彩雲(第一話)
 

 どこからか蛙の鳴き声が響いてくる。
季節は梅雨。しかし先程からの雨も止み、時折雲の隙間から
あと数日で満月になるであろう月が顔を覗かせていた。
 

「では、お先にいただきます龍馬殿」
「長湯はせんようにの、まだ体にこたえると思うぜよ」
自分の体調を気遣う龍馬に綾之介は微笑みながら軽く会釈し部屋を後にした。
ここは安土城下のはずれ。医者、岩室興隆の屋敷である。十日程前から綾之介と龍馬はこの岩室家に世話になっていた。
事の始めは興隆の娘、淑恵が雨で増水した川に足を滑らせ危ない所を助けた事に始まる。最初は屋敷まで送り届けすぐに失礼するつもりだった。しかし「娘の恩人に礼もせず帰す事はできぬ」との興隆、雪枝夫婦の申し出を無下には断りづらく一夜の宿を借りる次第となったのである。
予定では翌朝に出立するつもりであったが綾之介が体調を崩し熱を出した。興隆によると「川に入った事、送るまでの間にずぶ濡れになり体を冷やした事が原因」との見立てであった。
だが原因はそれだけではない。
二人とも口には出さなかったが体調を崩した原因は他に思い当たる所がある。長期に続く妖魔との戦い、疲れた心身を十分に休めるには程遠い野宿の連続により綾之介の体力が落ちていたのは明らかだった。綾之介本人は悟られまいと気丈に振舞ってはいたのだが、共に戦い、旅をしてきた龍馬の目は誤魔化せない。
(何とかせんといかんが・・・)
今回の事は龍馬がそう案じていた矢先の出来事だった。幸い興隆は医者。加えて裏庭では薬草の栽培を雪枝が行い知識も明るかった。そのおかげで熱は程なく下がり養生の甲斐あって顔色も良くなった。心配そうに覗きに来ていた淑恵にはすぐになつかれ遊び相手をする事もしばしばで、綾之介自身忘れかけていた笑い声を出すことも多くなっていた。結果的には不幸中の幸いだったと考えて良かったのかもしれない。
湯殿へ向かう綾之介の気配が遠くになるのを感じながら龍馬は行灯の傍らで槍の手入れを始めた。外からは相変わらず蛙の声が響き、その声に耳を傾けながら静かに手を動かし続ける。
信長との決戦は二日後に迫っていた。
ふと、龍馬はその手を止め目を閉じた。そして静かに目を開き外に向かって声をかける。
「入ってきていいぜよ 左近」
その呼びかけに音も無く障子が引かれる。姿を現したのは紛れも無く左近だった。
「久しぶりやの、伊賀以来会うとらんきの」
「そうだな」
左近は短く答え対峙する形で龍馬の前に座る。
「少し痩せたか」
「かもしれぬな」
男同士、短い会話のやりとりが交わされる。目の前にいる左近は少し痩せたようにも見えるがその存在感は変わらずで、そこにいるだけで部屋の空気が張り詰めた感じさえする。腰までの長い髪もそのままだ。
「明後日、子の刻に夜襲をかける」
間を置く事なく告げた。左近の表情に変化は無い。
龍馬は懐に手を入れると折りたたまれた紙を二人の間の床に広げた。そこには城の見取り図が描かれていた。無論どこの城の物かは口に出す必要もない。紙の上に指を走らせながら調べた事柄を話す間、左近は黙って聞いていた。そして龍馬は最後にこう話す。
「わしはここから、綾之介殿はこちらからの二手に別れて攻める。左近、お主は綾之介殿の援護を頼む」
と告げた時の事、
「聞かせてもらった後で悪いが俺は参戦するとは決めておらぬ」
それまで黙っていた左近が相変わらずの感情を入れない淡々とした口調で言葉を返してきた。
思わず出そうになる溜息を龍馬は堪える。
(ひねくれちょるの、まぁ今に始まった事じゃないきの)
参戦する気が無いのならここに来る筈はない。来た事自体が参戦する意思の表れであった。なのにこの男はこの場に及んでもまだ内心を隠そうとしている。
再び出そうになる溜息を堪えて言葉を続けた。
「綾之介殿ひとりでは無理じゃろうて・・・いや、命を失う事はさけられんぜよ左近」
左近の目がごく僅かだが厳しくなる。普段より心の動静を表現する事の少ないこの男が今宵初めて見せた感情だった。
「何故だ、我等三人の中で妖刀の力を最も使いこなせているのは綾之介ではないか」
先程迄と違い左近の口調が色をなしている事に龍馬は気付いたが、あえてその事には触れず言葉を重ねる。
「それでも無理じゃろうて、安土城には朧衆だけじゃないぜよ。下忍の妖魔にいたっては、その数も見当がつかん。妖刀を使う時どれ程の力が必要かわかっとるじゃろ左近」
まるで諭すかのような静かな物言いに左近は返す言葉が見つからなかった。妖刀を使った時の体力の消耗は二人とも身を持って分かっている。
返答できないでいる左近に龍馬が再び話しかけた。
「おなごぜよ、綾之介殿は・・・」
無言の時が部屋の中を流れる。外では蛙の声に加え、気の早い夏虫の鳴き声も聞こえてきた。
「こればかりはどうしようも出来ん、相手が多ければ疲れた時にやられるのは目にみえとる。剣術の腕は右に出る者は少なかろうけんどな。綾之介殿は元々優れていた上にお主が更に鍛えたからの」
龍馬は一度言葉を切り左近の反応を見る。だがその顔はいつもの心の動きを読ませない表情に戻っていた。
部屋の中に夏虫と蛙の鳴き声だけが響いている。蛙の鳴き声を何回聞いた時の事だったろうか、おもむろに龍馬は広げていた紙を閉じた。そして落としていた視線を真っ直ぐ左近に向ける。左近もまたその眼差しを正面から受け止めた。
「持っていけ」
そう言いながら紙の上に手を伸ばし左近の膝頭の前に進めた。
左近もちらりと自分に近づけられた紙に目をやるがすぐに視線を戻す。
「行くかどうか分からぬ俺が持っていてどうなるものでもあるまい」
そんな左近から目を逸らすことなく龍馬はゆっくり首を振る。
「お主は来る」
「勝手に決めるな」
「いや、必ず来る。あんな情けない思い、お主はもう一遍味わいたいちゅうがか」
その言葉に左近は眉をひそめる。
(あれは葉ヶ塊を出てそう経ってない時の事だった・・・)
左近と龍馬は暫し思いを過去へとめぐらせた
 

