彩雲(第三話)
 

 香澄の里が襲われたあの日、許婚のあの人は妖魔から私を守って倒れた。
そして、私を見守ってくれているとばかり思っていた。
 

 その瞬間、弾かれた様に綾之介は左近に顔を向けた。
だが、すぐに目を伏せた。それ以上の動揺を見せたくなかった。
「初めてお目にかかります、清十郎にございます」
凛とした、張りのある声が座敷に響いた。
「龍馬と申す。しばらく里を離れとった者じゃ、よろしゅう頼むぜよ」
「左近と申す。丁寧な挨拶痛み入る」
龍馬と左近が終わり、残るは綾之介だけとなった。
鼓動が高鳴り息苦しささえ覚える。何と言っていいのか混乱し、頭の中は真っ白だ。
(何と言えば・・・)
「お久しぶりです綾之介殿、お元気そうで安心いたしました」
まるで綾之介の心中を察したかのように、清十郎から挨拶してきた。
「清十郎殿もお変わりなく」
つられる様に挨拶したが、それ以上言葉を続ける事は無理だった。血の気が引いているのが自分でわかる。それに龍馬と左近が意外な表情で自分たちを交互に見ている気配が伝わってきて、身が縮む思いがする。幸い多喜が話し始めた。
「御紹介が遅くなってすみません。こちらは清十郎殿、香澄の里の方ですのよ。皆様が御出立の後、すぐこちらに見えましたの。今は剣術の御指導をしていただいているのです」
多喜が紹介している間、清十郎は微笑をたたえ、その場に座っていた。背筋を伸ばし、前を真っ直ぐ見つめるその姿は誰もが好感を持つことだろう。実際、清十郎はそういう人物だ。
「御本懐達成おめでとうございます。心より御祝い申し上げます」
再び張りのある声が座敷に響いた。
「香澄のお方か。よろしければ一献、こちらでどがいじゃ」
「申し訳御座いません、御役目が残っていますので御心だけ頂きます」
龍馬の誘いを清十郎は微笑を崩すことなく、やんわりと断ってきた。
「そうか、無理言ってすまんかった」
その声に頭を下げると清十郎は部屋を後にした。後には妙な空気が流れたのだが多喜は気付かなかったらしい。銚子を替えながら屈託無く話しかけてきた。
「素敵なお方でしょ」
「おなごは放っとらんじゃろ」
酒のせいか龍馬もすぐに反応する。
「それはもう、でも硬いお方ですのよ。御断りの仕方は今の様にやんわりだそうですけどね。」
「多喜殿はどうだったんじゃ」
その声に今まで軽快な受け答えをしていた多喜の反応が僅かに遅れた。だが、すぐに微笑を浮かべると、
「内緒」
その一言で軽くあしらい銚子を持つと、部屋を出る前にと酒を注いで回る。最後に綾之介に酌をしていた時、再び多喜が清十郎の事で話しかけてきた。
「ねえ綾之介様、清十郎様はだれか決まった方でもいらっしゃったのですか」
聞かれた途端、綾之介の杯から酒がこぼれた。
「申し訳ござりませぬ、うっかりして」
こぼれた酒を多喜が拭き始め、急いで綾之介も手伝った。
しかし、これは多喜が悪いのではない。自分の指が震えたのだ。
(私は動揺している。清十郎殿に、そして多喜殿の言葉に・・・)
目の前で起こった事なのに未だ信じられない。考えれば考えるほど頭の中は混乱していく。
「綾之介殿、具合でも悪いんか」
普段と違う様子に龍馬が気付いたらしい。心配顔で聞いてきた。
「無理せん方がいいぜよ、休んだほうがええと違うか」
今の状況で部屋を去ることに少しばかり躊躇したが、これ以上この場にいては余計な失態をさらす事になりかねない。
多喜に先導されて座敷を後にした。長い廊下を歩き部屋に入ると、明かりを灯すことも出来ず、その場に座り込んでしまった。
(生きていらした、でもどうやって)
香澄の惨状で生き残るのは到底無理としか思えない。
それに清十郎が深手を負っていたのは間違いない事実だった。
だが、清十郎は生きて自分の前に現れたのだ。
綾之介は座敷での出来事と自分の行動を思い出していた。
清十郎とは二年振りに再会した筈なのに、香澄の里での日々が鮮やかに甦ってきた。確かに父が決めた相手ではあった。けれど、さして非の打ち所も無く、加えて自分の事を大切にしてくれる人を嫌いに思うはずがない。
(この人と一生寄り添って生きていく)
祝言の頃には自分の中でその思いは固まっていた。揺らぐ事はあり得ない筈だった。
だが、あり得ない筈の事が起こった。
(左近・・・)
重ねていた手に力がこもる。綾之介はようやく分かった。
いや、認めたといった方が適しているのかもしれない。
鳳来洞以降、自分の胸中は複雑極まりなかった。仲間として思ってきた左近をあの日から男として意識するようになった。しかし、それを色恋の感情とは認めたくなかった。もし自分の中にその様な思いがあれば、それは今までの自分の生き方を否定する事にもつながりかねない。安土城での決戦前は、意識的に排除しようと懸命で龍馬にも心配をかけてしまった。だが、興隆の屋敷に左近を運び込んだ時から、自分の心の奥底にあった思いに気付き始めた。
『死んでしまうのではないか、失ってしまうのではないか』
そう案じたあの時から・・・
そして今宵、はっきりと自分の思いが掴めた。
(私は左近に惹かれている)
清十郎と再会したあの時、反射的に左近を見た自分は、おそらく鳳来洞と同じ表情をしていたことだろう。
だが思いは全く異なっている。
あの時は恐れ、そして先刻はすがる思いで左近を見上げている自分がいた。
無意識の行動、それは偽ることのできない綾女の本心だった。
 

