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  罪 8
 

村々が燃えていた。
砦ばかりではなく民家にまで幾本もの火矢が突き刺さり、炎を吹き上げている。
そうした家々の間には人々の亡骸が地に伏していた。亡骸という以上、既に息はない。
首領である百地三太夫を失った伊賀に、もはや織田軍の勢いを止める術などなかった。

その身を朧衆に奪われ伊賀を裏切った女は龍馬によって既に滅せられていた。
だが、伊賀の村々がこんな姿になることを止めることは出来なかった。
すべては遅すぎたと、そう言うより他にない。
自分を殺して欲しいと願った者の哀しみも、その願いを聞き入れた者の痛みも、甲賀口が破られた今となっては何の意味も持たないように思われた。
(そんなはずはない)
綾之介はこの考えを否定したかった。
あんな哀しい願いが、ひどい痛みが、何の意味も持たないなどと‥‥そんなことがあって良いはずがないと。
それでも、いつも、動かし難い現実はそこに存在して、揺らぐことはないのだ。

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『悲哀』
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炎によって熱せられた風に、綾之介の頬に掛かる髪が舞い上がった。
顔に吹き付ける熱風は一瞬息が詰まるほどに熱い。そして、独特の臭気をはらんでいる。
綾之介は瞳を上げると、燃える村々を見つめた。
その辺りは既に信長軍がさんざん蹂躙してまわった後だった。
地に伏して二度と立ち上がることのない人々の姿は多岐に及んでいる。
忍び装束の男は無論、女、老人、子ども‥‥‥そんなことに関わらず殺して回ったのだ、奴らは。
眼前の家々は藁葺き屋根がほとんどで、そろそろ焼け落ちそうな有様だった。
そして、あたりに立ちこめるこの『臭い』。
昔は何を意味するのかわからなかったその焦げ臭さの意味も、今の綾之介にはいやになるほど良くわかる。
炎が放射する熱に、瞼と頬が火照って熱い。綾之介は手をかざして炎の熱から顔をかばった。

綾之介が焼かれる里を見るのはこれで三度目になった。
三度は、一生の内に(焼かれる立場の人間として)経験するには十分すぎる数だろう。
知らずにすめば幸せなことが一体この世にはどれだけあるのか。そう思わずにはいられない出来事も自分はずいぶんわかるようにしまった。綾之介はそう思う。
こんな眺めは、一度見るだけでも人の心に余るものなのだ。
(三度は多すぎる‥‥)
心の底から綾之介はそう思った。
ふっと、視界のすみが明るくなった。見れば赤い炎の間を裂いて金色の火が一瞬パッと輝いた。
バチッと火のはぜる音がして、見上げれば火の粉が暗い夜空に輝きながら昇っていくところだった。赤々と燃える火の粉の代わりには灰が舞い降りてきた。
辺りは静かだった。ただぱちぱちと炎の音が聞こえるだけで、それ以外に音はない。
多くの者が既にもの言わぬ亡骸になっている。
陣平という少年もこの戦いで命を落としていた。
激しい戦いの中で亡骸さえ見つかっていない者も、少なくない。
綾之介と偵察を度々ともにした善三という男などはこちらに含まれているという話を、綾之介たちは甲賀の女を討つ以前に聞いていた。
かろうじて生き残った者たちも言葉を失い、疲れ果てて動く気力すらない。
辺りは嘘のように静かだった。
静けさの中で、立ち上っていく灰色の煙と振り注ぐ黒い灰の影だけが、赤い炎に照らし出されて良く見える。
そんな眺めを見つめながら不思議なものだと綾之介は思った。
(こんなにも勢いよく燃えさかっているのに、どうして炎は暗く見えるのか‥‥)
ユラユラと揺れる炎はあまり明るく見えなかった。間違いなく周囲を照らし出している炎なのだが、暗い夜空を背景にしているためだろうか。
それとも、これと同じ炎の中で自分はすべてを失ったせいであろうか。
綾之介は自らに問いかけたが、答えは出そうになかった。
綾之介の意識の中で、人の住処を焼いて揺れる火と香澄の情景を切り離すことは出来ない。
(だから、私の目には炎が暗く映るのだろうか?)
その炎を見つめながら、その炎に消えた香澄を振り返って綾之介は心から思う。
── あの里で変わりなく皆と生きてゆけるなら、私は他に何も望まなかった。
そして、この炎によってそのすべてを奪われた。同時にいやでも悟ることになった。
『それさえあれば他には何もいらない』と思えるすべての人を失っても、人間は生きてゆかなければならないのだと。
だからこそ、人の生はこんなにも悲しい。
 

