menu罪 3
のどかな、と呼ぶには少しばかり暑い夏の午後だった。
緑が陽射しに輝き、陰の色は濃く、土が白く見えた。
あぶら蝉の鳴く声は遠く、軒下から見上げる空は鮮やかな青で、高い。
高いのは空だけでなく気温もそうなのだが、それでも左近が座っている東向きの縁側は、この時間になれば日差しが直接当たることはなく、心地よい風も吹いてくる。
しかし、男はお世辞にも機嫌がいいとは言えない状態にあった。+
+
『弱さ』
+
+偶然その場を通りかかった黒髪の麗人が、男の姿を目にして思わず立ち止まった。
綾之介はこのところ前線と呼ばれるような場所からは遠ざけられ、もっぱら偵察に回されることが増えていたが、この時もその役目を終えて戻ってきたところであったらしい。
「左近‥‥御主、何をしているのだ?」
その顔に”驚愕”の二文字を貼り付けて綾之介はそう尋ねた。その声は堅く、わずかに震えていたかもしれない。
この偶然に対して、左近は思いつく限りの罵詈雑言を胸の内で浴びせかけた。はっきり言って、この相手にだけは絶対に見られたくない姿だった。
それでも表情だけは冷ややかに男は尋ね返す。
「何をしているように見える?」
綾之介は一つ息を呑み、答えた。「子守り」
「そうであろうな。俺も他のことをしているつもりはない」憮然として男が言えば、綾之介は思わず口元を手で押さえた。その肩が小刻みに震えていた。本当は腹を抱えて笑いたいところだろうが、そこは寝ている赤子に気を遣ったようだった。左近は諦めたように天を仰いだ。
不機嫌も極まった自分に抱かれていながら、熟睡している赤子の度胸にも呆れていた。
口元を抑えたまま、綾之介は近づいてそのやや子を覗き込む。
「よく寝ているな」
── まったくいい度胸だ。
そう答えようとした左近は、しかし綾之介の視線があまりに優しいのに、口をつぐんでしまった。
「お主、案外子守りの才能があるのではないか?」
ここしばらく見ることのなかった、 ── 否、いまだかつて見たことのなかった笑みを少女に向けられると、男の機嫌の悪さは急激に引いて遠い過去のものになってしまった。
「抱いてみるか?」
半ば投げやりな風を装って男が問い掛ければ、少女は素直に目を輝かせた。
「いいのか?」
「ああ」
── こうした時、綾之介は本当にごく普通の少女と変わりなく見えたと、やがて左近は少なからぬ寂寥感と共に昔を振り返ることになる。
「俺が抱いているよりはましだろう」
男がそう言うと、そうでもないぞ、と返事が返ってきた。
「誰に任されたのか知らぬが、なかなかどうして様になっている」
綾之介は少し左近と距離を取って相手を眺めながら、可能な限りしかめつらしい表情を作って、そう評した。
「それにしても、御主に子守りを任せたつわものは一体誰だ?」
小首を傾げて尋ねる相手に、左近は何か思い出したのか再び憮然とした顔つきに戻った。
「陣平に頼まれたのだ」
ぶふっと綾之介の口元で妙な音がした。どうも笑いを噛み殺すのに少しばかり失敗したらしい。
「あの少年もなかなかやるな。おかげで面白いものが見られた」
男は苦虫をまとめて噛み潰したような顔をして見せた。
が、左近としてもこういう綾之介を見られたことに関しては、陣平に礼を言って良かったかもしれない。
綾之介は男の横に腰掛けた。
軒下と違って陽射しの中にいたせいだろうか、少女の額には汗が光っていた。それがはっきり伺えるほどの距離だった。
「それでもやはり、少し手つきは危なっかしいな。かしてみろ」
促されるままに左近は綾之介に赤子を預けた。その子は本当に良く寝ているらしく、抱く腕が変わっても一向に目を覚ます気配がない。綾之介も同じことを思ったのだろう、また少し声に出して笑った。
蝉の声が遠いと、吹く風を感じながら男はらちもなく考えた。
「本当によく寝ているな。まだ生まれて三月ほどだろうが ── この子は彼の弟か?」
「いや、姉の子らしい」
「ああ、なるほど」
