかった。だから、戦うことにしたのだろう? 仇討ちするために戦って、その中でねば、それは無為な死ではないと、それならば死んだ者たちにも許されるだろうと、そう思ったのだろう?」
頷くように、綾女は両手に顔をうずめた。
「どうして私が生き残らなければならなかったのだろう・・・・」
手から顔を上げると、泣き笑いのような表情をして彼女はそう言った。
「死を望んでいるくせに死ぬことさえできず、人を殺めるばかりで、そのくせ修羅になりきることもできずに迷ってばかりいる。
 本当に、どうしてこんな私がただ一人の生き残りにならなければならなかったのだろうな・・・・?」
自虐的な言葉は、笑うように震えていた。
その肩を、男が引き寄せた。
一瞬、抵抗するように綾女は体をこわばらせたが、実際にそれを行動に示すことはなかった。
「私は、死にたかった・・・・」
そう呟いて、ただその腕に身を任せて泣いた。

「・・・・お前が生きていてくれて良かったと、そう思う者もいるだろう」
長い無言の後に、左近はそう言った。『誰』とは、あえて言わなかった。
かすかに、彼女は肩を震わした。
「今の私に、生きることを望む資格があると思うか?」
「誰がどれだけ恨んでいても構わない、生きてくれ」
「──」
低い声に綾女ははじめて顔を上げた。
涙を流しているのは綾女だった。けれど、男の瞳は泣くよりも切実で、呑まれるような目眩を綾女は感じた。
「頼む。生きてくれ──」
それは、いまだかつて彼女が見たことのない左近の瞳だった。
「さ・・・・・・」
言いかけた名は、その男の唇によって吸い取られた。
綾女は反射的に抵抗しかけて、それを抑えると目を閉ざした。

唇が離れ、目を開くと部屋に闇が広がる瞬間だった。
畳に広がる自分の髪を見つめれば、目の端に天頂の月が小さく映った。
月明かりのせいで、闇は闇になりきれずに、遠くに転がる白い杯も見える。
見上げれば、自分を見つめる男と目が合った。
その目を見て、すべてを任せようと思った。

なぜ、そう思えたのか。それはその瞬間にしかわらかないことだったかもしれない。
後になってから言葉で言い表すことはできないものだろう。
確かなものは、そのときに存在していた触れ合う視線と重なる吐息、そして体温だけだった。
それ以外のすべては、白む闇の中でどこか夢のように儚かった。
そんな中、一度だけ上がった彼女の悲鳴に、その明るい闇が震えた。
あふれ出した綾女の涙のなかで、杯に映ったそれのように、天頂の月もあやうく揺らめいていた。
 

「・・・・生きてくれ」
隣で眠るその人に聞こえないことはわかった上で、男はそう囁いた。
どれほど今が苦しくても、生きてさえいればいつかは幸せにもなれる。
窓の外を見れば、白み始めた空に辛うじて有明の月が見えた。
この夜が明けてしまうことに名残を覚えないといえば嘘になる。
けれど、彼女のもとに早く朝が訪れればいいと、そう祈った。
名前すら知らないそのひとの中に、この夜の記憶が残るならいいだろう。
・・・・それとも、いつかこの夜のことを忘れ、また死に急ぐようになるのだろうか。
左近は寂寥感と不安が胸のうちに走るのを感じた。
まるで、月に触れたような夜だった。
どれほど望んでも本来は決してできないことが叶うなら、それは夢以外にありえない。
──あれは夢だった。
そう言い切って再び死に急ぐようになる彼女の姿が左近には目に見えるようだった。
そうなった時、自分はもう一度彼女を止められるだろうか。
そう男は自問した。
そのとき自分は、守り抜けるだろうか、と──。