── この里の多くの者たちが、今宵、その悲しさを知ったのだろう。
綾之介はそう思いながら、自分の隣に立つ男へと目を向けた。
(龍馬殿も、その一人か‥‥)
龍馬は先ほどからじっと伊賀の村々を眺めていた。静かな表情だった。
少なくとも、その面から波立つ心の揺らぎのようなものを感じることは出来ない。静かで、厳しい表情だ。
そんな龍馬の面立ちには見覚えがあった。
綾之介は思い出していた。
葉ヶ塊を発つ時にもこのひとはこんな顔をしていた。
憂いを決意が上回っている、そんな顔をして龍馬は自分の里を見つめ、そして旅立った。
今ならはっきりわかる、と綾之介は思った。これが龍馬の耐え方なのだ。それはおそらく、この男の戦う姿勢でもあった。
あるいは今宵のことがあっても、もし彼の妹が ── 綾之介のために命を落としたあの少女が生きていたなら、彼もこうまで辛い思いはしなくてすんだのかも知れない。
綾之介は少なからずいたたまれなかった。
胸の痛みを覚えながら、綾之介は低く問いかけた。
「‥‥龍馬殿、我らも柏原に向かうか?」
名張の柏原には伊賀の残った戦力が結集しようとしている。そこが最後の砦となるはずだった。 ── 伊賀を守るためではなく、あくまで、伊賀忍の誇りを見せるための砦ではあるが。
しかし、龍馬はゆるく首を横に振った。
「いや‥‥あしらはおらん方がええじゃろ。少しでも追及の手が弱まるかも知れんきに」
落ち込んでいても龍馬の言葉は的確だった。
それ故に、綾之介は視線を伏せるとわずかに唇を噛んだ。
「この里が焼かれたのは、やはり我らのせいか‥‥」
それは改めて確認する必要のないことであったかも知れない。少なくとも、これほどの大群で伊賀が織田に責められる理由は、他にないように思われた。
だが、唇を噛む綾之介の背中を大きな手がぽんと叩いた。
「綾之介殿、責める相手を見誤ったらいかんぜよ」
綾之介は再び顔を上げて龍馬を見上げた。
龍馬は厳しい表情を少しだけ、本当に少しだけ和らげて言った。
「あしらの里を焼き、この伊賀を焼いたのは誰じゃった?」
「 ──── 織田、信長」
「そがいゆうことじゃ」
綾之介は一瞬ためらった後に、頷きを返した。
こんな龍馬に気を遣わせていること自体が間違いなのだと思う。
彼女は自分の二の腕を掴んだ。
(そうだ‥‥伊賀を焼いたのは、私ではない)
自らを押さえつけるように、綾之介はこの言葉を繰り返した。
責められるべきは織田信長だった。
それは分かり切っていた。
信長に対する憎しみを忘れたわけでもなかった。というより、どうしてもそれは忘れられないものだった。
その名を思うだけで一瞬めまいを覚えるほどの憎しみが血の中を巡るのを感じるのだ。
責める相手ははっきりと意識の中にあった。絶対に許すことの出来ない者として、胸の奥に刻みついている。
「わかっている」
綾之介はそう言葉に出して、意識を固くした。
「では、一刻も早くここを発ちましょう」
「そうじゃな」
綾之介はもう一度、村を見つめた。火の勢いは徐々に失われつつあった。
周囲はなお一層静かになろうとしている。
それでもいいと綾之介は思う。
この伊賀は滅びたわけではなかった。里を再建するのに十分な数の人々がきっと生き残るはずだった。
何度でも同じ言葉を繰り返す。
伊賀は滅んだわけではない。
今は静寂に沈んでいても、やがて生気を取り戻すに違いないのだ。葉ヶ塊がそうであったから、彼女には良くわかった。
もはや二度と沸き立つことのない香澄とは違う。 ── おそらく、日向とも。
滅んだ里は二度と人の声に満ちることはなく、死んだ者たちは二度と口を利かない。
わずかな孤独を綾之介は感じた気がした。今、自分のそばに、ただ一人生き残ってしまった者の痛みをわかりあえる相手は誰もいなくて、それが寂しかった。
綾之介は一度ゆるく頭を振った。
「伊賀を発つ前に、誰かに一声かけて行かねばならぬだろうな」
「そうじゃな。荷物なんぞはどうでもええが、誰にもなんも言わんと出ていくわけにはいかんじゃろうて」
龍馬は頷き、綾之介は周囲に目をやった。
この辺りの生きている者たちの中に、彼らが良く知る顔がないことは既にわかっていた。
二人はゆっくりと足を進めた。顔を見知った者が生き残っていないか、周囲を見回しながら焦げ臭い中を少しずつ進んだ。
ふっと、綾之介が足を止めた。
「龍馬殿‥‥」
綾之介は軽く男の袖を引っ張った。
「誰かおったがか?」
綾之介はすぐに答えようとせず、ただじっと一方向に顔を向けていた。
龍馬はしばらく怪訝な顔でその様子を見ていたが、やがてハッとした。
静寂を割って聞こえてくる小さな声があった。
「これは‥‥赤子の泣き声かの?」
綾之介は首を縦に振って、パッと走り出した。
 