「終わったな」
「あぁ」
綾之介と左近の間で言葉がかわされる。それを傍らで聞いていた龍馬も黙って頷いた。
「伊賀はまだ遠い、先を急ぐぜよ」
葉ヶ塊を出てまだ数日しか経っていない。しかし、すでに妖魔は何度も襲ってきた。今も倒したばかりである。ゆっくりしている暇は無い。伊賀に知らせる為にも先を急ぐ必要があった。龍馬の言葉に綾之介と左近が頷き歩き始める。
ーその時ー
背後からの殺気に気付き振り返ると、一匹の妖魔が上より襲い掛かってくる瞬間だった。間合いが最も接近していたのは綾之介である。
「綾之介!」
左近が叫んだ時、すでに綾之介の体は回避の為に飛んでいた。しかし僅かばかり遅い。妖魔の鋭い爪は容赦なく綾之介の右肩に下ろされる。
「ぐっ」
痛みに声を上げ思わず手にしていた小太刀を離す。はっとして拾おうとした綾之介の頭上では正に妖魔が止めの一撃を振り下ろす瞬間!
しかしその腕は振り下ろされることは無かった。すでに左近の太刀が妖魔に止めを刺していたのである。崩れ落ちた屍は跡形なく消え去った。
後には再び静寂の時が何事も無かったかの様に三人を包む。
「大丈夫か綾之介殿」
鮮血で右肩を染め、まだ立ち上れない綾之介に龍馬が駆け寄り傷の具合を確認する。幸い出血の割に傷は小さく浅い。
「傷は深くないぜよ、早う手当てを・・・」
そう言いつつ傷から綾之介へと視線を移した時の事、途端に龍馬の表情が訝しげに変化した。
「綾之介殿?」
綾之介の顔は血の気が失せ強張っていた。視線は龍馬の肩口を通り後方へと注がれている。不審に思いながら綾之介が凝視している方向を振り返ると「それ」が目に入り龍馬は納得した。怒った顔つきで左近が綾之介を見下ろしている。左近という男、自分は勿論のこと他人に対しても厳しい事が多かった。こと剣術に関しては一切の妥協を許さない。綾之介の剣さばきに関しては特に厳しい。この男なりの思いやりからではあったのだろう。戦場においては些細な失敗も命に関わる。綾之介の行動を振り返ると確かに気配に気付くのが遅かった。だがこの事に関しては自分達も同様である。左近の表情が厳しいのは綾之介が小太刀を簡単に手放してしまった事に起因しているのは明白であった。
小太刀を手にした左近が静かに歩み寄ってくる。龍馬は背後にいる綾之介が緊張感を増しているのが手に取るようにわかった。叱責をうけるのは火を見るより明らかで、少々可哀想な気もしたがこればかりはいたしかたない。
歩みを止めた左近がじっと綾之介を見つめている。
(蛇に睨まれた蛙じゃの・・・)
ひやひやしながら龍馬は見守る。まるで綾之介の親にでもなった心情だ。
「未熟者」
まず一言。続いてこうも付け加える。
「お主の様な未熟者と一緒では我等の命とて危ういものよ」
綾之介の顔色が先程と一変し途端に紅潮する。言われずともその事は本人が最も分かっていた。
「すまぬ」
いまにも消え入りそうな声で返答するのが精一杯だった。左近とてそれ以上追い討ちをかける気は無い。手にしていた小太刀を黙って返す。
「手当しろ、薬はあるのか」
頷くと綾之介は木立の中へ入っていく。奥から清流の音が聴こえていた。
綾之介の姿が見えなくなった木立を見つめたまま龍馬は口を開いた。
「左近、ちっくと言いすぎと思うがの」
それに対し答えが無い。妙に思って振り返ると、そこにはいつも以上の厳しい表情の左近がいた。よく見れば両拳は白くなるほど硬く握られ細かく震えている。
「左近?」
「不甲斐無い事よ」
その様子と言葉から龍馬は悟った。「未熟者」という言葉は綾之介だけではなく左近は自分にも向けていたのである。
(そういう事じゃったんか)
龍馬は手練れの忍びだ。綾之介との付き合いは短いが感づいてはいた。ただ、恐らくはとっくに気付いているであろう左近が何も言わないので今まで黙っていただけのことであった。
龍馬は慎重に言葉を選び左近に話しかけた。綾之介の事でいずれ話しておいた方がいいと前々から思ってはいたのである。
「男が二人も揃うていて情けない事ぜよ」
「そうだな・・・」
その呼びかけに対し左近も静かに応じた。
無論、それからも二人の綾之介に対する態度に変わりは無かった。あえて言うなら左近の綾之介への剣の指導は以前にも増して厳しくなった。戦場では常に援護してやれるとは限らない、と言うよりそれは不可能だ。今日の様な事を繰り返さない為には本人が今以上になるしかない。そしてこの事が綾之介を今日までの熾烈な戦いの中、生き延びさせることにつながっていた。
 