「香澄の生き残りが他にも居ったとは驚いたな、左近」
男二人残った座敷で、酒を勧めながら龍馬が話しかけてきた。
「そやけど変じゃの、何故男の名で呼ぶのか。本当の名を知らぬ筈は無いと思うんじゃが」
「我等の出立後に来たというから話を合わせられたのではないか、それに多喜殿もいたからな」
「そうか、そんなら分かる。何か事情でもあるのかと思ったぜよ」
龍馬の最後の言葉は自分の考えている事と重なる部分があった。
左近は清十郎を見た時の綾之介の様子が気になっていたのである。
(鳳来洞と同じだ)
おびえた目、あの時と同じ表情をしていた。その後の落ち着きのない様子も気になっていた。
「左近」
考えていると龍馬が話しかけてきた。
「そろそろ聞かせてもらえんか」
「何の事だ」
「鳳来洞での事に決まっとる、約束してたじゃろ」
何があったのか知らぬ龍馬は、いつもと変わらぬ調子で尋ねてきた。酒が入っているとはいえ、今日は量が少なく、お互いほとんど素面の状態だ。話しにくい内容ではあるが約束を違える訳にはいかない。左近は腹を決めた。
「実は・・・」
そう切り出すと、あの日の出来事を話し始めた。最初、平然と聞いていた龍馬が話の展開につれて複雑な表情に変化していく。その変わり様を見て左近の胸中も複雑になっていった。
「それで、どがいなったんじゃ」
区切りのいい所で複雑な表情のまま龍馬が聞いてきた。
「張り倒された・・・」
案の定、途端に爆笑された。それを横目に左近はむすっとしている。
「笑わんでもよかろう」
「すまん、じゃけんど妖刀の錆にならんだっただけでも良かったと思わんきの。しかし、張り倒すとはな。さすが綾之介殿じゃの」
笑いを噛み殺しつつ龍馬が話しかけてきた。
「俺は妖魔か」
「妖魔どころじゃないと思うがの。綾之介殿にしてみれば、その時の御主は朧衆以上だったと思うぜよ」
その一言はすっと左近の腑に落ちた。納得できたのである。
「そうか、綾之介殿に惚れとったんか」
誰に言うともなく龍馬は言った。心に一抹の寂しさを感じていたのである。妹のように思っていた綾之介が、今の話を聞いてからは何だか娘の様な気がしてきた。考えすぎだと自分でもわかっているが、娘を持った父親の心境が分かるような気さえしていた。
「それで、その後はどうなっとる」
床に視線を落とした左近は簡潔に今までのことを話した。話が終わると二人は対照的な様相を見せた。塞いだ面持ちの左近に対し、龍馬は明るい事この上なかった。
「これからが楽しみぜよ」
この言葉に全てが集約されていた。高見の見物を決めたのである。
「人が悪いぞ」
「御主ほどではないと思うがの」
どこかで聞き覚えのある会話に、思わず二人とも笑い出していた。
葉ヶ塊到着の夜はこうして更けていった。
 

