menu罪 6
時間は少し、前後する。
「左近‥‥さまっ」
腕の中の女が上げた声に左近は眉を寄せた。戦というのは多かれ少なかれ人の心をすさませるもので、戦から生き残った、あるいは近々戦に向かう男たちが無償に女を欲することはある意味道理にもかなっており、珍しいことではない。
取り立ててそういう気分ではなかったはずの己が、今宵この女に誘われた時にどうしてその気になったのか、その理由を左近はそうした男の(あるいは生き物の)摂理だと思っていた。
だが、本当の理由を左近は不覚にも今になって悟った。
”声が似ている”のだ。
男は歯噛みしたいような感情を自分に対して覚えたが、それに気づくともうどうしようもなかった。
左近は目を閉ざすと、女の耳に囁きかけた。
「さま付けはいらぬ。左近でいい」
男が何を思ったのか、あるいは妄想したのか。幸いにも当人以外が知ることはなかった。+
+
『闇』
+
+ことを済ませてしまえば後味の悪さはこの上なく、左近は早々に女のもとを後にした。
外に出ると乾いた強い風が吹いていた。風にまぎれて聞こえてくる虫の音が、どこか虚しい。
虚しさの理由は明白だった。その強い風も、秋の虫の声も、自分の中に存在する苦さを運び去ってくれそうにないからだ。
複数の相手に対する後ろめたさが、胸のあたりにわだかまっている。
あえてその苦さから目を逸らせば、男の脳裏にはふとひとつの顔が思い浮かんだ。
(こんな俺を知ったら陣平辺りはどう思うのだろうな)
苦笑交じりの自問に対して、答えはすぐに浮かんだ。
── 幻滅されるだろう。
今度こそ左近は顔に出して苦く笑った。あの少年に幻滅されるような真似を、己は間違いなくやったのだ。
周囲の暗さが今はありがたかった。ありがたい、とはっきり言葉にして男は思った。
雨戸は開け放たれ、廊下の柱に備え付けられた燭台の火は風になぶられて揺れるばかりで頼りないことこの上なく、新月が近いのかそれとも曇っているのか月明かりもなかった。
これだけ暗ければ、苦笑を浮べようが自嘲を浮べようが誰に見られることもない。
逆を返せば、色素の薄い左近の目をもってしても遠くの人影が一体誰なのかを見分けることが出来ない。
それほどに、この夜は確かに暗かった。自室に向かう途中、誰かが庭を眺めるように縁側に座っているのが見て取れた。こんな時に何をしているのかと疑問は覚えたが、取り立てて危険な気配もなかったため男はそのまま足を進めた。
それが今もっとも顔を合わせたくない相手だと気づいた時には、向こうもこちらに気づいた様子だった。
こうなるともう、今さら『回れ右』はできない。男は止まりかけた足を無理やり前に進めた。
「お主であったか」
左近を認めた綾之介は少し笑ったようだった。
声を掛けられて、男は相手といま少しの間が残る距離まで近づいたところで足を止めた。
反射的に”こんな時分に何をしている?”と、そう問いかけようとした左近は、辛うじて言葉を飲み込んだ。
そんなことを聞けば、同じ問いが自分に跳ね返ってくるのは疑いようもない。それを聞かれることだけは避けたい気分だった。
結局、発する言葉が思いつかず、左近は自分のつくった不自然な沈黙に足を止めてしまったことを後悔した。短く挨拶でも交わして、ただ通り過ぎればよかったのだ。
しかし、幸いなことに綾之介は沈黙する男を訝しむ様子を見せなかった。
ただ、今度はきちんと笑みだとわかる表情を浮べて言葉を続けた。
「あまり足音や気配を上手く消せるというのも考えものだな。人ではないかと思ったぞ。
何もこんなところでまで気配を消さずとも良かろうに」
「身に染み付いた癖のようなものだ。今さらそうは直らん」
男がようやくのことで返した言葉は比較的すんなりと口から出たように聞こえた。麻痺から解放された舌に、左近は安堵の息を小さくつく。
── とはいえ、長居は無用ということに変わりはない。
「左近」
「なんだ?」
このまま会話を短く切り上げてしまえと、そんなことを考えていた男は呼ばれて反射的に顔を上げた。そんな男を見上げて、綾之介は言った。
「少し話をしていかぬか?」
左近の喉元で軽く息が止まった。