(その様なこともあったな)
二人は現在の時に思いを戻した。
再び左近は自分の前にある折たたまれた紙に目をやる。だが、その紙に手を伸ばすことが出来ずにいた。
(妖刀を未だ使いこなせぬ俺が行っても如何ほどの役に立つものか)
これから向かう先は敵の本陣、安土城である。そこで待ち構えている朧衆は今迄に刃を交わしたどの朧衆よりも手練れである事は容易に想像できる。しかし今の自分は妖刀の力を引き出しきれていない。剣の太刀筋こそ綾之介より未だ上だが妖刀となると全く逆だ。行っても足手まといになるだけやもしれぬ。
(だが・・・)
先程龍馬が話したように下忍の数とてかなりのものだろう。朧衆には無理だとしても下忍は己の力で十分だ。自分が下忍を引き受けるだけでも綾之介の援護になる事を左近は確信していた。だからこうしてここに来たのである。だが普段よりの行動や言動がいまひとつ左近を素直にさせないでいる。
そんな時、龍馬がぽつりと声をかけた。
「左近」
いつもより低い押し殺したような声で名を呼ぶ。龍馬の顔は行灯の光が横から照らし複雑な陰影をつくっていた。
「ひとつ、聞きたいことがあるがじゃ」
「何だ」
そう言いつつも左近は次に自分が向けられるであろう言葉を予測出来た。龍馬にしてみても自分がこれから言わんとする事を左近が既に察知していることは分かっている。それでも聞かないままにはしておけなかった。
「綾之介殿と何があったがじゃ」
「何故その様な事を聞く」
龍馬の問に答えて無い事は分かっていたがそれ以外の言葉が浮かんでこない。
今度こそふうと溜息をついて龍馬は続ける。
「鳳来洞から戻ってからの事じゃけんどな・・・」
左近の予測通りの言葉で龍馬は話し始めた。
「あれ以来、綾之介殿の様子が変わっての。何かは分からんがじっとして考え込む事が多くなった。わしゃてっきりお主を説き伏せるのにしくじった事を悔やんでいるのじゃと思っとった。ところが『そうではない』という。そんなら何があったがじゃと聞いても後はだんまりでの」
龍馬は一旦そこで話を切ると再度左近に振る。
「それとも何か、話しにくい事ちゅうがか」
その時、左近は自分の心の臓が何かに触れたようにぴくりと打つのを感じた。鳳来洞で己が彼女にとった行為が頭の中によみがえって来る。
平手打ちを見舞われた瞬間、怒らせたとのだと思った。しかし次に目に映った彼女は予想と全く異なっていた。怒り顔をしているとばかり思っていた彼女は眼を見開きおびえた様子で動揺を隠し切れないでいた。あの後すぐに立ち去ってしまった事も理解できる。
(苦しみ続けていたのだな・・・)
その後の様子を聞いたことで左近は己の行動に対し自責の念に駆られていた。
決して気まぐれではない。また己の戦いへの迷いのはけ口でもない。
彼女への思いを自分は男としての行動で示した。だがそれは自分本位の考えであり、あの時彼女がとった行動は至極当然の事といえる。
今宵、ここに来たのは安土城での参戦の意思を伝える為だった。
この戦いに疑問はある。また生きて帰れる事は無いだろう。勝手な言い草だが己の命運が尽きようとも最後まで彼女を守りたいという決断からここにやって来たのである。しかし自分が戦いに参加するといま知ったらいらぬ動揺を与えてしまうやもしれぬ。左近はどう伝えるべきか逡巡していた。
「左近?」
再び龍馬が尋ねてきた。
「その事は、またの機会に話すとしよう」
「今はまだ言えん、ちゅうことか」
「近いうちに必ずだ。この世になるかあの世になるかは分からぬが・・・」
そう言うと左近は膝の前にある紙を静かに掴み懐へしまい込む。
それは遠まわしではあるが安土での戦いに対しての意思表示であった。
「わかった」
今はそれ以上の言葉を聞くのは無理だと龍馬も諦めた。
「では」
左近は立ち上がると部屋を後にした。閉められた障子から気配はすぐに消えた。
 

