menu罪 1
瞳を閉ざせば、浮かんでくる景色がある。
それは、森に包まれた山間の小さな村。
忍ぶもののさだめそのままに里全体がこじんまりとして、ひっそりと息づいている。
それでも、その中で子供たちは日々声を上げて走り回り、大人たちも生き生きと過ごしていた。
瞳を閉ざせば、そんな彼らの笑顔も浮かんでくる。
初夏には森の小川で蛍が見られる。香澄は、そうした風景のある村だった。(だから、ここは香澄ではない‥‥)
開かれた目に映る黄昏に染まる眺めから目を逸らし、私はその場にただ立ち尽くす。
天正九年、春。香澄が焼けたあの日から、一年が経とうとしていた。+
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『夢』
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+パチパチと焚き火が音を立てて燃えている。
かつての故郷は廃墟どころか瓦礫と化していて、獣よけに火を焚かなければ安心して夜も越せない、そんな姿になっていた。
見上げればさえぎるものも無くそのまま夜空が見える。
雨露をしのげそうな家など、残っていなかった。
香澄のことは隅々まで知っているはずだったのに、いま自分がいる場所は誰の家があったあたりなのかもわからない。
曇っているのか、炎が明るすぎるのか、星すら目に入らない空を眺めながら私はぼんやりと雨が降らないことを祈っていた。
(私はここに何を求めていたのだろう・・・・)
そんな自問を思い浮かべ、視線を空から周りに移す。。
月も出ていない今宵、周囲の風景はとうに闇に沈んでいた。
その闇の中には瓦礫の山と化した里の姿が埋まっている。
月もない闇夜では火の輝きが届く範囲でしか物が見えなかったが、赤い日差しの中で見た故郷の有様は目に焼き付いていた。
『どうしても気になる、一度だけ様子を見に行きたい』。
織田軍の伊賀侵入が今しばらくはないという現在、私はそう無理を言って香澄に来ていた。
しかし、辿り着いた先はかつて香澄のあった場所であっても、香澄ではなかった。
夕暮れの中で見た景色は、叶うことならこの世で最も忘れたい光景になった。
(私はここに何があると思っていたのだろう‥‥)
もしかすると、誰か生き残っているのではないか。
もしかすると、多くのものが生き残り、再び香澄を建て直しているのではないか。
私は、そんなことを期待していたのかもしれない。
「夢ならば夢のままにしておけば良かったのだ」
私はそう呟いて自嘲を浮かべた。
香澄に行きたいと言った時、付き合いの長い二人の男は揃っていい顔をしなかった。
年長の彼は不器用な口調で遠回しに行かない方がいいと告げ、もう一方の男は「今さら訪ねてみたところで何にもなるまい」とそっけなく語った。
恐らく彼らは私がこんな思いを味わうことに気づいていたのだ。
思えば、最も付き合いが長いのはあの二人になってしまったことに私は気づいた。
十数年も生きているというのに、一年に満たない日々を共にした彼らが今では一番古くからの知り合いなのだと思うと、それだけで泣けてきそうだ。
(何故、私だけが今もこうして生きているのだろうな・・・・)
泣くより前に低く私は笑っていた。
せっかく助かった命だというのに、こんなことを思う私をこの地で倒れた人々は贅沢だと言うだろうか。
それなら、現れて叱って欲しかった。化けて出てきてもいいから。(化けて出るには、火が明るすぎるのかもしれない)
揺れる炎を見ながら、私は思った。
火は音を立てて燃える。
ここで火が焚かれるのは、香澄全体を焼き尽くしたあの炎以来だろうと思われた。
もし、あの夜、香澄が焼かれることが無ければ、私は今ごろどんな日々を送っていたのだろう?
夫に従い、子を育て、慈しむ──そんな未来に繋がる日々を送っていただろうか。
この手を、血に染めることも無く‥‥‥
それは飽くほどに平凡な日々かもしれない。
けれど、それは私にとってもはや二度とに手に入れること叶わぬ、夢のような日常だった。
「夢だな‥‥」
口に出して、私は唇を少し噛んだ。
「そう。それは夢ね」
突然降ってきた声に、私は驚いて顔を上げた。
揺れる炎の向こうに女が一人立っていた。何の気配も感じ取れなかったことに私はまず驚いた。
「誰だ?」
距離があるため、相手の顔は闇にまぎれてよく見えなかった。声も壁一枚を隔てて聞こえてくるようにどこか遠く、聞いたことのある声なのかどうかわからなかった。
女は沈黙したまま答えない。
私は少し身構え、もう一度問い掛けた。
「誰だ」
また、しばしの沈黙が続いた。けれど、今度は返事が返ってきた。
「私がわからないの?」
女の言葉は、まるで私と彼女が知り合いであるような言いぶりだった。
「香澄の生き残りか!?」
「いいえ」
私の希望を託した問いかけは、一瞬で粉砕された。
そして、よろめく私を無視して静かに女の言葉は続いた。
「私はあなたが初めて葬った者」
「‥‥‥‥‥‥、何だと?」
相手の言葉に自分の耳を疑いながら、私は女を改めて見つめた。
先程は相手の顔が良く見えないことに気を取られていたが、見つめなおせばそれより余程不自然な点があった。
顔が良く見えないのは単に火の明かりが届かないからだ。だが、炎に照らし出されているべき足元が見えないのはどういうわけだ?
