menu琥珀の時(誘い後日譚)其の壱―≪御那己さま≫9
――お前達、妖かしの身となろうとも、ゆめゆめ忘れるでないぞ。自然界に生きる気高き魂、狼一族としての誇りを。野生に生きる獣達は、その脚に自らの命を賭けている・・
何かの折にふと思い出す、吉野の里で寝物語に聞いた言葉。
今でこそ吉野の女神・佐保姫に使える妖魔・犬神となった三匹であったが、その出自は野生の狼の一族、その中でもとりわけ稀有な、白狼の血を引き継ぐ者達であった。【月影に舞う】
獣の命とも言うべき脚が、筋肉の収縮を繰り返し、垂直に切り立った岩壁を、真っ直ぐ上空に向かって駆け登っていく。
その姿は、さながら吹き抜ける風。
人が手にする事のできない野生を、その身に纏(まと)った者達。
吉野の女神に愛でられ、自由に空間を駆け巡る事を許された精霊達。
今、その者達は、一際力強い蹴り出しと共に、その後ろ足を岩壁から解き放った。
更なる高みへ、翼なき獣たちは虚空を駆け、月の光を受けて、三つの銀の軌跡を描く。
跳躍と共に波打つ銀の毛並みは、洞の空間を一巡すると、美しい弧を描いて反転し、流星となって今度は一気に地上へと降下を開始した。
眼下には、広い広間の中央に無防備な姿で佇む『御那己さま』。
耳元で風が唸(うな)る。
風の音は、犬神達にとって子守唄も同じもの。
獣としてこの世に生を受けた時から、吉野の里で聞いて育った懐かしい調べ。
その音に一抹の懐かしさを感じながら、意識は目の前に迫ってくる妖魔に集中させる。
妖魔は別段慌てもせず、そのまま犬神達の方へとその美しい顔を振り向けた。
涼しげな黒曜石の瞳が、犬神達の姿を瞬時に捕らえる。
犬神と女妖魔との視線が激しく絡み合った。
瞬間的に妖魔の双眸がカッと見開かれる。
その口角が微かに上がった。
勝利を確信したような妖魔の笑み。
――!?
一瞬、犬神達の心に動揺が走る。
「馬鹿っ、迷うな!」
激しい叱咤の声が飛ぶ。
『御那己さま』を間に挟み、綾女と対峙している左近が、険しい視線を犬神達の方に向けていた。
躊躇い、恐れ、迷い・・そんな感情は、時として、己自身を窮地に追い込む。
一瞬の迷いが攻撃の矛先を鈍らせ、結果として、敵に攻撃の機会を与えてしまうのだ。
今は戦いの最中(さなか)、迷っている時ではなかった。
一息遅れて同時に繰り出される犬神達の攻撃。
唸る風! 猛る炎! 迸(ほとばし)る雷!
三つの力が合わさる時、それらは互いの妖力を増幅し、破壊の竜を地上に降臨させる!
ズガガァァァ・・――ン
犬神達の放った攻撃が、辺りに凄まじい轟音を轟(とどろ)かせる。
「殺ったか!?」
自らの一撃に一縷(いちる)の望みを託し、犬神達は地面にその四肢を着け、後ろを振り返る。
土煙がモウモウと舞い上がる中、忽然と姿を現した妖魔。
その傍らで、纏(まと)った肩巾(ひれ)が、犬神達を嘲笑うかのように、ゆらゆらと揺れていた。
「お主等の力はこの程度か?」
そうごう然と言い放つ『御那己さま』は、全くの無傷であった。
妖魔の持つ肩巾(ひれ)そのものが妖力を持ち、それを一つ薙(な)いだだけで、犬神達の攻撃は、その方向を歪められてしまったのである。
「期待はずれもいいとこじゃ・・」
犬神達の攻撃を鼻で笑うと、妖魔は舞うような仕草で空を斜め上になぎ払った。
殺意の風が、逆に三匹目掛けて返される。
「くっ!」
犬神達は四肢を踏ん張り、辛うじてその攻撃を念で弾き飛ばした。
更なる第二波。
「が・・はっ」
犬神の一匹が、抗しきれず、岩壁に叩きつけられる。
「二狼太っ!」
「あんちゃん!」
ほぼ同時に、その者の名が、影忍と犬神の口から飛び出した。
二狼太、犬神の次男。
かの者は、この奥の間に続く魔風結界を破った際、かなりの妖力を消耗し、疲労の極地にあった。
その弱った体に、相手の放った攻撃が、まともに直撃したのだ。
防御壁を張る暇(いとま)も無い出来事であった。
「くくく・・わっぱ、先の結界での借り、返しておくぞ・・」
『御那己さま』の口元に、不遜の笑みが艶然と浮かべられる。
先の攻撃は、明らかに、弱った二狼太を標的と定めた上でのものであったらしい。
壁に激突した二狼太の額からは血が流れ、裂かれた腹部からは更に多い血潮が溢れ、地面に血の海を作っていた。
「よくも・・よくも、あんちゃんを!」
「待てっ! 三狼太!」
長兄の制止の声を振り切って、犬神の三男が遮二無二『御那己さま』へと突っ込んでいく。