 それから程なくして綾之介が戻ってきた。
「お先にすみませんでした、龍馬殿」
「いや、かまわんぜよ」
そう言いながら龍馬は湯上りの綾之介の姿に目を奪われる。
湯浴みをして来た後で頬はほんのり桜色に染まっている。綾之介は女性として花ひらく時期を迎えていた。小袖を着て城下を歩けば振り返る者は少なくはないだろう。だが現実の彼女は違う。里を失ったあの日から男として過ごして来た。気付かれない為に女を感じさせるような気配を見せた事はない。今もそうだ。まだ乾いてない髪をいつものように頭の高い位置に結い上げている。そうする事により眦は上がり、顔の印象をきつくさせていた。
「どうかしましたか」
しげしげと見ていたのであろう、綾之介が不思議そうに尋ねてきた。
「い、いやなんともない。そんじゃわしも入るとするかの」
まさか見とれていたとは言えない。いつもと変わらぬ人懐っこい笑顔を向けて部屋を出ようとしたその時であった。
「龍馬殿」
振り返ると綾之介が部屋の中ほどで立ったまま自分を見ている。先程までとは異なった雰囲気で訝しげな面持ちだ。
「どがいした」
だが、綾之介は答えずに自分の顔を黙って見ている。何か言いたそうな様子だがすぐには口を開こうとしない。探っている様にも見える。ややあってようやく話しかけてきた。
「龍馬殿が言われていた様に良い湯でした」
笑って綾之介が言った。その言葉が本心ではないことに気付いたがそれには触れない方が良い様に思え、返事の代わりにもう一度笑って部屋をあとにした。少しばかり歩いた所で振り返り、綾之介に思いを馳せる。
(今迄よう頑張ってきたのう、綾之介殿)
男でも今日までの日々は苦難の連続であった。綾之介と称して男の身なりをしていても本当は女である。自分が想像できない苦労を黙って重ねてきた事は間違いない。戦いの中、綾之介は龍馬の心の中で仲間であると同時に妹のような存在になっていた。
(左近と二人でお前さんだけは何とか安土城から生きて帰したいが・・・)
その事が不可能に近い事もすでにわかっていた。しかし願わずにはいられない。
廊下に立つ龍馬の広い背中を月が黙って照らしていた。
 