一瞬、自分が何か聞き間違えたかと思い、次にこれはあらぬ妄想の続きかと考えたがいくらなんでもそんなはずはない。
けれど、綾之介がこんなことを自分に言うのは珍しかった。
綾之介は黙って男を見つめている。
「‥‥そなたが、そのようなことを言うのは珍しいな」
「そうか?」
男が率直な感想を口にすれば、綾之介は少し首を傾げた。
その仕草に左近は初めてわずかな違和感を覚えた。どこがどうというわけではない。ただ、心もち普段の彼女より挙動が鈍いように感じられたのだ。
「眠れぬのか?」
この時の左近の問いかけはやや唐突なものだったろう。けれど、綾之介は動じた様子も見せずゆっくりと男から庭へと目を戻した。
「少しな」
一拍の間を置いて、そんな返事をする。
綾之介の様子が明らかにおかしいことに左近はようやく気づいた。
男が多少落ち着きを取り戻した上で改めて見つめれば、綾之介の挙動は心もちどころか明らかに鈍く、その瞳はどこか虚ろな印象を与えた。少し風向きが変わって、闇から吹き付けてくる風に女の髪がたなびいた。細く白い首が暗闇に浮かび上がって見えて、男は思わず思考を止めると、視線をあらぬ方へやった。
「眠れる時に眠っておかぬと身が持たぬぞ」
言ってから、ずいぶんつまらぬ事を口にしたと左近は内心で舌打ちした。男が口にしたのはあまりにも初歩的な事柄で、今さら綾之介には言う必要もないことだ。あの少年に接する時の態度が癖になったかもしれない ── 男は忌々しさと同時に自嘲の衝動も覚えた。
だが、そんな男の言葉に対しても綾之介は曖昧に頷くだけで、部屋に戻るつもりはないようだった。眠れないと語ったことは決して嘘ではないのだろう。相応の理由もあるに違いない。
綾之介が見つめる庭は闇に沈んでいる。
相手のこの姿に、左近は嫌な感じを覚えた。
綾之介と前に顔を合わせたのは一昨日の昼だった。その時に、明日は偵察に行くとこの相手が語ったことを記憶している。
(何かあったか‥‥)
男はそう思った。けれど、それそのまま口に出して問うことは出来ない。
少なくとも、左近には出来なかった。
男は黙って柱に背を預けた。
いかにも”お前の話に興味などないのだが”という素振りで綾之介の方から話し始めるのを待つ。
ここにいるのが自分ではなく龍馬なら ── 、そんな思いが一瞬男の脳裏をよぎった。綾之介が再び口を開くまで、時間はそれほどかからなかった。
「少し、昔のことを思い出していたのだ」
「昔というと‥‥香澄の話か」
「ああ」
何かを思い出すような眼差しで、綾之介は口元にたゆたうような笑みを浮べた。
「それも幼い頃のことだ。四つか、五つか。
その頃の私はひどく闇を怖がったのだ。誰かが脅かすような話でもしたのだろうな。夜になると怖くて怖くて、いつも兄上にしがみついていた」
兄のことを語るとき、綾之介の表情はいつも少しだけ甘くなり、憂いは一段と深くなる。
「兄には笑って言われたものだ。『闇を恐れているようではとても忍にはなれぬぞ』とな」
綾之介は言いながら、風に揺れる髪を軽く抑えた。
その彼女の口元も目元も笑っていたが、瞳の奥深くだけは笑っていないのを男は見て取った。
左近が自分を見つめなおしたことに綾之介は気づかなかったのだろう。彼女は変わらぬ調子で昔語りを続けた。
「私は必死で言い訳したものだ。自分が怖いのは闇などではなくお化けです ── などと言ってな」
「‥‥そなたの兄者は、なんと答えた?」
「『馬鹿なことを』」
兄の真似をしてなのか、綾之介はいつもより少しだけ声を低めてそう言った。
「私の母は私を産んですぐに亡くなった。だから、もし私の前に出てくるものがあるとすれば、真っ先に現れるのは私を案じる母上だろうと言われたのだ」
伏せていた目を綾之介は少し上げたが、その目はこの世のどこも見ていないようだった。
「それ以来、闇を恐れたことはなかったな」
綾之介の言葉は男の心の片隅を『共感』の響きで震わせた。
もう一度あいたいのだ。それが死者であろうとなんであろうと。
「確かに‥‥そういうものかもしれぬな」
それでも控えめに男は答えた。そして、あくまで他人事として言葉を続けた。