「────」
夜明けを告げるように外で鳥が鳴いた。それと同時に、誰かの気配がこちらに走ってくる。
「さこん・・・・?」
眠っていても同じものを感じたらしく、彼女も薄く目を開いた。
「静かにしていろ、いいな」
低く左近はそう言い置いて、内掛けを羽織ると立ち上がり、外へ出た。
縁側に続く障子がかたく閉ざされる。
「左近さま!」
「何事だ?」
外から聞こえてきた良く知った少年の声に綾女は身を硬くした。左近がもし外に出ていなければ、あの少年なら飛び込んできたかもしれなかった。
よほど慌ててきたのか、障子越しにも少年が息を乱しているのが聞こえた。
「落ち着け、陣平。何があった?」
「織田が・・・・織田が伊賀に侵入しましたっ!!」
少年の叫びが、新たな戦いの始まりを告げた。
そして、彼女は『彼』に戻る────。
 

あの夜から、どれだけ経ったろう。
それぞれがそれぞれに、実際の時間よりもひどく遠く感じていた。
左近は、伊賀の総勢が集った夜に吐き捨てるような言葉を残して席を立った。

「左近!」
恐らく止めることはできないと、そんな予感を覚えつつも綾之介は追わずにはいられなかった。
まだ、話し合いが進んでいるため二人以外には誰もいない薄明るい廊下を、男は振り返ることもなく進んでいく。
その早い歩調に追いついた綾之介が見上げたその表情はとっさに表現することできないものだった。
厳しく、無表情で、それなのに哀しげでもあった。罪を咎めているようにさえ見えた。
咎めるような瞳はあの夜とひどく似ているのに、二人の間には暗い亀裂が口を開けていた。あの時とは、もうずっと遠くに来てしまったように。
それともあの夜こそが、二人の間で異質に過ぎたのだろうか。
そうかもしれなかった。

「どうしても行くのか? 何故だ!? お主も里を焼かれ、仲間を殺されたのではないのか?」
男に反応はなかった。まるで聞こえていないかのように。
それでも食い下がらずに入られなかった。
「この伊賀は今、われらの里と同じ道をたどろうとしているのだぞ!! それを・・・・!」
「それがわかっていながら、何故この戦いを続ける」
ようやく立ち止まり振り返った男が発したのは、責めるような低い声だった。
・・・・違う。明らかに左近は責めていた。
それでも、責められる理由が綾之介にはわからなかった。
「え・・・・?」
「この戦いが何のための戦いだったのかを、もう一度考えてみろ」
続いた声は、少し和らいでいた。
そして、まだなにか言いたげに綾之介のことを見つめていた左近はすべて払拭するように笑うと、一歩踏み出して突然彼女の額に手を当てた。

「綾之介、絶対に死ぬな・・・・!」
まるで、それが男のすべての願いであるかのような苦しげな響きに、綾女は息を詰めた。
あの夜も、似た言葉を同じ瞳で言われた。
手のぬくもりが愛しく、懐かしかった。
左近の指が、輪郭を確かめるように額からほおへ、そしておとがいに伝う。
「生きて・・・・生きて必ず信長を討て。それがお主の悲願だったはずだ」
それだけを伝えて、男は指を彼女から離した。
「左近!」
背を向けた彼に対して思わず綾女はその名を呼んでいた。
その声に、男は思い出したことがあるように足を止めると振り向いて、またわずかに微笑んだ。
「綾之介、もうこれで逢えなくなるかもしれぬ。お主の本当の名を聞いておきたいものだな」
思わず息を詰めていた。
そして、答えた。
「あやめ・・・・・・香澄の綾女!」
外に出た声は自制を超えて、ひどく辛いものになっていた。左近にはどんな風に聞こえただろう。
それでも。少なくともそれは嘘ではなかった。
浅い微笑がその顔に浮かんだ。
そして、そのありきたりな言葉を、まるでそれ以外思いつかなかったように左近は呟いた。
「綾女、か・・・・良い名だ」
そんな言葉だけを残して、今度こそ彼女に背を向けると左近は歩き始めた。もはや振り返ることはなく。

「死ぬなよ、綾女──」
そんな声を、綾女は聞いただろうか。それともそれは、純粋な左近の心の中だけの叫びだったろうか。
それは、二人以外にはわからない。
ただ、これより後、彼女は男の予期した通り再び死に急ぐような生き方に戻っていく。
月に触れたようなその夜は、夢になった──。

<end>
 
 

back    menu