 翌日、座敷には龍馬、綾之介、左近と藤次が集まっていた。
この二年余りの出来事や、あの襲撃を教訓にして里の守りをどの様に強化したかについて藤次が説明していたのである。
特に里の守りについては隙の見つけようのない出来栄えで、三人とも目を瞠った。
「見事な案じゃが、いったい誰が考えたぜよ」
「清十郎殿でござる」
龍馬が尋ねると即座に藤次が返答する。
「だが、これだけの守りは力量が揃わないと難しいと思うが」
「それも清十郎殿がいるから大丈夫でござる」
左近の尋ねにも即座に藤次が返答する。いずれの返答にも登場したのは清十郎だった。
「ひとりのお方を称えるのはどうかとは存じますが、今日の葉ヶ塊、清十郎殿がいなければ成し得ませんでした」
淡々と話しながらも感服している事は言葉の端々から感じ取れた。
(そういうお方だった、清十郎殿は)
里に居る時から清十郎は秀でていた。元々の才も有ったのだろうが、何事に対しても自己研鑽を惜しまなかった。加えて性格は穏やかで誰からも好かれていた。父が自分の許婚にしたのも当然の事といえる。昔の事を思い出して綾之介は遠くを見る目付きになっていた。左近はそんな綾之介を黙って見ていた。そこに座ってはいるが、違う事を考えているのは手に取るように分かっていた。
「清十郎殿は稽古をつけている最中でござる。里の案内がてら道場に参りましょうか」
藤次の言葉に従い座敷を後にした。道すがら、藤次が綾之介に香澄の里での清十郎について尋ねてきた。
「里では一、二を争う腕前でござったのでしょう」
額にうっすら汗を滲ませながら藤次が言う。
「そうですね、私など足元にも及びませんでした」
綾之介は思い出すようにして答えていた。
「御謙遜をなされるな、貴方様の剣も早く拝みたいものでござる」
藤次の褒め言葉に困った綾之介は曖昧な表情で返答した。道場が近づくと中から気合のこもった声が漏れてくる。見ると清十郎が稽古をつけていた。約二年ぶりに見るその太刀筋は以前より鋭さを増していた。
そしてここにも一人、真剣な眼差しでその様子を見ている者がいた。
(確かにかなりの腕だ、だが)
左近は隣にいる綾之介に目を落とした。
(御主の方が上だ)
綾之介が自分をどう感じているのかは分からないが、本人が思っている以上の腕前である事は間違いなかった。
そんな左近に気付かず、綾之介は稽古の様子をながめている。
「さぁ、次に参りましょう。まだまだ先は長うございます」
藤次を先頭に皆、道場を離れた。最後に離れたのは綾之介だった。
やがて里の案内が終わりにさしかかった時の事である。
「最後に大切な事をお伝えしなければなりません」
それまでと違い、改まった面持ちで藤次が言った。
「近頃、里の周りで生き物が死んでおりましてな、最初は兎などの小さい物ばかりでしたが先日は猪までやられていました」
「熊と違うんか」
だが藤次は首を横に振った。
「その様に思いたいのですがな。似ているのです」
「何がじゃ」
「二年前の妖魔の爪あとに」
その言葉は三人を驚愕させるには充分だった。
暗然たる気持ちがそれぞれの心の中に渦巻きはじめていた。
 