「今のそなたならば、化けてでも出てきて欲しい者たちがいくらでもおろう」
しかし、綾之介は頭(かぶり)を振った。
「いや」
左近は少なからず意外に思って綾之介を見つめた。
彼女は笑みを消していた。
何が見えるというのか、眼前の暗い庭を凝視して綾之介は言った。
「これまでのいつより、今の私には闇が怖い」
「‥‥‥」
その一言は何か黒い染みのように左近の胸に不吉な影を落とした。
──── 綾之介は自らの行いの意味を知らぬはずだ。
染みはやがて形を変えて、男の胸にそんな言葉を描いた。
そう、綾之介は戦いの裏に存在する『現実』を知らないはずだった。
知らぬままで良いと男は過去に願い、伝えるべきことすら伝えなかったのだから。
彼女が闇を恐れるというのなら、それは何か別の理由であるはずだった。別の理由でなければならないのだ。
暗い予感から敢えて目を逸らし、男は尋ねる。
「なぜだ? 人ならぬものを相手にするようになったからか?」
「人を相手にしているからこそだ」
「どういう意味だ」
「わからぬか?」
不安という名の黒い染みが胸に浸透して来るようで、吹き付けてくる風に左近は肌寒さを覚えた。
「私を恨んでやまぬものたちがどれほどいるのかと考えれば、この闇ほど恐ろしいものはない」
綾之介は再び小さく笑ったように見えた。
自嘲、微苦笑。あるいはもっと歪んだ笑みだった。
「亡霊にしろ生き霊にしろ、私をとり殺したくて仕方のない者たちが、この闇の中にはいくらもいるのであろうな。私がやってきたことを思えば、それも無理からぬことだが」
「戦とは、そういうものだ」
一瞬の空白の後、男の口はそんな台詞を吐き出していた。
発した瞬間、安易で無責任な慰めであることに気づいて左近は激しい後悔の念に襲われた。
その言葉は他ならぬ自分が頷けないものだった。絶対に認めることの出来ないものだった。
(それでも‥‥)
ちらりと別の思考も左近の胸のうちを走る。
(それでも、こんな言葉で綾之介が救われるというならば‥‥‥)
しかし、綾之介は男の言葉に対してすぐに反応を返さなかった。
彼女はしばらく左近を無言で見つめた。
自分が放った言葉に納得していない男の心境を、どこまでも見透かすような瞳だった。「あなたなら、そう言われて頷けるのですか」
「綾之介?」
突然、普段の彼女のものとは似てもにつかない口調で語られた言葉に男は愕然として相手を見やった。
呼ばれた本人は、どういうわけか声に出して笑っていた。可笑しくて仕方がないというような笑い方だった。
ただし、その声はむなしいほどに乾いている。
少し笑いを収めると、男のなりをした娘は遠い目をして語った。
「同じことを私も言ったのだ。あれは戦だった。戦とはそういうものだ ── 」
まだ少し笑いに肩を震わせながら、綾之介は言葉を続けた。
「そして、今のように返された。『あなたなら、納得できるのですか』」
それは肩をすくめるような口調だった。
左近が顔色を変えた。
綾之介が‥‥少なくともこの春以降の綾之介が、誰にも教えられないままで戦の現実を悟るはずがなかったことに男は思い至った。
そうなれば、当然誰かが綾之介に教えたことになる。
「いったい何の話だ」
鋭さを増した男の口調に、綾之介は真顔に戻った。
庭を吹きぬける風に、揺れた低木が人々のざわめきのような音を立てている。
「そなたにそんな話をしたのは誰だ?」
戦というものに付き纏う現実を綾之介に教えたのが自分たちと同じ側の人間であれば、まだましだと左近は思った。
湧き上がる不安感を押さえ込んで、男は続けざまに問いかける。
綾之介は闇から聞こえる木々のざわめきに耳を傾けているようだった。
その唇がゆっくりと開かれた。
「── 私に夫と、子どもの父親を殺された女だ」
強い風が吹き抜けて、百地邸の庭ですすり泣くような音を立てた。
「こんな声で、泣いて私を責めていた」
暗い闇を細めた目に映して、綾之介は言った。
かける言葉を失って、左近はその場に立ちつくした。
そして、綾之介はさらに一言付け加えた。
それは他人に聞かせるつもりのない、独り言だったのかもしれない。
