menu罪 7
左近は意識を失っていた。
( ── 諦めるな)
低い男の声が脳裏をよぎった。
鈍く痛む頭の片隅で、懐かしい声だと左近は思った。
( ── 忍とは、命尽きるまで勝負を捨てぬものだ)
言い含めるように熱心な語り口で声は繰り返した。それは師の口癖だった。
その声に左近は自然、立たなければという気になった。
痛む頭を抑え体を起こそうと試みると背中がジンと痛む。
( ── 諦めるな‥‥)
「左近っ、何をやっておるか!! 今じゃ!」
突然降ってきた別の声に、左近はハッと両目を開いた。
目の前には身の丈でゆうに三倍はあろうかと思われる異形の存在が、収縮を繰り返しながら立ちはだかっている。
左近は弾かれたように飛び起きた。
考える暇もない。ただ、化け物の ── 音羽の幻蔵の頭から斬り掛かる。
覚醒した直後であったことが幸いしたのだろう。
常ならば惑わずにいられない己が剣に対する問いさえ、このときには思い浮かばなかった。+
+
『刃の心(はのこころ)』
+
+良庵と別れてしばらく森をそのまま進んだ男は、やがて小川に出た。
いや、小川と呼ぶには少し流れが激しいか。
水が岩にぶつかりながら音を立てて流れくだっている。
左近は手拭いををその水に浸すと、先ほど頭から浴びた飛沫をぬぐった。鼻の奥には、まだ妖魔の臓物の臭いが残っていて、時折記憶から甦るその悪臭に男は思わず顔をしかめた。
戦いの際に、したたか打ち付けた頭と背中もまだ鈍く痛む。
その不快感に細めた目の中で、岩に当たって砕けた水が澄んだ白いしぶきを上げていた。
美しいと思いたいが、三日月の光に照らし出された清廉な色が男の胸には痛い。いつもそうだった。これまでもずっと、まっすぐに清く輝くものは男の胸には痛かった。
左近はいたたまれなくなってその光景から目をそらした。
夜の森は静まりかえって、川の流れ以外には何の気配もない。ごうごうと轟く流れの響きはむしろ静寂と孤独感を煽っていた。
その森の一方の出口にある伊賀の里は、いま阿鼻叫喚で渦巻いているかも知れないというのに。
‥‥‥‥‥。
男は深刻な溜息を一つついてから、手拭いを放り出すとその場に座り込んで刀を抜いた。必要がないとは知りつつも刀身に目を走らせて刃の状態を確かめた。
御神刀の名に恥じない美しい刀身には、刃こぼれも脂による曇りもなかった。今し方あんなわけのわからないものを斬ったばかりだとは到底思えない姿で、ただ青く月の光を照り返している。何を斬っても、どれだけ斬っても、その刀身に変化がないのは何も今に始まったことではない。
だが、左近はこの刃に一抹の不気味さを感じずにはいられない。
自分が初めて目にすることを許された時から ── あるいはそれより遙か昔から、何一つこの刀は変わっていないのだろうと男は思う。
ふと、その変わらぬ刃の姿に先ほど夢の中で聞いた声が重なった。
(思えばずいぶんと懐かしい声を聞いたものだ‥‥)
一旦そう考えてから、左近はすぐにその言葉をうち消していた。
“諦めるな”と、そう語りかけてきたあの声の主が失われたのは、日向が焼けた時だった。
あれからまだ二年とは経っていないのだ。決して遠い昔のことではない。ずいぶん懐かしいと言ってしまうには、ずっと新しい記憶であるはずだった。
けれど、やはりその記憶は遠い。あまりにも遠い。
古くないはずの記憶をひどく昔に思うのは、里があった頃を遠く感じるのが男装の麗人だけではないからに違いなかった。
もはや二度と取り戻せないものが、言葉を交わすことすら出来ない人々が多すぎるのだ。
男は刀身を鞘に納めた。
きっと、伊賀の者たちも同じ思いを味わうに違いなかった。(どこも日向と同じか)
左近は胸の内で呟いた。
命より絆と掟を重んじる。
習わしやさだめは絶対で、裏切られることはないと思っている。
そんな人々を男は心の底からあざ笑いたい気分だった。
『さだめが絶対だというなら、なぜ日向や香澄は滅びた?』
『さだめが裏切らぬというなら、魔を断ち和をもたらす御神刀はどうして伝えられた通りにその力を現さなかった?