(来ていたのだな、左近)
一人になった部屋で綾之介は確信していた。室内には「あの日」自分が感じた香りがかすかに残っていた。龍馬を呼び止めたのはその事を聞く為だったのだが出来なかった。吉報であれば龍馬の方から言ってくるであろう。また、もしその様であったとしても今の自分に伝える事は無いだろうと綾之介は確信していた。鳳来洞から戻ってきての自分は平静を装う事が出来なかった。「左近」とは口にできず「あいつ」と呼んでいたことからも龍馬は何かを感じていたに違いない。だが龍馬は何度も問いただす事をしなかった。その気遣いを綾之介はわかっている。だからこそ先刻問いかける事が出来なかったのである。
綾之介は部屋の隅にある小さな鏡台の前に座り、髪を乾かす為に結びをほどいた。鏡の中には約二年の間、自分にしか見せた事の無い「綾女」がいた。結い上げていた時と異なり、たおやかな面立ちをしている。そんな自分の姿を見つめながら脳裏にはあの日の出来事がまるで昨日の様に思い出されていた。
(怖かったのだ・・・)
目の前にいる左近が恐ろしくてならなかった。伊賀で名を聞かれた時から左近が自分を女である事は当然分かっていた。だがその後はずっと会っていなかった事もあり、綾之介の中では男としてではなく仲間としての位置づけのままだったのである。
左近の行為に本能的な恐怖を感じた。無我夢中で平手打ちをした後のことは良く覚えていない。ただ体中が震え、もつれそうになる足を必死に堪えて鳳来洞を後にした事だけは今もはっきり思い出せる。
あの後、頭の中は混乱した。
(私に隙があったのだろうか)
自分を責める時もあった。またある時は許婚の事が頭の中をよぎった。
(清十郎殿・・・)
陣内が襲ってこなければ翌日は祝言の筈だった。父が決めた相手ではあったが心優しく武芸に優れた人物だった。あの日、清十郎は自分を庇い妖魔からの一撃に倒れた。その時の光景は今も目に焼きついて離れる事はない。
(清十郎殿はきっとあの世で見ていたに違いない)
綾之介の苦しみは鳳来洞から今日までずっと続いていた。ふと鏡に意識を戻すと、今にも泣き出しそうな顔をした自分がいた。
目を閉じ、唇を強く噛んだ。
(泣いてはいけない)
泣けばすべてが崩れそうな気がした。自らの意思でそれを必死に押し留めた。
そして心の中で自分に強く言い聞かせる。
(今はこの様なことで心を乱す時ではない。妖刀伝の定めに従い 
戦うことが自分の運命なのだ)
眼を開くと、鏡は悲壮な顔つきをした自分を映していた。
 

二日後、三人はそれぞれの思いを抱いて安土城の決戦へ向かった。
死闘の末、蘭丸の野望は潰え冥府魔道を閉じることが出来た。だが龍馬は蘭丸と共に妖刀の光の中に消えた。そして目の前には静かに横たわる左近がいた。こみ上げる慟哭に耐え切れず声をあげ泣き続ける綾之介の姿があった。
                            
                      (第一話 終)
 
 

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