 数日後、藤次の依頼を請けた綾之介と左近は、道場にて剣術の指導に入った。龍馬は頭領としての役目もあり、自ら無理だと前もって断りを入れてきた。
しかし、本心ではなかったらしい。
「時々は覗きに来るからの」
大きい体でこっそりと言って来るものだから、これには二人とも苦笑するしかなかった。後で聞いたのだが、最初は龍馬も指導に当たる準備をしていたらしかった。ところが『頭領の立場も考えなされ』と、藤次に忠言されて思い留まったとの事である。無論、意地悪で藤次は言ったのではない。幻悠斎が亡くなってから今日まで、頭領の代役は藤次が務めてきた。しかし、跡継ぎである龍馬が帰ってきたからには、出来るだけ早く御役目を譲らなければならなかった。
だが急ぐ理由はそれだけではない。あの世からいつ迎えが来るかを心配する歳に藤次はなっていた。自分が死んだのち、龍馬は勿論の事、里の中にも動揺を与えてはいけない。だから出来るだけ早く引継ぐ必要を感じていたのだ。
先立つ者の、残される者達への悲しいまでの深い心配りであった。
一方、指導を引き受けはしたものの、綾之介には不安があった。道場に入れば必然的に清十郎と顔を会わせることになる。勿論、左近にもだ。自分が冷静に行動出来るか不安があったのだが、稽古に入るとそれは払拭された。葉ヶ塊の忍びは良く鍛錬していて、冷やりとするまではないが手応えがあった。集中の連続である道場では、余計な事を考える間も無く過ごす事が出来たのである。だが良い事ばかりではない。清十郎とは挨拶以降、必要な事以外話していない。しかも会話は全て人の居る道場内だ。このままではいけないとわかってはいるのだが、稽古中に話す暇は無い。自由になる時間といえば眠るまでの間があるのだが、自分を女だと知っている男の所へ、夜に出向く気にはなれなかった。だが機会はやって来た。稽古が早く終わる日でも清十郎は一人練習していると聞いたのである。
その日、道場に向うと話し通り清十郎がいた。汗を滴らせながら無心に木刀を振るその姿に声をかけるのは気が咎めた。待つ事としたのだが気付いたらしい。
「どうされた、綾之介殿」
手を休めると清十郎は里の時と全く変わらぬ笑顔で話しかけてきた。他には誰も居ないのだが綾女とは呼ばない。もし誰かに聞かれたらとの心配からだろう。清十郎の配慮が痛いほど綾之介の心に響いた。
「里でも此処でも、いつも自分より人の事を思いやって動かれるのですね」
緊張して声が消え入りそうになっているのが自分でもわかる。
それに対し答え様が無かったらしい。清十郎は笑顔を浮かべたまま無言だった。
(私は何でここに来たのだろう)
綾之介は不思議な感覚に陥っていた。話しがあるから来た筈なのに、それ以上何も言葉が出てこない。
「剣の指導を新に受けられたのですね、以前にも増して見事な太刀筋です」
助け舟を出してくれたつもりなのだろうが、あれからの自分に稽古をつけてくれたのは左近だ。左近の事が胸中を過ぎり、何も言えなくなって俯いてしまった。そんな自分に清十郎は思いがけない事を話しかけて来た。
「私は一度死んだ人間です。」
その声に顔を上げると清十郎は壁に木刀を片付けていた。背をむけているため表情を読み取る事は出来なかった。
「あの日死んだも同然です。貴女が私を過去の人間と考え過ごしてきたのは当然の事です」
壁に向ったまま静かに話しかけてくる姿に言葉が出ない。振り返った清十郎と互いに無言で見つめあった。清十郎の表情は普段と変わらず静かな面持ちをしている。
「御自分の心のままにされていいのですよ」
いたわるような口調だが、その言葉は綾之介の心に棘のように鋭く突き刺さった。
幼い頃から綾之介を見てきた清十郎はすでに気付いていた。
再会した座敷や道場の中での心の動き、すべて分かっていたのである。
「清十郎殿」
綾之介はその一言で精一杯だった。
「今日は早く休まれると良い、体をいたわる事も大切です」
それだけ言うと、清十郎は綾之介の脇をすり抜け道場を後にした。
清十郎と自分との距離が次第に離れていく。
それは二年余りの年月が作り出してしまった二人の心を表しているかの様だった。
 

