彩雲(第二話)


 安土城は静寂に包まれていた。
つい先刻まで、ここで激しい戦いが繰り広げられた。
しかし、時はその流れを止める事は決して無い。影忍達の戦いも、今となっては過去の出来事になりつつあった。
だがここに一人、その流れに身を委ねることが出来ず泣き続ける者がいた。
(左近・・・)
涙を止めることが出来なかった。また止めようとも思わなかった。
身を挺して自分を守ってくれた男は、穏やかな表情で目の前に仰臥している。
(私は何もしていない。自分の苦しみだけに囚われて、お主の身になって考えた事など一度たりとて無かった)
綾之介の胸中は後悔と懺悔に溢れていた。今更どうとなるものではない。わかっていても、その思いを止める事は出来なかった。
「左近」
応じる事は無いと知りつつも万感の思いを込め、名を呼びながら震える手を伸ばした。その手が左近の頬に触れる。
まだ温かかった。華奢な細い指で輪郭をそっと包み込んだ。
その時である。
指に微かな拍動が伝わってきた。思わず手を引きそうになったが、離さず慎重に指を頸部に当て続けた。細く速いが、確かに脈打っていた。
(生きている!)
だが、その脈があまり良い脈でない事は知っている。それに手当の方法とてある訳が無い。自分に出来る事はこのまま看取ることだけである。
心のなかに僅かに見えた光明もすぐに闇となった。
(ならば、せめて他の場所で)
影に消えるが忍びの定め。だが、このまま冷たい土の上で最後を迎えさせてはあまりに哀れだ。
顔を上げ、周囲を見渡そうとしたその時。まだ距離はあるが松明をかざした列がこちらに向かって来るのが見えた。どこの軍勢かは分からぬが、自分達に都合の 良い連中でないことだけは確かだ。
気を持ち直し、再び周囲に視界を巡らせていると、崩れた天守閣の城壁が目に飛び込んできた。
龍馬はあの上で妖刀の光の中に消えた。何故か終焉の地をもう一度見届けなければならない気がした。迷っている暇はない。
(左近、少し待ってくれ)
軽やかな跳躍で城壁に降り立った。丁度月が雲に覆われていて中は暗い。次第に雲が流れ、徐々に月が内部を照らし始めると、信じられない光景が目に飛び込ん できた。
「龍馬殿!」
傷つきながらも槍を両手で握りしめ、立っている龍馬がそこにいた。
急ぎ飛び降りて駆け寄ると、龍馬は顔から肩にかけて火傷を負っている。左目は怪我が酷く開けられない。
互いに呆然として声を無くしていた。無理もない。片方は自分が死んだと思い、もう一方は死んだとばかり思っていた人が目の前に立っているのだ。
「終わったんか」
放心状態から脱し切れていない龍馬が問いかけてきた。
それに対し、まだ信じられない綾之介は首を縦に振って答えるのがやっとだった。
「そうか」
頷くと龍馬は肩でひとつ大きな息をした。そして静かに綾之介へ笑みを向けてきた。
「やったぜよ、綾之介殿」
だが綾之介は反応がなく、その表情も硬い。龍馬もすぐにその理由を察した。
「左近はどがいした」
緊張の入った声で尋ねる龍馬に、事の成り行きを手短に説明した。
「どこにいるがじゃ!」
思わずびくりとした。龍馬がこんなに強い物言いを自分に向けたのはこの時が初めてだ。急ぎ案内すると龍馬も脈を取り始めた。
「興隆殿の所へ行くぜよ」
脈を確認するなり言い放った。
「だが、どうすることも」
その言葉を龍馬がさえぎった。
「綾之介殿、人はな、最後まで諦めたらいかん」
はっとした。その言葉は左近が自分に言った事と同じだ。綾之介はあきらめていた自分を恥じた。
(そうか、そうだよな左近)
心を決めると赤い襷をはずした。龍馬も袖の布を裂き、喜平次から受けている傷に布を当て、襷でしっかりと固定した。
左近を抱きかかえた龍馬が駆け出し、太刀と槍を持った綾之介も後に続いた。
興隆の屋敷を目指し、二人はひたすら走り続けた。