一軒の、これもごうごうと燃える家の前に人が倒れ伏していた。
細い背中が炎の輝きを逆光に受けて黒く浮かび上がり、影が地に長く伸びている。
その細い女の背中を見て綾之介は思わず足を止めてしまった。地に伏せるような姿勢に、いつぞやの若い母親の背中が重なって見えた。
「綾之介殿?」
追いついた龍馬にうしろから声をかけられて、綾之介は我に返った。
「何でもない」
そう答えて、綾之介は一つ息を吐いた。
赤子の声は間違いなくその女の体の下から聞こえてきている。
綾之介は再び倒れている女に向けて足を進めて、そのそばに膝をついた。近寄ってみれば ── 当たり前なのだが ── あの森で出逢った若い母親とは明らかに違う女だった。
その女が既に絶命していることは、すぐに分かった。
背中を斜めに刀の傷が走っている。一太刀でばっさりとやられたように見えた。すぐ脇で燃える炎のせいもあってか、傷口の血は既に堅く乾いて黒く変色していた。
綾之介は一度手を合わせてから躊躇いがちに女の肩を掴んだ。龍馬がその姿を背後から覗き込んで言った。
「母御の方は、もう駄目じゃろうか‥‥」
「‥‥ええ」
龍馬の控えめな問いかけに綾之介も控えめに答えて、そっと女の肩を引いた。
既に絶命してから一刻以上も経っていたのだろう。その遺体は硬直が始まっていて、固まったままごろりと転がった。
「 ──── 」
綾之介は‥‥龍馬も、思わず顔をしかめていた。女はひどい形相で息絶えていた。人の死に様などこんなものだと分かっていても、一瞬目を背けたくなるような顔だった。
その女の胸には、赤子がしっかりと抱かれていた。
死してなお我が子を守りぬこうとする。これが人の親の姿なのだと思う。
赤子は堅くなった母親の腕から這い出そうとするように両手両足を動かしてもがいていた。
綾之介はその泣きわめく子を助け上げようと手を伸ばした。
(あの若い母親も、こうして我が子を守ろうとしていたな‥‥)
ふっと、綾之介はそう思った。その瞬間、耳鳴りがした。

── 血にまみれた女の手で、赤子は抱けませんでしょう?