その真の力がいつより必要とされたのは、まさにあの時であったのに』
深い絶望と悔いをこめて、左近はさらに問い掛ける。
『さだめが正しいと言うのなら、なぜ、その力を必要とされた時この刀は自分などに受け継がれていたのだ』
『迷いを忘れることが出来ず、夢想を悟ることなどできるはずがなく、この太刀の力を引き出せるはずもないこの俺に』
左近は刀ごと片膝を抱いてその膝頭に額を押しつけた。男はその姿勢で精神的な痛みが去るのをただ待った。
── こんな風に、いつでも痛みを耐えてきた。
初めてその術を自分に教えたのは、他でもないあの師であったことを左近は思い出した。
一人膝を抱えても耐えろと、あの師は自分に教えたのだ。何があっても耐え忍べと‥‥命尽きるその時まで、決して諦めずに。
抱いた鞘を通して刀身の冷たさが伝わってくるようだった。
その変わらぬ冷たさに揺り起こされるように、次から次へと古い記憶が甦えろうとしていた。
たまにはこんな日があっても良いだろう ── 。
左近は自らに甘えを許した。周囲に人の気配はなかった。どれほど懊悩しても、その姿を他人に見られるおそれがここにはなかった。
“命尽きるそのときまで、決して諦めるな”。
この刀を初めて目にすることが許された日にも、その言葉を聞いた。
(思い出した‥‥)
左近は胸の内で呟いた。
ゆるんだ心の隙間から、この一年余りのあいだ忘れていた多くのことが、波のように押し寄せて来ていた。あの時、この太刀は長くを共にした使い手を失って日向の里の奥で静かに祀られていたのだ。
左近は ── まだ少年だった左近は ── さして興味のなかったその御神刀を、半ば師に引きずられるようにして見に行ったのだった。
思い起こして左近は小さく笑った。まず自分の師がそういう男だったことを思い出して笑った。師の人となりを忘れていたことも何か可笑しかった。
男の師は、 ── 師という一言で表すのも不適切な存在であるかもしれない。
左近にとっては姉を殺されてからの親代わりだった。抜け忍を図った自分の命を救ってくれた存在でもあった。どちらかと言えばやさしく、割と生真面目なたちで一本筋の通っているような男だった。それでいて、時に飄々とした側面を見せることもあり、計算高くもあって食えない男だった。
誰かに似ている ── 。
左近はそのことに気づいたが、考えたくなくなって思考を閉ざした。
その誰かに似た師は、鞘に納められたままの御神刀を前にして、まだ少年だった自分に言ったのだ。
「古より伝えられてきた話だ。この刀は情け深きものにしか振るえぬ、とな」その言葉に覚えた強烈な不快感を左近は今でもはっきりと思い出すことが出来た。
ザッと、音を立てて血が熱くなるのをそのとき彼は感じた。
── “情け深いものにしか使えぬ”?
問いは憤りに近い強さで少年の胸元に突き上げてきた。
師は顔を弟子に向けた。面白いものを見るような、それでいて当然予期していた出来事を見るような目をしていた。
「言いたいことがあるならば申してみよ」
師の許しを得て、左近は胸の内の熱さを吐き出すように口を開いた。
「刀は、‥‥それが例えどんなものであろうと、御神刀と呼ばれる物であろうと、所詮は人を斬るための道具ではありませぬか。まこと情に篤いものであれば、そんなものを使うことなど出来ぬはずだ。
情け深い者に振るえる刀など、あるはずがない」
言いたいことを言った快感が少年の胸の内を涼しくした。
しかし、師はただ黙って弟子を見つめるだけだった。そこには、少年の言葉に言い負かされたというような表情は見て取れなかった。
「刃に心はあると思うか?」