 時が子から丑の刻へ移ろうとしていた頃、二人は興隆の屋敷に辿り着いた。
「興隆殿、興隆殿!」
綾之介が力の限り門を叩き、声を張り上げる。間も無く隙間から明かりが漏れてきた。
「どうされた」
急な病人が来たと思ったのか興隆は具合を尋ねてきた。
「綾之介です!御願いします」
「如何された!」
急ぎ興隆は門を開けた。そこには綾之介だけではなく、瀕死の左近を抱えた龍馬が立っていた。抱えている龍馬も重症だ。だが興隆は瞬時に見極め、左近の容態 に注意を向けた。
「早う中へ、雪枝!」
家の中では既に雪枝が待っている。指示に従い左近を横たえた。
興隆は血にまみれた装束を素早く剥ぎ、傷を確認するなり神妙な面持ちで話しかけてきた。
「助ける方法は一つのみ、腹を開けて臓物を縫うしかござらん」
初めて聞く内容に二人は驚き、声を出せずにいた。
「ただし、人に行った事は未だ一度もない。途中で命を落とす事になるやもしれぬ。如何されるか」
「御願いします」
綾之介は即答した。あまりの速さに龍馬は目を剥き、興隆も驚きを隠せない。
(最後まで、命尽きるまであきらめない)
綾之介の心には、左近と龍馬の言葉が深く刻まれていた。
「途中で命を落とすかもと申し上げたが・・・」
念を押すかのように興隆は言葉を続けた。
「始める前に全身を痺れさせる薬を使いまする。今の様子から見ると、それだけでも危ういかもしれませぬ。それでもよろしいか」
「かまわぬ、御願いします」
興隆は綾之介を見つめた。その眼には微塵の迷いもなかった。
「承知つかまつった」
一瞬の間を置いて返答した興隆は、襖で隔てた隣室にて待つように指示すると雪枝と共に準備を始めた。
どれ位の時が経ったのだろう。襖が開き興隆が姿を現した。肩越しに目をつむり臥床している左近が見える。皮膚は蒼白く、この距離では生きているのか死んで いるのか見分けがつかない。
固唾を呑んで興隆の言葉を待った。
「終わりました、息もしておられる」
それを聞いて二人とも体の力が抜けるのを感じた。思わず安堵の笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
「簡単に説明いたしましょう」
その様子を見ながら興隆は再び口を開いた。
「腹の中の傷は思っていた程ではなかった。だが、その割には血の出方が酷い。傷を負った後、かなり動かれたのではないか」
その言葉に綾之介はざっくり胸をえぐられた気がした。
自分を守る為に左近は蘭丸と刃を交わした。その時、すでに傷を受けていたのは間違いない。
「体内にある血を半分失うと人は死ぬと考えられております。
どれ程の血を失われたかは見当つきかねるが、かなりの量とは推察できまする」
「左近は助からんかもしれん、ちゅうことか」
それまで黙っていた龍馬が、堪えきれず興隆に尋ねた。
「わかりませぬ。ただ望みとしては臓物の色合いがそれ程悪くはない。他にも脈が速く、手足が冷たい事が上げられまする。これは少ない血を生きていく為に大 切な臓物に集めている証拠。ただし、長く続きますと悪い結果をもたらす事となります」
淡々と、しかし解り易く興隆は続ける。
「今からは体を温め、体内の隅々まで血をめぐらせる事が肝要となります。だが、それを行っても朝までに目が覚められぬ場合、もはや他に手立てはござりませ ぬ」
そこまで話すと興隆の気配が変わった。目には凄みとも取れる光が宿っている。
「覚悟はされておいた方が良い、常人ならばとっくに死んでいる」
「そう言われる岩室殿とて何者か」
すかさず綾之介は切り返した。初めて会った時から興隆には何か感じる所があった。それに自分達の姿を見て驚かないのも不自然だ。
「我が名は岩室、分かられぬか」
「甲賀か・・・」
龍馬が呟く。綾之介は腰の妖刀を意識した。
だが、興隆は黙って頷くだけで、それ以上動く気配はない。
「御心配無用、交える気はござらん。話は後で致そう。今は龍馬殿、貴方の手当が先だ」
いつの間にか雪枝が塗り薬の準備を整えていた。興隆は綾之介に向って話しを続ける。
「掛け物をもう一枚用意して御座います。いろりで暖め、いま掛けている物と交互に使い、決して体を冷やさぬように。何かあれば御遠慮なく申されよ」
頷くのを確認した興隆は龍馬の手当に入った。左近の傍に座り、顔を覗き込むと微かな息づかいが綾之介に伝わってくる。
言われるままに掛け物を暖め、体が冷えぬようにした。季節柄、汗が滝のように噴き出したが、救いたい一心で苦しいとは思わなかった。手当が済んだ龍馬も傍 に来て、同じ事を二人で繰り返し行った。
外では次第に空が白み始めていた。


