menu罪 2
伊賀。
それは、世の人の記憶にも残らぬ程度の小競り合いだった。
季節の雨が降っていた。
散って腐り始めた卯の花の上を、泥水を跳ね上げて人馬が駆け抜けて行く。
それを迎え撃つのは、ただひとつの赤い影だった。
その影が構えた小太刀を振り下ろせば、刀身からは青い輝きがほとばしる。
戦場を一色に染め上げたその光に巻き込まれた者たちはちり一つ残すことなく、この世から永久に消え去った。+
+
『雨』
+
+夜になっても雨が降り止むことはなかった。
そんな中でも、見張りのためのかがり火だけは絶やされることがない。窓の外では、黒い水たまりが金色とあかがね色に光って揺れていた。
多分に湿り気を含んだ空気は肌に粘りついてくるようで、外を眺める男に少なからぬ不快感を与えていた。花の腐臭まで漂ってくるように思われた。
そんな男の耳が、やや重い足音を捕らえた。その音の主は、仲間内では敢えて気配も足音も殺さない、そういう男だ。
左近はひとつ息をつくと、室内に目を向けた。
彼に与えられた部屋には十分な広さがあって、それだけに部屋のすみで揺れる蝋燭の火がひどく弱々しく感じられる。もっとも、この屋敷内で暗闇に不自由する者などいるはずもなく、これで充分であることも事実だろう。
近づいてきた足音は、部屋の前で止まった。
「左近、今ええじゃろか?」
「ああ」
短く男が答えれば、龍馬が顔を覗かせた。とっくり片手、という姿である。
年長の男は窓際に立つ左近の姿を見て、図体に似合わぬ器用さで片眉を上げた。
「なんじゃ? 外でどがいかあったがか」
「いや、様子を見ていただけだ。しばらくは何もないだろう」
左近は再び外に目を向けていた。
「昼の一撃がさすがに堪えたと見える」
「そがいか」
龍馬は片手のものを持ち上げた。
「ほんなら、一杯やるには丁度ええのう」
「そうだな」
男は窓を閉めると、口元だけで薄く笑った。
にごりの入った酒を、男二人は互いの杯に注いだ。薄暗がりの中でも男たちの手つきに危なげはない。
周囲にはほとんど知られることがなかったが、左近と龍馬がこうして酒を囲む機会は決して少なくなかった。その回数はこの春以来、確実に増えていたのだが、それでも周りの者がそれを知ることはなかった。
「まだしばらく、信長は動きそうにないがか」
「ああ、そうらしい。この程度の揺さぶりでは駄目ということだな。せめて信雄(のぶかつ)辺りを叩ければ、向こうも顔色を変えるだろうが」
「そうなると、最低でもあと二月‥‥・三月ほどはかかるっちゅうことになるじゃろうか」
「おそらくな」
左近はいったん口を閉ざすと、唇の片端を持ち上げた。
「それまで”あれ”は持つと思うか?」
「左近‥‥」
杯を片手に笑う男の姿に、龍馬は苦い息を吐いた。左近の言った”あれ”とは、綾之介を指す ── 。
問題が深刻な場合ほどこういう態度をとりがちな左近の悪癖に、龍馬は慣れることがなかった。左近が問題の深刻さも理解していることは、わかっている。だが、それがわかるだけに物事を茶化すような心理は、龍馬には理解しがたいものがあった。
しかし、今はそれを言っても仕方がない。
龍馬は再び息をついた。
「綾之介は一度、戦から遠ざけたほうがええがじゃなかろうかの」
左近は杯を置いた。
「なぜだ? あれほど役に立つものは他になかろう。今日の戦にしたところで、綾之介があれだけ派手にやったからこそ、こうも楽に勝ちを納められたのだ」
やや鋭さの増した目をして、左近は言う。
「違うか?」
龍馬もまた、(元より飲む気のなかった)杯を畳の上に戻した。
「‥‥綾之介は春から少しおかしいきに。おんしもそれはわかっちょるじゃろ」
左近は即答しなかった。ただ、他者に比べて明るい色の瞳が、言われるまでもないと語っていた。
雨の湿気が、空気の重さに拍車をかけて忌々しい。
彼らにとって、最年少の同志はそれなりに気がかりな存在だった。三人中もっとも年若くして里を焼かれたというだけでも十分憐れみを誘うのに、そんな綾之介が実は娘で男に身をやつして戦っているとなれば、気にするなと言うほうが無理な話だ。
その彼女がこの春、香澄を訪ねて以来、様子を変えた。
そのことは男装の少女と付き合いの長い二人の男にとって共通の認識になっていた。
それが良い変化であればよかった。しかし、綾之介が迎えた変化はお世辞にも良いとはいえないものだった。
少なくとも、男たちの目には良く映らなかった。その変化に先に気づいたのは左近だった。