あとは、ひどくたわいもない会話が続いた。それは、後になって左近が思い出そうとしても思い出せなかったほど、本当にどうということのない会話だった。
スウッと陽射しがわずかに翳るのを感じて、左近は少女から視線を外した。ここから太陽が直に見えるわけではなかったが、陽光をさえぎった雲の影が庭に映っていた。
その一言は、綾之介の口から不意に発せられた。
「この子らのためにも、次の戦、負けられぬな」
「────」
左近は沈黙した。
日が翳るように、男の中に存在した和やかな感覚は遠くへ去りゆこうとしていた。
今、男の隣にいるのはただの娘ではない。これまで幾人もの人を殺め、そして、このままでいる限り、この先も幾人もの人を殺めるであろう者であって、いま綾之介が発した言葉は忘れかけていたその事実を嫌でも左近に思い出させた。
── 綾之介は、自らの罪を知らぬままで良いのか。
梅雨の季節に男が自らに投げかけたその問いは結論を先延ばしにされたまま現在に至っていて、すなわち、まだ左近の中では有効な自問だった。
そして、彼は思う。
(言うとすれば、今だ)
語るべき言葉は容易く思い浮かんだ。
『戦に勝つということは、織田の多くの兵たちを殺すということだ』
『その中には、こうした子らの親も、多くいるであろうに』
綾之介に己が行いを知らしめるのに、その言葉ほど効果的なものはないとすら思われた。
けれどもし、その言葉をかければ綾之介は一体どういう顔をするのか。
それを想像しかけた己を、左近は思わず止めた。
その時の綾之介の姿はきっと想像できるに違いないと思ったが、考えたくなかった。
それでも綾之介は知るべきだと、この時、左近は本気でそう思った。
男は一つ息を吸い込んだ。
「綾之介」
そう小さく呼びかけて、男は彼女を見た。
少女はいつの間にか目を覚ましたらしい幼子と戯れていた。娘にしか見えない表情を浮べて、ただ微笑んでいた。
「どうした? いま呼ばなかったか?」
赤子に向けていたのと同じ目で見つめられて、男は舌の先に乗っていた言葉を思わず飲み下した。
「どうかしたか?」
訝るように首を傾けた少女の目は、それでも、あまりにも優しかった。
── もし、この言葉を伝えれば、この表情は失われるだろう。
飲み込んだ言葉が、胸の奥で軋みを上げた。その軋みはややして、男の中でひとつの言葉になった。──── 知らぬままでいい。
(その結果、無駄な血が流されることになっても)「左近?」
案じるように名を呼ばれて、左近は少し微笑んだ。
「いや。‥‥御主の言う通りだと思っただけだ」
本来伝えなければならないものと裏腹な言葉を、左近は口にした。
いっそ泣き出したくなるほどの罪悪感が胸郭を裂いていく。
それでも、男は浮べた笑みでそれを押さえ込んだ。
綾之介はそれに応えるように頷いて、もう一度笑った。
「ああ」そして、左近はその笑みにかけて祈る。
せめて、この先も綾之介が自らの行いに気づくことがないようにと。
そう祈ること自体が、男自身にとって、許し難いことであったかもしれないけれど。
「それにしても、陣平のやつ‥‥少しと言った割には遅いな」
左近は話題を変えたくて、そう呟いた。その時だった。
「さ、左近様 ── っ、申し訳ありませんっ」
遠くから大声でそう叫んで、少年が駆けて来た。もんどりうって転びかねない勢いだ。
余程急いできたのだろう。ゼィゼィと肩で息をしながら少年は謝っている相手の顔も見ずに何度も頭を下げた。
その少年がようやく顔を上げたとき、どういうわけか彼は一瞬ギョッとしたように体を引いた。
「どうかしたか?」
左近が問えば、少年は我に返った様子で手を振った。
「あっ、いえ。いま少し‥‥その‥‥」
「陣平?」
「あの、いま綾之介様が‥‥その‥‥なんだが女の方のように見えてしまって」
左近さまが女性と一緒にいらしたところをお邪魔してしまったのかと‥‥というような言葉を言いにくそうに言いにくそうに少年は語った。
「それだけなんです」