 朝が来た。
徐々に光が差し込み、部屋を明るく満たそうとする。だが、綾之介と龍馬の心まで光は届いていなかった。
左近の意識はまだ戻っていなかった。
『朝までに意識が戻らなければ・・・』
興隆の言葉が現実の事に成りつつあった。そうなって欲しくはない。だが、もしもの場合は受け入れなければならない事でもある。時間の流れが重くのしかかっ ていた。
「失礼する」
襖の向こうから声をかけ興隆が入ってきた。左近の傍に座り脈を取り始めたその瞬間、綾之介は耐え切れず部屋を駆け出した。龍馬が自分の名を呼ぶのが聞こえ たがそのまま走り続けた。興隆の見立てを聞く勇気が自分には無かった。気付くと薬草畑の端まで来ていた。
それ以上進む事は叶わず、その場に膝をついて座り込んだ。
兄を、里を失った時、これ以上の悲しみは無いと思っていた。だが自分は何故か、あの時以上かもしれぬ悲しみに襲われている。
(左近・・・)
覚悟しなければならない。いや、夜中に看病をしながら覚悟は固めていた筈だった。暖めた掛け物を換える度に、これが最後になるかもしれぬと思いながら行っ てきた。
しかし、いざとなると覚悟しきれていない自分がいた。
目の前に名も知らぬ花が一輪咲いている。朝日を浴びたその花が綾之介には眩しかった。
遠くで呼ぶ声に振り向くと、淑恵が畑の中ほどで自分に叫んでいる。
「綾之介さま、お父上が呼んでいます」
ついに現実を受け入れる時が来た。無論、結果はまだ出ていないが自分の予想は外れる事はないだろう。綾之介は左近のいる部屋に向かい、ふらりと歩きだし た。


 部屋の前まで来ると、龍馬が背をむけて座っているのが見えたが、それ以上近づく事が出来ない。まるで足が前に進む事を忘れたかの様だ。立ちすくんでいる 気配を感じたのか龍馬が振り返った。
その目に涙が光っている。
「綾之介殿」
声から呼ばれているのが分かった。歩みを進めると左近の体が見え始めたが、顔は龍馬に隠れ確認が出来ない。部屋の柱に手を触れて歩みを止めた。もうこれ以 上進む事は出来なかった。
龍馬がゆっくり体をねじる。それに伴い徐々に顔が見えてきた。
そこには、自分を見つめる左近がいた。
「綾之介」
静かに、もう二度と聞く事は出来ないと思っていた声に名を呼ばれた。途端に力が抜け、柱に沿って体が崩れ座り込んだ。
「良かったの、綾之介殿」
龍馬の言葉に頷くのが精一杯だった。何か言いたいのだが言葉にならない。泣くまいとしたが押さえる事は出来ず、瞳から涙があふれ始めた。そんな自分の背 を、龍馬の大きな手が優しく撫ぜている。
朝の光が三人を包み込むように部屋に満ちていた。