 秋の気配が漂い山の木々は少しずつ紅葉しはじめている。
左近は秋を好んだ。風景の美しさだけではない。何処と無く淋しい雰囲気が自分の心と重なっているのかもしれない。
部屋の近くにある小さな井戸の横に左近は立っていた。そこからの景色は特に見事で、今日も少し前から眺めていたのである。
ふと背後に人の気配を感じると清十郎が近づいて来ていた。
「お邪魔してよろしいかな」
額に汗が光っている。目的が分かった左近は井戸から体を離した。清十郎は顔を洗い、拭き終わると傍らに立って話しかけてきた。
「左近殿の剣、見事でございます。練習で本気ではないとわかっていても勉強になります」
卑屈ではなく、本心からの言葉であることは顔と口調に表れていた。
「清十郎殿とてかなりの腕前、御謙遜なされるな」
世辞ではない。左近が今までに出会った中でも、清十郎の様な技量を持った人物はそうそういなかった。
「貴方にはとても及びません。それに指導もお上手だ。綾之介殿があれだけ太刀筋を極められたのも分かるような気がします」
急に綾之介の名を出してきたので左近は少々不審に思った。清十郎は紅葉している山に目を向けながら、更に言葉を続けてくる。
「綾之介殿の動きを道場で拝見して、最初はどなたが指導したのかと思ったのです。でも、すぐに分かりました」
そこまで言うと清十郎は体ごと左近に向き直った。
「貴方が教えられたのですね、太刀筋がよく似ておられる」
その言葉は単純ではなく様々な清十郎の思いが含まれていた。
言われた左近も表情には出さなかったが、清十郎の心情は推測できていた。
(話す時が来たか)
必ずその時が来るとは思っていた。今がその時だと感じた。
「綾之介殿か・・・そうではなかろう」
それを聞いた清十郎の様子は変わらなかった。自分に向けられた言葉は予想していた範疇のものだったのだろう。あるいは左近にそう語らせる為の誘導だったのかもしれない。
「貴方ほどの方が気付かれていない筈はないですね」
清十郎からはいつもの笑顔が消え、引き締まった表情をしていた。
「綾女殿と私は許婚でした」
静かに、だがはっきりと左近に告げた。
「左様か」
左近の脳裏には葉ヶ塊に到着した夜の、座敷での綾之介が思い出されていた。
(そういうことか)
あの時、綾之介が見せた鳳来洞と同じ表情の訳が今わかった。
だが鳳来洞と葉ヶ塊では、綾之介の心が違う事までをその時の左近が知る由もない。
過去に思いをめぐらせていると清十郎が声をかけてきた。
「今度、御手合わせしていただけないか、貴方のような方と出来れば光栄なのだが」
清十郎は遠慮がちに申し込んできた。その言葉に綾之介の事は含まれていない様に感じられた。それに断る必要もない。左近が承諾すると清十郎は安堵した様に笑顔を浮かべた。
その後は言葉も無く、互いに紅葉をはじめた山々に目を移した。
一人の女を思う二人の男が肩をならべて静かに立っていた。
 

 その日、葉ヶ塊の道場は日頃の鍛錬の成果を試す試合が行われていた。元々は秋の収穫を皆で祝うのが発端だったらしい。
だがいつの頃からかは分からぬが、祝いの日に合わせて試合を行い、その後に里の者皆で宴を行う様になったとの事だった。
参加できるのは、指南役以外の者と定められている。従って、龍馬、綾之介、左近の三人は勿論の事、清十郎や他の指導者は試合の様子を上座で見守っていた。
道場はいつも以上の緊張感に満ちていた。使用しているのは木刀で、試合は寸止めで行われている。一歩間違えば命に関わるが、鍛錬された者にとっては造作もないことだった。最後に残った二人は誰もが認める技の持ち主で、道場の中はそれまで以上の張り詰めた空気に包まれていた。双方とも構えたまま打ち込もうとしない。技が上であればあるほど最初の一振りで勝負が決まることもある。わかっているだけに二人とも動けないでいた。そして剣先が僅かに動いたかに見えた時勝負は決まった。間を置くことなく、一方が木刀を落とし跪いた。その手に血が流れている。あまりの剣の鋭さが鎌鼬を起こしたらしい。押さえても止まることなく血が流れ落ちていた。
「私が」
綾之介は立ち上がると傍に寄り、道場の外に連れ出した。
手当は中でも出来たのだが、負けた上に姿を晒し続けるのは本人にとって屈辱以外の何ものでもないだろう。無論それが必要な場合もあるが、この様な技の持ち主には無用である事を綾之介はわかっている。慣れた手つきで行っていると散会となったらしく、道場内から人が出始めてきた。
「大事ないか」
清十郎の声がした。いつの間にか横に来て心配そうにしている。
そういえば、この者は人一倍練習熱心で清十郎も特に力を入れて指導していた人物だった。
「大丈夫だ、大した怪我ではない」
綾之介はそう答えると清十郎から目を逸らし手当を続けた。苦しい気分がする。悪いと思いつつも、この場から逃げ出したい思いに駆られている自分がいた。
「綾之介殿の手当ならば間違いない、申し訳ないが所用があるので私は先に行かせていただきます」
そう言うと清十郎は背を向けて歩み去っていった。去って行くその姿に綾之介は申し訳ないと心で詫びていた。
これから行われる宴は自分たちの歓迎も兼ねられている。綾之介自身、酒席は苦手な方なのだが里の人々の好意を失礼する訳にはいかない。手当を終えると、綾之介は宴の席へと向った。