最後にそう締めくくって、おかしいですねぇと少年は持ち前の明るさで快活に笑ったが、綾之介は顔色を変えていた。
少年の言葉に綾之介が全身を硬直させる様を横目で見ていた男は、彼女から視線を外した。
「それにしても、”少し”の割には遅かったな」
「ほ、本当に申し訳ありませんでした」
皮肉を多分に交えた笑みを浮べて男が語れば、少年は恐縮の極みといった体で更に頭を下げた。
「礼を言うなら、俺ではなくこいつに言うことだな」
「あっ、はい。綾之介様にまでご迷惑をお掛けして‥‥」
綾之介はぎこちないなりにもわずかに笑みを浮かべて見せた。
「いや、手は掛からなかったぞ。よく寝るいい子だな」
綾之介はそう言って笑うと、少年に赤子を返して立ち上がった。
「私はそろそろ行こう」
「ああ、助かった」
綾之介は左近の言葉に今度こそ微笑を浮べ、少年には姉君によろしくと言い置いて立ち去った。
その綾之介の後姿を、陣平は少し気になる様子で見つめていた。
「あの、左近様。オレ、何かまずいことを言ったでしょうか?」
「‥‥‥、そうだな。さしずめ女に間違われたことでも気にしたか」
いつものことだが、嘘はすんなりと口をついて出た。左近が自分で驚くほどだった。
「あっ! そ、そうですよね。気を悪くなさいますよね」
左近は笑って首を振った。
「あいつもそんなに狭量ではない。気にせぬことだ」
── 俺は、嘘ばかり上手くなるな。
ふと、さしたる理由もなくそんな言葉を胸の内で呟いた男は、これまであまり、思ったことのない考えに至った。
自分が何かを口にする時、それはいつも偽りの言葉か、皮肉か、心にもない台詞である気がする、と。
唇をなぞりながら、男は思う。
それでなければ、何かをはぐらかしている。思わず厳しくなりかけた表情を引き締めることで誤魔化すと、左近もまた立ち上がった。
「さて、では俺も戻るぞ」
「あ、はいっ」
ピキンっと背筋を伸ばした少年の腕の中で、例の赤子が小さく笑い声を立てる。
左近は思い立ったようにもう一度声をかけた。
「それにしてもさすがだな。子守りでは俺なぞより、そなたの方が格段に上のようだ」
この言葉に少年は顔を紅潮させた。
「子守りが上手くても駄目ですよ。オレは影忍の皆様のように ── 左近様のように強くなりたいんです」
左近は思わず足を止めていた。
顔だけ後ろの少年に向けて、男は問い掛けた。
「そなたの言う、強さとは何だ?」
「えっ?」
男の声にはわずかに詰問の響きがあったかもしれない。面食らったような少年に対して、左近はわずかに表情をやさしくした。
「陣平、お前とその赤子ではどちらが強い?」
「は? そっ、それは‥‥オレ、だと思います」
禅問答だとでも思われたのか、陣平の声には少し自信が欠けていた。
左近は体ごと相手に向き直ると、恐らく滅多に見せることのない表情で言った。
まるで、ひどく傷ついていらっしゃるようだと ── 少年はそう思った。
「確かに俺もお前もその赤子よりは強かろうな。‥‥その赤子をくびり殺すことは容易い」
陣平はその物騒な言葉に立ち尽くしたが、男は構わず言葉を続けた。
「俺や綾之介の強さというのは、そうしたものだ。人を殺すための力や技に優れているというだけに過ぎぬ」
「左近様‥‥」
「強くなりたいというのであれば、人を傷つけるのではなく、守るような強さを身に付けるがいい。
もっとも、この世で‥‥それも忍として生きてゆく上では、易しいことではないがな‥‥」
翳っていた日が、再び雲の隙間から顔を見せようとしていた。
また、蝉が鳴きはじめた。
「せめて、例え酷な道でも正しいとわかる道を選ぶ強さを持て。間違った道に逃げぬ強さを、そなたなら持てるだろう」
蝉の声の思わぬ大きさに驚いたのだろうか。やはりこちらも大音響で泣き出した赤子を抱き締めて、少年は叫んだ。
「左近様は、そうした強さもお持ちでしょう!?」
男は笑うと、小さく ── 本当に小さく呟いた。俺はもう、手遅れだ。