 太陽の光がまぶしさを増していた。夏の花々はその光を浴び、美しく、鮮やかに咲き誇っている。
あの日からすでに二ヶ月近く経とうとしていた。龍馬の火傷は薬により良くなっていた。諦めていた左目も損傷はなく、幸い見え方も以前と変わりないという。
左近も興隆が案じていたような他の病を併発することなく、順調に回復していた。近頃では体を慣らす為、雪枝の下で薬草畑での仕事を手伝っている。
「いつもは淑恵とふたりで大変なの。でも、今は四人だからとても早くて助かるわ」
雪枝は明るく話す。四人というのは雪枝と淑恵、綾之介、そして
左近だ。実はあれ以来、綾之介と左近は殆ど話していなかった。
それどころか視線も合わせていない。詳細に説明すると綾之介が左近を避けていた。
左近の回復は順調だが、こちらの回復は思わしくない。
何となくお互い気まずいのだ。その理由は二人とも分かっている。
原因が原因だけに事は簡単では無い。だが左近が手伝うようになってからは綾之介も関わる必要があり、少しずつだが言葉は交わすようになっていった。
しかし、今日は雪枝が興隆の手伝いで朝からいない。加えて昼過ぎからは淑恵も遊びに出かけていない。飲み込みが早く、要領の良い左近に綾之介が今更教える 事はなく、二人で黙々と作業を続けるしかなかった。
やがて陽が傾き始めた。今日はこれまでだ。
片付けも終わり、屋敷へと歩き始めた後姿に左近は思い切って声をかけた。
「綾女」
その声に綾之介が足を止め振り返った。こうして視線を交わすのは安土城以来だ。
夕日が綾之介を照らし、風が二人の間を通り抜けていった。
「すまなかった」
それしか言えなかった。
その言葉に綾之介は暫し自分から視線を逸らした。何か思案している様だったが、見つめ返すと静かに首を横に振ってきた。表情は笑っているようにも当惑して いるようにも見えた。
後は言葉も無く、屋敷に向かい綾之介は駆け出して行った。追いかける事も出来ず、左近は黙ってその姿を見つめ続けるしかなかった。
沈む夕日が左近の影を長く地面に落としていた。


 綾之介は淑恵に添い寝していた。つい先程まで友達との出来事を楽しそうに話していたが今は眠っている。その可愛らしい顔を見ていると自然に笑みがこぼれ てきた。だが、夕暮れの事を思い出すと表情は一変した。
綾女と呼ばれて心が震えた。左近の目を、勇気を振り絞って真っ直ぐに見つめた。そこまでは想定内だった。けれど、何故あの時首を横に振ったのか自分でも分 からない。考えても答えは出そうに無い。
「綾之介様」
ひそめた声で雪枝が呼ぶ。起き上がり、そっと淑恵の傍を後にした。
雪枝と共に奥の座敷の襖を開けると、興隆は勿論の事、既に龍馬と左近が来て座っていた。出立前の挨拶を交わす為の集まりだった。
「長い間お世話になり申した。十分な礼も出来ずに申し訳なく思うちょるがです。勝手な物言いじゃが、どうか許しとうせ」
そう言うと龍馬は頭を下げ、綾之介と左近もそれに倣った。
「礼など無用でござる、どうか顔を上げてくだされ」
その声に三人は頭を元に戻すと、興隆、雪枝が穏やかな笑顔を見せていた。
「礼を受けるどころか、詫びを申さねばなりませぬ。伊賀では甲賀が申し訳ない事をいたしました」
興隆から先程の笑顔は消えていた。
「私は甲賀五十三家のひとつ、岩室家の者。こうして城下に潜り込み、医師を生業としながら話を集めるのが役目にございます」
興隆は自ら正体を明かす事により、あの夜の約束を果たした。
伊賀での事を責めるつもりなど毛頭ない。仕方なかったのだ。
屋敷の門近くまで二人は見送りに来てくれた。別れの前、綾之介は迷っていた事を思い切って行動に移した。
「淑恵どのに」
手には自ら作った小ぶりな鞠が乗っていた。別れを告げずに立ち去らなければならない自分の、せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
「まぁ可愛いこと、淑恵は喜びますわ」
雪枝は受け取ると目を細めながら言った。そこまでなら良かった。
「綾之介様も御自分の御子が女の子だったらお作りになるのでしょうね、今から楽しみでしょう龍馬殿」
空気が一変した。しかし雪枝は強い、笑顔のままだ。
「雪枝・・・」
興隆も言葉が続かない。思わず頭を抱えている。
「あら、だって綾之介様は男の身なりをされているけれど本当は違いますわよね、龍馬殿とは夫婦なのでしょう。」
その言葉に誰も反応出来ない。綾之介にいたっては、そこに立っているだけでやっとだ。さすがに雪枝も微妙な雰囲気を感じたらしい。
「綾之介様、もしかして女だという事は皆様に内緒にされていたのですか」
硬い声音で恐る恐る尋ねてきた。
「いやー知っていたぜよ。なあ、左近」
ぎくりと綾之介が顔を向けた。
「勿論だ、こちらこそ事情があり失礼した」
突然振られたがそこは左近、見事に言葉を続けその場をしのぐ。
「そう、なら良かったですわ」
綾之介の答えを待たずに雪枝はほっとして笑顔になった。
(全然良くない、それにいつから知っていたのだ・・・)
にっこりしている雪枝と、とりあえず和やかな皆の雰囲気に綾之介は黙り込む事を続けるしかなかった。
そんな綾之介の様子に龍馬が気付いた。そろそろ潮時だ。
「では、参るか」
三人が深く頭を下げると、興隆と雪枝も礼を返した。
「駆けるぞ」
言葉と同時に駆け出した龍馬の後を、綾之介と左近が続いた。
その姿が見えなくなるまで、興隆と雪枝は見送り続けた。