 
 どれぐらい経った時だろうか。ふと、一人になりたくなり綾之介は座敷を後にした。宴はまだ明るい時に始まったのだが、いつの間にか外は暗くなり月が出ている。廊下に座ってぼんやり外を眺めていると幼い兄弟が庭の端から駆けて来た。
「綾之介さま」
二人でにこにこしながら挨拶をしてくる。
「もう遅いぞ。眠らなくてはいけないだろう」
優しく叱ると二人は素直に答えて手をつなぎ、来た時と同じように走り去っていった。かわいらしい姿に、綾之介も微笑しながら見送っていた。
だが、その姿が見えなくなると綾之介は淋しげな表情を浮かべた。
葉ヶ塊に来てまだ長くはない。しかし、此処での暮らしに馴染んでいる自分に気がついていた。最初は桔梗の墓参りだけを考えて来たのだが、いつの間にかこの里に愛着を覚えている。
加えて、先日は龍馬から『無理は言えぬが出来れば此処に残ってもらえれば』との申し入れが自分と左近に対して行われていた。
香澄に帰りたい思いは今も変わらないが、誰もいない事も事実である。以前の自分なら一人でも帰っていただろう。けれど、今はそんな気持ちにはなれない。その訳も分かっている。
(あいつはどうするつもりなのだろう)
左近の事が気になっていた。だが左近を思う時は、必ず清十郎も脳裏をよぎる。自然とうなだれる自分がいた。
龍馬の申し入れの結論はまだ出していない。だが、これから先の事を考えなくてはならない時期になっていたのも事実である。
思いつめていた自分を現実に戻したのは、近づいてくる慌しい足音だった。何事かと顔を上げると目の前に藤次が現れた。
その顔は緊迫している。綾之介もただならぬ気配を感じた。
「何かあったのですか」
「見張りがやられた、恐らく間違いなかろう」
藤次の言葉が何を意味しているのかすぐにわかった。亡骸は詰所にあるという。場所を聞くなり綾之介は駆け出した。
安置されている部屋に着くと筵をかけられた亡骸があった。傍に母親らしい女性がすがりつくのも忘れたように呆然と座っている。綾之介は一礼し、筵をずらすと思わず息を呑んだ。
昼間、自分が手当をした者が横たわっていたのである。驚きながらも傷を確認した。
(間違いない)
心臓から背中まで、爪で一気に貫かれている。このような殺されかたは妖魔以外あり得ない。傷を確認した綾之介は掛けてあった筵をそっと戻した。
「何処で襲われたのですか」
その問に共に行動していた隊の者が説明した。聞くなり綾之介は部屋を飛び出していた。
 

 その場所は鬱蒼と木々が生い茂り今宵の月の光も遮っていた。
気を集中させた。だが妖魔の気配は感じられない。
(ならば)
妖刀を抜いた。潜んでいても光をみれば反応してくるかもしれない。
念を妖刀に集中させた。だがおかしい、蒼白い光を放たない。
もう一度落ち着いて念を込めたがそれでも反応しない。
(馬鹿な)
この様な事は今まで無かった。有り得ないことに綾之介が呆然と
小太刀を見つめていると龍馬と左近が駆けつけてきた。
すぐに綾之介の様子が違う事に二人は気がついた。
「どがいした、綾之介殿」
だが綾之介は龍馬の呼びかけに反応せず、小太刀を見つめたままだった。
「綾之介!」
左近が名を呼ぶと、それが呼び水となったのかようやく口を開いた。
「妖刀が、妖刀が反応せぬ」
その声に龍馬も左近も信じられない思いで顔を合わせ、真偽を確かめる為にそれぞれの妖刀に念を込めた。しかし、結果は綾之介と同じで二人とも言葉を失った。
妖刀は蒼白き光を放つ事をしない。
だが、間違いなく妖魔はいる。それも近くに。
恐れていた事が現実となり三人に襲い掛かっていた。

                      (第三話 終)
 
 

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