綾之介は思わずびくりと動きを止めた。
女の声が聞こえた。
無論、実際に空気を振るわした声ではない。それは記憶の底から響く声だった。それでも、綾之介はその声を確かに耳で聞いたと思った。
「‥‥‥‥」
綾之介の手は、そのまま動かなくなった。
まるで見えない壁でもあるように、指先はやや子に触れる直前で凍り付いて前へは進まない。
綾之介は肩で数度息を繰り返した。汗が一筋、こめかみを流れ落ちた。
彼女はやがて震える手をそろそろと引っ込めた。それ以上伸ばすことは出来なくても、引くことは驚くほど容易だった。
「綾之介殿、どがいした?」
綾之介は立ち上がると、龍馬の呼びかけを無視して声を上げた。
「誰か‥‥、誰かいないのか!?」
子どもは泣き続けている。
「誰か!!」
「か‥‥陰忍の、お二方‥‥‥?」
木のかげから呼びかけられて龍馬と綾之介はそちらに顔を向けた。足を引きずりながら歩み寄ってきた男の顔に二人は見覚えがあった。伊賀の中忍の一人だった。
男の顔は泥とすすに汚れて、足には矢傷も受けていたようだったが命に別状はないと見えた。男は二人の顔を見て、口惜しいですと涙にむせんだ。
綾之介はわずかに頷いてから言った。
「‥‥ここに赤子がいるのだ、助けてやってくれ」
それだけ言うと、彼女は赤子に背を向けた。
「は、はい」
男は痛めた足で死んだ女の元に近寄って、女の腕から赤子を抱き上げた。
女の顔を見て、男はかすかに息を詰めたようだった。
「この女は‥‥‥」
「知っちょる相手か?」
龍馬の問いに男は小さく頷いた。
「お二方もご記憶でしょうか‥‥。陣平という下忍の姉です」
綾之介は赤子を振り返った。その勢いで、結った髪の端が軽く頬を打った。
「間違いないのか?」
「命尽きて面変わりはしておりますが、間違いありませぬ」
「‥‥そう、か」
綾之介の瞳を長い睫毛の影が覆った。
(そうか‥あの時の‥‥‥)
綾之介は拳を握った。陣平の姉の子を、彼女は以前腕に抱いた記憶があった。
あの時の赤子の命が助かった ── 。
そのことだけでも喜ぶべきなのかも知れない。けれど、胸の奥には暗く重い物が濃霧のように立ちこめていて、結局その幼子の姿をまともに見ることができなくなった。
耳鳴りはまだ続いている。
静けさはもう感じられず、伏せた瞼の裏に、綾之介は涙で濡れた女の目を見ていた。

龍馬は赤子から顔を背けて体を固くしている綾之介に一度だけ目をやった。
「あしらは、このまま伊賀を発つ。信長の狙いの多くはあしらのはずじゃき‥‥この先が少し楽になるかもしれん。そのことを伊賀の衆に伝えちょいてくれ」
「龍馬様‥‥綾之介様も。伊賀は、伊賀の皆は決して陰忍のお二方を、陰忍の皆様を恨んではおりません。
 憎むべきは信長です。どうか、どうか伊賀のためにも信長を討ってください!」
綾之介は目を上げて思わず龍馬を見上げた。
龍馬は綾之介に対して、小さく頷いて見せた。
ふと、その龍馬の姿に似ても似つかぬ左近のことが思い出された。何故あの男が去り際、自分に対して意志を確かめるようなことを言ったのか、わかった気がした。
綾之介は伊賀の男に向かって口を開いた。
「信長を倒すことは、我らの悲願だ。必ず果たすと誓おう」
綾之介はその誓いにかけて、決意を新たにしたいと思った。
けれど、心の奥からは後ろ向きな声が波となって聞こえて来る。
(‥‥責める立場にあったのは私の方だったはずだ)
それは嘘ではないと思う。今でも、自分は責めるものであると思う。
けれど、同じように自分もまた責められている。責められる者になってしまったことを綾之介は知っていた。
半年前、春の香澄で綾之介の夢に現れた『今は亡き』女は言ったのだ。
己が流した血の重みに自らも倒れる日まで血を流しつづけるのか、と。
その問いを否定することは出来なくなってしまったと、綾之介は思った。
先ほどの戦いで織田の兵にとどめを刺した時に浴びた血の感触が、頬の辺りに甦る。
戦場で聞いた人の最期の叫びが何十も重なり、耳鳴りとなってうなりを上げた。
(許される日は来ないだろう)
綾之介は胸の深くで呟いた。
いつか、例え織田信長を倒したあとも己が信長を許せそうにないのと同じに、自分が許される日も、決してやっては来ないだろう。
仮にどれほどの償いをしたとしても、失われた命は甦ることがない。
償いきることの出来ない罪の重みを背負いながら、自分は生きていかなければならないはずだった。

信長を倒さずして死ぬことは出来ないのだ。初めから、その結論は出ていた。
けれど、最後に問いは残る。
痛みを周囲に拡散しながら悲しい生を生きている自分は正しいのか。そもそも何のために戦っているのか。
一度見失ったその答えを、綾之介は今しばらく見つけられそうになかった。

< 続 >
 
 

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