 
 星がきらめいている。葉ヶ塊の里はもう目前になっていた。
今日中に着けぬ事はなかったのだが、野宿をするのもこれが最後。今宵はここで泊まることにした。赤い炎を三人で囲み、今までの出来事を話していた時の事で ある。
「お二人に聞きたい事があるのだが」
それまで聞き役に徹していた綾之介が話しかけてきた。それを受けて龍馬と左近は目で合図した。その事を聞かれぬように興隆の屋敷を出てから警戒してきたの だが、もう限界だ。なる様にしかない。
「いつ頃から気付いていたのですか」
聞きにくそうな様子で綾之介が尋ねてきた。それに対し、龍馬が左近を顎でしゃくる。
「俺からか」
「お主のほうが先に決まっとる」
仕方ない、左近から話し始めた。
「すぐにおかしいとは感じていた。しかし、認めたくなくてな」
「認めたくない?」
綾之介が怪訝な面持ちで口を挟むと、苦笑しながら左近は頷いた。
「夢想流の免許皆伝を受けてから、俺の太刀を一度止めても二度止める奴はいなかった。それが二度も止めたのがお主だ。まさか女に止められるとはな、口惜し くて認めたくなかった」
「それじゃいつ認めたぜよ、風呂を断った時か」
今度は龍馬が口を挟んできた。
「いや」
「じゃ、何ぜよ」
「寝顔、男があんな顔して寝る訳ないだろう」
聞いた途端、綾之介は頬が赤くなるのを感じた。いったい自分はどんな顔をして眠っていたのだろうか。焚き火の色が、これ程ありがたく感じられた事はない。
「龍馬殿は」
左近も気恥ずかしかったらしい、すぐに話の駒を龍馬にまわした。
「わしか、わしは左近、お主を見ていて気付いたぜよ」
「俺か!」
駒をまわしたつもりが自分が関わっていると分かり、左近は思わず声が大きくなった。
「戦いの時、いつも綾之介殿を気遣っちょった」
「そんな事はない、妖刀を使いこなせぬ俺は自分の身でやっとだった」
左近はいささか狼狽していた。だが、構わず龍馬は言葉を続ける。
「何を慌てとる。男らしゅうてええぜよ、何なら詳しく」
「もういい!」
「何を怒っとるがじゃ」
左近にとって今の状況はこの上なく悪い。何とかして脱したいのだが出口が見えない。それもその筈、龍馬は左近の綾之介に対する気持ちに気付いていなかっ た。揺れはじめている綾之介の心にもだ。
それは龍馬のいい所でもあるのだが、このままでは雲行きが悪い。綾之介にとってもその事は同じで、打開すべく口を開いた。
「いずれにせよ二人とも人が悪いな」
少し不機嫌そうに言った。
「お主ほどではない」
珍しくとぼけた口調で左近が言い返してきた。思わず綾之介は目を向けたが次の瞬間には吹き出していた。軽口を叩く事の少ないこの男の言い方が余程おかし かったらしく、笑いが止まらないでいる。
そんな綾之介が二人には新鮮に見えた。その訳は仕草だ。口に手を当て小首をかしげながら笑っている。こんな素振りを今まで見せた事は無かった。
もう隠す必要はない。本来の彼女がそこに居た。