そう思うほどに、綾之介の声は小さかった。
けれど、その声は風に乗って男の耳に届いてしまった。
「私を憎んでやまぬなら、いっそ連れて行けばいいものを‥‥」
その一言は細く鋭い針のように男の胸を突いて、左近は息を呑んだ。
風が吹いて燭台の炎は今にも消えそうに揺らめいた。
”報い”という言葉が頭上に落ちかかってくるのを左近は感じた。
流される血の量を知っていながらそれを止める努力を意図的に怠った ── 夏のあの日に自分が犯した罪の報いが目の前にあった。
『己が行いの程を知れ』。
闇からのざわめきは、男の耳にはそんな言葉になって聞こえた。
「死者には、何も出来はせぬ」
長い長い ── と少なくとも一方には思われた ── 沈黙の果てに左近は声を絞り出した。
衝撃が支配した声帯から声を発するためには、意識して喉元に力を込める必要があった。
「俺や、そなたを憎むものがどれほどこの闇の中に潜んでいたとしても、怖れる必要などありはせぬのだ」
「そういうものであろうかな‥‥」
男の声には苦さがにじみ出していた。綾之介の声は、ただ虚ろだった。
だが、左近はそのどちらにも構わずに言葉を続けた。
「少なくとも、そなたが自ら『あちら側』へでも行ってやらぬ限り、死者には何も出来ぬ」
綾之介は顔を上げた。
驚いたようなその目には、久しぶりにわずかな光が戻ったように見えた。
「左近‥‥」
綾之介はそう呟くと、言葉を探すように小さく唇を二度、三度と開閉させた。けれど、結局言うべき言葉は見つからなかったらしい。
左近は女から視線を外した。
本当に恐ろしいのは綾之介自身の中に確かに存在する心の闇だろうと、男は思う。
「怖れることはない。死んでしまった者には、何も出来ぬのだ」
死者という存在をまるで突き放すような口調で左近は言い切った。
けれど、心の底から男は思った。
(だからこそ、人を殺めることは許されぬ)
そう言葉にすることで改めて自らの罪深さを知る。今さらのように、その現実に胸が痛んだ。
だが、もうすべては遅い。
綾之介は男の次の言葉を待つように、しばらく見上げていた。
けれど、左近にこれ以上口に出して語る言葉は無かった。
やがて、綾之介のほうが呟きを洩らした。
「‥‥‥‥ならば余計に私が許されることはないのだろうな」
「 ──── 」
自分の心の声が通じてしまったような彼女の言葉に、左近は再び視線を相手に向けた。綾之介はふらりと、どこか不安定な気配を漂わせながら立ち上がるところだった。
女のその目は暗く沈んだまま、始めと同じように眼前の広がる闇を見つめていた。
「私に殺された人々は何も出来ぬだけであって、私を許したわけではなかろう?」
か細い声だった。
「私が殺めた人々は、私の苦しみを願うだけで直に復讐することすら叶わぬのだ。憎しみは募るばかりであろう。
左近 ── 」
自分を振り返った綾之介の目に、悲痛なほどの表情が浮かんでいるのを左近は見た。
「いったい、何のためであれば人を殺めることは許されるのだろうな?」
風が一瞬止まった。(なぜ‥‥‥)
男は心の中で、はっきり音にして何故、と問うた。
なぜ、この問いを受けるのがよりにもよって自分なのか。
罵りに近い強さで男はそう問い掛けた。
自分ほどその問いに対する答えが導き出せない者を、左近は己の他に知らない。
例え綾之介がどれほどその答えを求めていても、その答えの中に救いを見出そうとしているのだとわかっても、自分には答えられない。
むしろ、他の誰でもない自分が、その答えを欲してやまないのだ。
そして、未だに手に入れられずにいる。だから、男はやがてわずかに首を振った。
「‥‥‥俺には、わからぬ」
「そうか」
瞳に浮かんでいた切実なまでの光を消して、綾之介は短くそれだけ呟いた。
「そろそろ戻る。── くだらぬ話をしたな」
「いや」
綾之介はもはや微かに笑って見せることもせずに男に背を向けると、歩き出した。
彼女の行く先に置かれる燭の小さな火が、風の中で今にも消えそうだった。
この夜よりしばらくの後、伊賀の里は信長軍の侵入を受け、男はひとり伊賀を後にした。