突然のこの問いに左近は答えなかった。答えが思い浮かばなかったからではない。自分の問いをはぐらかされたと少年は感じていた。
師は返事を返さない弟子を一瞥してから言葉を続けた。
「この御神刀は使い手の心を知るという。使い手の強い想いなくしては、この刀が真の力を放つことはない。それが言い伝えだ。故に、我が日向では夢想を説く。間違っても想い無き ── 無想ではなく、な。
この刀は、人の心を感ずることが出来るというのだ」
師の言いたいことを少年は理解した。左近は敢えて相手の話に乗ってやることにした。
「すなわち、その刀もまた人の思いを感じるだけの心を持つと?」
「‥‥そなたはどう思う。刃に心はあると思うか?」
左近がその時浮かべた笑顔は、子どもにはふさわしくないものだった。
「刃に心があればどうしておのが身で人の身を切り裂くことに耐えられましょう。人の上げる断末魔の叫びに耐えられるはずがない。
‥‥仮に心があるにもかかわらず耐えられるというならば、それは‥‥狂剣と言うものだ」
嘲笑すら交えて少年は畳みかけた。
けれど、師は不思議なほどに静かだった。
「だとすれば、それが我らなのであろうかな‥‥」
「‥‥‥我ら?」
師は伏せていた視線を上げると、まっすぐに左近を見つめた。
「『刃の心』は他でもない我らだ ──── わからぬか?」
少年はいぶかしげに眉を寄せたが‥‥ややして気づいた。そのとき左近は小さく息をのんだかもしれない。
『忍』は、『刃の心』と書くのだ‥‥。
少年の顔色がわずかに変わったのを見て、師は再び口を開いた。
「お前は人を斬ることに耐えられるような刃の心があるならば、それは狂剣だと言った。だが、私はそうは思わん。
‥‥左近、私はこう考えている。
我ら忍は、ただ心に刃をしのばせるから忍なのではない。ただ闇にしのぶ故に忍なのでもない。
刃の心は、 ── 今そなたが申したとおり、人を斬る痛みに耐えねばならぬ。
自らの身が人を切り裂き、その命を奪う。それは確かに狂うほどの痛みだろう。我らもそれと同じだ。我らもまた、人を斬って生きねばならぬ。その痛みに、耐え忍んでゆかねばならぬ。
我らは他のあらゆる痛みにも耐え忍び、それでも諦めてはならない。それは、命尽きるまでだ。
故に、我らは忍なのだ。私はそう思う。
少なくとも、そう思わねば私は自らを誇ることが出来ぬ」
「なぜ‥‥そこまでせねばならぬのです」
左近は半ば呆然と尋ねた。
思えばあの日、自分は「忍」という存在自体に一種の救いがたさを見いだしたのかも知れなかった。
なぜ、人を斬る痛みに耐えてまで生きていかなければならないのかと。その理由は何であるのかと‥‥。
そして、師は答えた。
「‥‥それが、我らのさだめというものであろう」
「さだめ?」
「いつか、人の世に害なす存在が現れたときに ── 『魔を断ち和をもたらす』こと。この刀が背負うさだめを、我らもまた背負っているのだ。そのためには、どのような痛みにも耐えてゆかねばならぬ」
そんなものが人の命を奪うことを生業とする理由になるのか。そんなものが、ただ忍を抜けて穏やかに生きたいと思った者たちの命を奪う理由になるのか。少年はどれだけそんな風に尋ねたかったかわからない。
けれど、なぜかその問いを師に浴びせることが左近には出来なかった。
師は、困惑したように沈黙する弟子に対して少し声音を和らげた。
「この御神刀は使い手の心の痛みを知るのだろう。真に情け深き者、剣を振るうことに痛みを覚える者を知るのだ、きっと。
心優しき者が痛みに耐え忍びながら、それでもなにがしかのために刃を振るわずにいられぬ時、この刀は使い手の想いの強さを知る」
師は微笑んで御神刀を見つめた。
「左近、知っているか?