 葉ヶ塊の結界に間も無く入ろうとしていた。
綾之介は初めて此処を訪れた時の事を思い出していた。
(やられっぱなしだったな)
何も抵抗できずに次々と罠にかかっていった。本当に未熟者だった。
(ひょっとして、左近が自分の事を心配するようになったのは、それからだったのかもしれぬな)
そんな事を考えながら進んでいると、先頭の龍馬が足を止めた。
「藤次殿か」
「その通り、藤次にございます」
前方の木から、葉ヶ塊一番隊副隊長の藤次が三人の前に姿を現した。
「お帰りなさいませ、御本懐達成お喜び申し上げます」
「留守の間大変じゃったろう、すまんかった」
藤次は首を横に振った。残された者たちも苦労はしたが、龍馬達とは比べようもない事は分かっていた。
「早く里へ、皆も喜びます」
三人は頷き歩みを進め、ほど無く里へ辿り着いた。二年の歳月が流れていたが、修復された葉ヶ塊は昔のままだった。懐かしく見上げながら中へ足を進めると、 皆、涙を流しながら無事の帰りを喜んでくれた。
「龍馬様」
少しばかり離れた所から一人の女が走り寄って来る。年の頃は綾之介より少し上だろうか。どことなく雰囲気が雪枝に似ていた。
「多喜殿、久しぶりじゃの」
「御無事のお帰り、うれしゅうございます」
多喜は満面の笑みを浮かべている。余程走ってきたらしく、乱れた息で肩が大きく上下していた。それでも背後の綾之介と左近に気付くと丁寧に頭を下げた。
「今宵はどうされますか、我等の気持ちもありますが三人だけの方が良いのでは」
いつの間にか藤次が傍に来て伺いを立てていた。
「悪いがそうしてくれるかの」
龍馬が返答すると、藤次も黙って頷いた。
「そういうことじゃ多喜、よろしくたのむ」
「はい、父上」
多喜は藤次の娘だった。一礼すると背をむけ元の方向へ戻って行く。去っていくその姿は、綾之介の胸に一人の少女を思い出させていた。
(桔梗さん・・・)
声が聞こえる筈は無いのだが、通じたように龍馬が話しかけてきた。
「桔梗の所に行きたいんじゃが、ええかの」
黙って頷くと後に続いた。
桔梗の墓はきれいにされていた。誰かが植えたのか、旅立ちの日と同じように紫と白の桔梗の花が風に揺れていた。
(今、戻りました)
それ以外の言葉を今はできなかった。桔梗に最後まで言えなかった事が自分にはある。全てが終われば話す心づもりでいた。だが戦いは終わったが「綾女」の事 はまだだ。話すのはもう少し先になりそうだと綾之介は感じていた。
気がつけば、辺りは夕闇が広がり始めていた。


 葉ヶ塊の座敷では三人だけのささやかな宴が行われていた。昨日と違い会話は少なかった。里の落ち着いた雰囲気の為かもしれない。ふと、龍馬が綾之介に尋 ねてきた。
「時に綾之介殿、その身なりはいつまでされるつもりかの」
その問いかけに綾之介は返事に窮した。
(いつまで・・・)
手にしていた杯を戻すと綾之介は考え始めた。
これまで考えた事が無かった。綾之介と称したあの時から、再び女に戻る日が来るとは思ってもいなかったのである。だがこうなった以上、いつまでもという訳 にはいかない。何故か自分の前に座っている左近が気になった。それがどうしてなのか綾之介はまだ掴みかねていた。
「失礼します」
答えに困っていると、障子が開いて多喜が現れた。
「そろそろなくなっている頃でございましょう」
変えの酒を運んで来たのだ。にこやかに微笑み、障子を閉めかけた多喜の目が何かに留まった。
「お待ちくださいませ、こちらに来ていただけませんか」
その声に誰かが近づいてくる気配がする。
「私から差し出がましいとは存じますが、早いほうが良いと思って」
言いながら障子を開けると、そこに一人の男が頭を下げ座っていた。
やがて上げられた顔を見たその時、綾之介は我が目を疑った。
だが、間違う筈は無い。
そこに居たのは清十郎。綾女の許婚だった。

                     (第二話 終)
 
 

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