香澄から帰ってくるなり、綾之介は左近に木刀で手合わして欲しいと頼んできたのだ。力と技では左近の方が上だが、身軽さと柔軟さでは綾之介が男を一枚上回る。加えて、胸や胴に打ち込む気にはなれない相手に左近は少なからず手を焼いた。その時の綾之介の気迫のこもりようが、尋常ではなかったのだ。
その様子を ── やはり今日のように酒を前にして ── 左近から聞かされた龍馬は、それから数日の間を置いて可能な限り何気ない風を装った上で、綾之介に尋ねた。
香澄で何かあったのか、と。
すると、男装の少女はこれまでは見せたことのない、口元だけで笑うような笑みを浮べて言った。
『いや、何もなかった』。
そして、少女は重ねてこう言った。
『香澄には、もはや何も無かったのだ』。男二人は、少女を縛り付けてでも香澄行きをやめさせるべきだったと後悔した。
ただし、綾之介の心もち危なっかしい戦い方が今に始まったわけではないことも、龍馬は心得ている。
綾之介は元々、自らの身を省みないような戦い方をするところがある。
しかし少なくとも春前までは、一人で先陣を突っ切っていくような、そこまで危険な戦い方をすることはなかった。そう、龍馬は過去を振り返った。
死に急いでいるという訳ではなかろうが、今の少女は敵憎さのあまり周囲が見えなくなっているように男には思われた。
いずれにしても、現在の綾之介の状態が良くないことは確かだった。
「やはり、綾之介はさげた方がええがじゃなかか」
「俺はそれで構わぬがな」
( ── 捻くれちょるのお)
龍馬は心の中で小さく呟いたが、口には出さなかった。基本的に軽口を叩いている場合ではない。
左近はそんな龍馬のつぶやきを知ってか知らずか、ただ言葉を続けた。
「だが、ここの連中と‥‥何より綾之介がそれに納得すると思うか?」
「うむ‥‥‥」
「今のあれは、敵を倒すことだけに生きがいを見出しているようなものだからな」
「じゃけんども、このままにしておくわけにはいかんぜよ」
龍馬はそう答えながら、左近の顔を盗み見た。実を言うと、龍馬にはもう一つ気になることがあった。
男装の少女のことではなく、いま彼の目の前にいる男のことだ。
左近は、殺人を良しとしていないのではないか──。
龍馬の目にこの男は、何かの拍子にそう映ることがあった。
今も‥‥左近はただ綾之介の身を案じているだけとは思えないのだ、龍馬には。
(殺しすぎる綾之介が気に食わん‥‥ちゅう風に見えるがじゃよなあ)
心の中で龍馬は思い、そして、わずかに修正した。
(いや。綾之介が殺しすぎるのが気に食わん、ちゅうべきか‥‥)
確かに龍馬の目から見ても、今の綾之介はいささかやりすぎていると、思わないではない。
そもそも人を殺すことが良い行いであるはずがないのだ。そんなことは龍馬にも当然わかっている。しかしながら、どれほど不快な行為であっても、忍として生きる以上、他者を犠牲にすることと無縁ではいられない。
それは決して、だ。
だからこそ、人は普通であれば何らかの形で自らを納得させるものだった。
屁理屈と言われようが何と言われようが、自分の中でその行いを正当化させなければ正気ではいられない。いま自分が斬った相手にも親兄弟があり、人生があり、などということは、いつまでも考え続けてはいられないのだ。
戦というのはそういうものだと割り切らなければならない。必ず、どこかで。
忍に限らず戦場に立つものは、ごく自然にそれをわきまえている。
あるいは、自分が殺している相手が人であることを、一時的に忘れてしまうこともあるだろう。そして、普通はそれを責めないものだ。
自分にも、他人にも殺戮という行為を許さなければ、武士(もののふ)や忍などやっていられるはずもなかった。
それが出来ない者がいるとするなら、この世界では『異端者』だ。
しかし目の前の男には、そんな異端の気配があった。
もっとも、左近が明確な言動としてそれを表したことはない。実際に戦場に立てば人並み以上の働きもする。だからそれはあくまでも龍馬の勘に過ぎなかったが、男はほぼ確信していた。
(先行き何か、悪い形に繋がらんとええが・・・・)
最近めっきり回数の増えた溜息を吐いた龍馬は、ややして左近が自分を凝視していることに気づいた。
「どがいしたと?」
左近は軽く顔をしかめた。
「それはこちらの台詞だ。俺の顔に何かついているか?」
凝視していたのは自分の方だったと気づいて、龍馬はやや顔を赤くした。
「いや、なに」
── 相も変わらず、ええ面構えしちょるきに。
そんな誤魔化しをかけようと思った龍馬に、ふと別の言葉がひらめいた。ひらめいた瞬間に、もうその言葉は口を突いて、出てしまった。