かつて、この日向に夢想を悟ったと言われる剣豪は幾人かおる。だが、この御神刀の真の力を見た者は誰もおらぬのだ。何の迷いもなく、ただ剣の道に己のすべてを捧げたような歴代の剣客の、その誰一人としてこの刀の真の力を見ることはできなかった」
もっとも、歴代の剣客はそろいもそろって『まだ時が来ていないのだ』と言ったらしいが、師は冷笑混じりに語った。
「しかし、私はそうは思わぬ。この刀の力を引き出せる者がおらなんだのだ。
── 迷いを持ち、けれどその迷いを超えるだけのさらなる想いを持つ者」
師は、そんな言葉を呟いて振り返ると、少年に対しても少し笑った。
「私はそういう者こそが、この刀にはふさわしいのだと思う」
やがて、それよりしばらく後。男は自らの弟子を御神刀の継承者に強く推挙した。
夢から目を覚ましたときのように、左近はゆっくりと瞼を上げた。
遠い記憶の余韻は、なかなか抜けてはくれない。
片膝を抱いた姿勢を崩す気には、当分なれそうもなかった。
ややして小さな笑い声がその唇から洩れた。
「迷いを超えるもの‥‥」
そう呟いてさらに笑った。笑い声は誰もいない森の中で少し大きく響いた。
「‥‥闇の中の赤子とは、よく言ったものだ」
やがて男は言った。先ほど、良庵に言われた台詞をそのまま反芻した言葉だった。
── 心に迷いあらば、闇の中の赤子に同じ ──
否定することの出来ない言葉だった。確かに自分はそういうものだった。迷い、ただ迷い、そしていつも何も出来なかった。この刀を持っていながら誰も救えず、己が進むべき道もわからず‥‥。日向が滅びたのは皆が戦う道を選んだせいだと、左近はそう思い続けてきた。
あの日、日向が焼かれた日、あの里の者たちは里の総勢で戦うことを選んだのだ。
『だからこそ』、心の底で男は日向の人々をののしり続けてきた。
皆で逃げれば良かったのだと。
女子供だけでもいい。里を捨てることになってもいい。誇りなど命の前ではどうでもいい。ただ、一人でも多く生き延びさせようとしていたなら。
それだけを考えていたなら日向が全滅することは無かったに違いないのにと、余りにも愚かだと、左近はずっとそう思い続けてきたのだ。
嘘ではない。それは本心からの思いだった。
けれど、その奥にはもう一つの想いが潜んでいた。
認めたくなかった己の弱さが胸の奥には確かにあったのだ。
「師匠‥‥」
低く押し殺した声で男は問い尋ねた。
「なぜ、あなたは俺などにこの刀を託したのです‥‥」
自分でなかったなら。
長く胸の奥にあった言葉が吹き出そうとしていた。
本当はずっと以前から、その言葉は常に男の意識の底にあったのだ。
『本当は、救えたのではないか』
その思いが吐きそうなほどの強さでこみ上げてくる。
いっそ御神刀に何の力もなければ、まだ救いがあったろうと男は思う。
魔を断ち和をもたらす力などという話はただの言い伝えにすぎず、この刀が少しばかり青い輝きを湛えるだけの、誰が振るっても決してそれ以上の力を放つことのない刀であれば、自分自身はまだ救われただろう。
けれど、この刀に尋常でない力が秘められていることは、既に綾之介が ── 否、綾女という名の少女が証明してしまっていた。刀が力を放つのは、強い思い故だった。だからこそ一度浮かんだ思いは、もう左近の頭から離れなかった。
『この刀を継いだのが俺でなければ』。
強烈なまでの無力感を伴って、その言葉は襲いかかる。
『俺でなければ、日向は滅びずに済んだのではないのか』。
師は迷うものでなければこの刀は振るえぬと言った。
だが、この刀を継いだのがあの里のために心から剣を振るえる者であったなら ── 迷いなく、守ることだけを見据えられる者であったとしたら、日向が滅びることなどなかったのではないのか。
自分以外の者ならばこの刀の力を引き出せたのではないのか。
その問いが消えなかった。
そして、男は知っている。
自分の迷いは今なお消えてはいなかった。日向のために戦えなかったように、自分はこの伊賀でも戦うことが出来なかった。
救えたかも知れない人々を、また救えなかった。
己が進むこの迷いの道は、この先も助けられるはずだった者たちの屍で埋まっていくに違いなかった。
今は別れ際の陣平の瞳が目に浮かぶ。
いつでも真っ直ぐに人の目を見て話す少年だった。照れもせず、『左近様のように強くなりたい』と当の本人を前にして語るような少年だった。
別れの時も、やはり少年は迷いのない澄んだ瞳をしていた。
その先にある道は悲しく、辛いものだった。それでも少年の目は変わらず真っ直ぐにその道を見据えていた。すべてを見通した上で、痛みを覚えながらも逃げるわけには行かないと語った。
「この里に生まれたときから、俺は仲間とともに生きてきたのですから」────
少年の言葉を思い出して左近は自分の腕を抱く手に爪痕が残るほど力を込めた。
あの言葉を聞いたとき、男は何かで胸を刺されたように感じたのだ。
少年は仲間とともに戦うことを選んだ。
もし自分がそう言い切るだけの想いを日向に対して抱けていたのなら、この御神刀は力を放ったかも知れなかった。日向は滅びずに済んだかも知れなかった。
自分が、あの少年のような人間であったなら。
男はきつく自分を抱きしめた。
「陣平‥‥」
押し殺すような声で左近は言った。
「俺こそが‥‥お前のような強さを持ちたかったのだ‥‥‥‥‥」
男は音がするほど強く奥歯をかみしめた。
そうしなければ、嗚咽が洩れてしまいそうだった。