私は反射的に立ち上がり、身構えた。
この世のものならぬ姿でもいいからもう一度あいたいと思う人々はいくらもいたが、少なくともこの相手は違うと直感が告げていた。直感が告げていたのは、強烈なまでの危機感だった。それは人ならぬものと対峙している恐怖にとどまらない不吉さがあった。
この相手は、自分の何かを突き崩す存在だと、そんな予感を私に与える女だった。
「お前は何者だ!?」
私の詰問に対して女の声は変わらず静かだ。
「私は、あなたにすべてを奪われた者」
「そんなはずはない」
女の言葉を私は低く否定する。
戦場でも戦場以外でも、もはや数え切れぬほどの者を斬ってきた私だが、女を殺めた経験は無かった。
まして、香澄にいた頃の自分は返り血とは無縁だった。
一瞬、私のために命を失った葉ヶ塊の少女が思い浮かんだが、彼女だったら私にわからないはずが無かった。ふと一つの可能性に思い当たり、私は構えた小太刀の柄を握りなおした。
「貴様‥‥‥朧衆か?」
御神刀を携えた自分が一人になれば、奴等に狙われるのは当然だった。朧衆が相手ならば、この危機感の強さも頷ける。
だが女は否と答え、そして呟いた。
「あなたは私を忘れたのね」
「そんな言葉に騙されると思うな!!」
私はそう叫ぶと刀を上段に構えた。青い輝きが宿る。
逃げる様子も見せず、女の声が囁いた。
「また、私を葬ろうとするのね。‥‥そうして、その手は血に染まっていく」
「黙れっ!! 私を惑わせようとしても無駄だ!」
私は叫ぶと刃を振り下ろした。女の静かな声を吹き飛ばすように苛烈な光が辺りを染め上げた。「‥‥‥‥‥‥、えっ?」
その輝きに照らされて初めて女の顔が見て取れた。
吸い込んだ息が、喉の奥でヒュウッと音を立てた。
「‥‥こうして、あなたは私を葬っていく」
青い輝きは余韻として辺りを照らし出していた。
この世の物ならぬ身だからだろうか、女は変わらずそこに立っていた。
まとう小袖の柄に見覚えがあった。
何より目の前に立つ女の顔は生まれてこのかた鏡の中で見つづけてきた顔だった。
「‥‥‥ そんな ‥‥‥」
自分を見つめるその顔に、私は息を呑んだ。
「『私』を思い出した? あなたがこの世で最初に葬った存在を」
「‥‥‥」
とっさに、言葉が出てこなかった。
「‥‥私という存在を切り捨てて、あなたはどこへ行こうとしているの?
女という部分を切り捨ててまで、あなたは何をしようとしているの?
自らを男と偽って、周り中を欺いて、 ──── その手を血に染めながら、あなたはどこまで行くの?」
「『綾女』‥‥‥?」
少女は薄い微笑みを浮かべた。
「ようやく、私を思い出したのね──」
「どうして‥‥」
「私はあなたにすべてを奪われた。女としての未来も幸せも、希望さえも──。
そのことを忘れて欲しくなかった」
私は言葉もなく、ただ大きく喘いだ。
「あなたは、血に染まったその手でこれから何をするのかしら?
その血の重みに自らも倒れる日まで、血を流しつづけるのかしら?」
その言葉を最後に女の姿は掻き消えた。
朝日が山の端から差し込んできていた。
開いた目にまず映ったのは白く天に向かって立ち上る煙だった。
私は膝を抱えるようにして眠っていた。
(眠っていた‥‥?)
では、あれは夢だったのかと自問する。
(そうだ。夢でないはずがなかった)
今さら、綾女などという存在があんな形でこの世にいるはずがなかった。
── いるはずがなかった。『私はあなたに葬られた』
二度、三度と目をしばたくと、驚くほど大量の涙が零れ落ちた。
夢に見た彼女の言葉は正しかった。
もはや、この世に私を綾女と呼ぶものは誰もいない。
いま存在するのは『綾之介』であって、この世のどこにも『香澄の綾女』はいないのだ。
この地で育ち、兄に愛され、自らの手を血に染めることなど知らなかったあの少女はもう、どこにもいなかった。
私が切り捨て、闇に葬った。
もう二度と、あの少女は返らない。
『復讐』・・・・
最後に私に残されたのはそんな言葉だった。
この手を血に染めた。
本来の自分自身さえ切り捨てた。
それは、断じてただ生き延びるためなどではなかった。信長を倒すこと。仇を討つこと。
それが、私の悲願だった。
そして、私は自らのうちに潜む憎悪を再認識した。
「復讐・・・・」
震える声を、ただ、風がさらっていった。