「おんしは綾之介のことをどう思っちょるのかと考えちょったがじゃ」
一瞬、静寂が気まずさと手を取りあって室内を駆け抜けた。
雨音さえ消えたかと思われた。
一拍の間を置いて、左近は薄く笑うと言った。
「俺は、血まみれの相手を美しいと思うほど腐ってはおらぬ」
地味な宴会はお世辞にも気分が良いと言えない形でお開きになった。持ち込まれた酒はほとんど減っていなかった。
左近は一人、その残った酒を飲んでいた。
やや甘味の強い酒は男の味覚に反するが、ないよりはましだ。
左近は今しがた自分の語った言葉を反芻しながら、杯の中身をあおった。
ずいぶんとまずいことを言ったのもだと、男は自嘲を洩らした。あんな台詞を言うつもりはなかった。
偽りというわけではない。むしろ、限りなく本心に近かった。
だからこそ、口に出すべきではなかったのだ。
けれど、先ほどの言葉が男装の少女に対する自分の想いのすべてではないことも、左近は痛感していたけれど。
それでも、先ほどの言葉に偽りはない。それは確かだ。
(人を斬り、その返り血に赤く染まるような者が、美しいわけがない)
男は反吐を吐くように胸の内で呟いた。
龍馬の見立ては決して間違っていなかったのだろう。それが戦場のことであれ役目であれ、あるいはそれが己の行いであれ他者の行いであれ、人を殺すという行為を看過出来ない自分を、左近は感じていた。
どうしても心のどこかで許しきれないわだかまりが存在して、それを無視することが出来ない。
けれど、それでは忍として生きてはゆけないのだ。
忍として生きるしかない以上、何らかの形で『割り切る』ことは確かに必要なことだと ── 男も頭では理解していた。そう、頭では。
割り切ることが出来る者たちに一種の羨望を抱いてすらいるのかもしれないと思うこともあった。
例えば、先ほどまでここを訪れていた年長の同志に対するように。
割り切ることを結局は許せないとは思いながらも。左近は確かに異端と、呼ばれても無理はなかったのかもしれない。
そして、忍の世界における異端の男は思う。
ここしばらくの、無駄な流血を誘うばかりで一見何の意味もなさそうな小競り合いの目的は、信長の矜持に傷をつけ、この伊賀に本体を引きずり出すことにある。そうである以上、敵方に多少なりとも損害を与えることが必要だと言うことは、男にも分かっている。
しかし、それでも──。
(綾之介は殺しすぎる)
湿度も気温も一向に低くならない部屋の中で、隅に置かれた火がわずかに煤を上げて揺れた。── 『俺は、血まみれの相手を美しいと思うほど腐ってはおらぬ』
思い返せば綾之介について語るのに、その表現がどれほど正しかったのか左近は疑問を覚えないでもない。
綾之介の剣は青い光を放つばかりで血を流さない。
その青い輝きの中で、人は確かに命を奪われているというのに。
「‥‥‥」
そして、仮に人を斬ったとしても、彼女が振るう剣からは肉を裂く重みも血の臭いも感じられなかった。
そうした印象が強まったのはこの春以降だったが、初めて永伏山で出逢った時から彼女の振るう剣は凄惨さとは無縁であったかもしれない。
その理由を、左近はわかっているつもりだった。
(あれは、自分のしていることを分かっておらぬのだ‥‥)
自分が人の一生を終わらせていることを、彼女がかつて受けたものと同質の痛みを他者に与えていることを綾之介はわかっていないに違いない。左近はそう見ていた。
だからこそ、彼女は憎悪を、復讐の念を迷わず純粋に他者に向けることができる。
左近は空になった杯を畳の上において、壁に背を預けた。
わずかな酔いの気配に身を任せて、男は半ば目を閉ざした。今のままである限り、綾之介の殺戮は止まるまい。綾之介に葬られる者たちは、きっと後を絶たぬだろう。
しかし、知らぬままでいられるのなら、綾之介は憎悪を、復讐の念を迷わず純粋に他者に向けることができる。
これまで犯してきた自らの罪に気づかぬ限りは、罪悪感が彼女の心を抉ることもないはずだった。
ならば・・・・
「いっそ、知らぬままの方がいい」
目を閉ざしたまま、左近は低く呟いた。
呟いた男が、目を開けるまで三拍の間があった。
‥‥『知らぬままの方がいい』
そう呟いた男の中で、さらに問い掛ける声があった。
(その挙句、多くの者の命が綾之介によって奪われることになっても?)
男は、答えを出せずに沈黙した。
雨の音は陰鬱で、大地よりも人の心を湿らせる。
それでもこの時期が過ぎれば、次に訪れるのは暑い夏であるはずだった。