犬神達はまだ妖魔としては歳も幼く、闘いの場数をそれ程踏んではいない。
母狼と死に分かれ、衰弱していた所を吉野の里の主・佐保姫に拾われ、その妖力と呼ぶには余りにも清廉な神気を受けて育った者達である。
三匹は妖魔の一族に属しながら、その生まれも特殊で、無垢なものであった。
当然、兄を思い、弟を思う、その心根は優しく、穢れを知らない。
それ故、血の通った者を傷付けられれば、怒りに我を失う。
一対一で対峙したならば、妖力の差は、先の攻撃を例に取ってみても歴然。
もし、挑発めいた言葉も、妖魔の仕掛けた罠であったとしたなら、知略においても、到底犬神達のかなう相手ではなかった。
「仲良う・・この世から消えなさい・・」
妖魔が長い髪を風に靡(なび)かせながら、美しい声音で、犬神達に最期の別れを告げる。
しなやかな両腕が、ゆっくりとした動きで真横に挙上されていく。
妖魔の纏(まと)った白絹の肩巾(ひれ)が、ふわりと翻(ひるがえ)った。
「くそっ、間に合わないっ!」
大技をかけた後だけに、瞬時に全員を守りきるだけの防護壁を作り出す余力は、一狼太にも残ってはいなかった。
熱くなって、一匹で突っ走る三狼太を止める手段すら思い浮かばない。
一狼太は、次に自分達を襲う惨事を覚悟しつつ、それでも心の中で自問自答を繰り返す。
――ここで終わるのか? 一糸報いる事無く、綾女を守ると兄弟で誓い合った約束も果たせず、自分達は!?
一狼太は激しくその考えを否定する。
――嫌だ! 諦めるもんか!
だが、相手の妖力は桁違いに強い。
悔しいが、犬神個々の妖力で、太刀打ちできる相手ではなかった。
せいぜい傷付いた二狼太と、自分の身を守るのが、精一杯の状況である。
では三狼太を見殺しにするのか?
――断じて! だが・・
苦悩する一狼太を嘲笑うかのように、襲い掛かる妖魔の裂傷波!
――佐保姫様・・!
咲き誇る吉野の桜の下で、優しく微笑む育ての親の姿が、鮮やかに脳裏に浮かんだ。
ゴオォォォォ・・
押し迫る狂風の音。
――!
その時、一陣の風が犬神達の前に回り込み、三匹を守るような形で、妖魔の攻撃の前に立ちはだかった。
凶器と化した風の前で、突然迸(ほとばし)る青い閃光!
光の中に砕け散る風の欠片(かけら)達・・・
青い光――それは、数々の戦いの中で、犬神達が見てきた光の色であった。
「姉さん!」
駿馬の鬣(たてがみ)のような黒髪を風に靡(なび)かせて、強靭な意志を持つ美しい鬼神が、犬神達の前に背を向けて立っていた。
その右手には青白く光る小太刀――伝説の妖刀が妖魔の攻撃を弾き返し、光と共に、その凄まじい力を鎮めていくところであった。
「妖魔は引き受ける! お前達は二狼太を守れ!」
前方を見据えながら、綾女は背後の一狼太に向かって言葉を放つ。
「すんまへん、姉さん・・三狼太、こっちに来い」
「堪忍、あんちゃん・・」
頭の冷えた三狼太が、済まなそうに耳を垂らしながら、兄の方へ駆け寄っていく。
「優しい事・・従者思いの主(あるじ)を持って、その者達は幸せじゃのう・・」
妖魔が皮肉めいた口調で、感嘆の声を上げる。
「それに・・妖かしの主の事だけはある。なかなか面白い太刀(もの)を使うでないか・・ん? じゃが、従者も従者なら主も主じゃ。そのようにお互いを庇い合うて、わらわが倒せるのか? つくづく甘いの・・」
そう言って、忍び笑いを漏らした。
「そうか?」
綾女が問い返す。
「――?」
妖魔の嘲笑など、綾女の耳には届いていない様子であった。
「お前の目には、われ等の関係が、そう映るのか・・?」
「どういう・・意味じゃ?」
気勢を削がれ、今度は妖魔が問い掛ける。
「われ等は主従の関係なぞ結んではおらぬ・・」
「では、何故あの者達はお主達を助ける? 妖かしの身で、何故、人という相容れぬ種族を助けるのだ?」
「それは、この者達の自由意志によるものだ。それを命じた覚えも、あえてそれを止めるつもりも、私には無い。この者達の存在は、常にわれ等人間のすぐ傍らにあった・・違うか? ある時は暖かき火・・ある時は涼やかな風・・人がそれを忘れていたとして、われ等はこの犬神達といる事で、それを忘れぬ」
「同じ位置に立つ者達・・とでも言いたいのか?」
「そうだ」
「・・・奇麗事じゃ」
「何!?」
妖魔の長い髪がゆらりと持ち上がった。様子が可笑しい。
「人はな・・同族の間でも平気で約を破る外道よ・・血を交わしてまで約した仲を土足で踏みにじり、果ては相手の血が絶えるまで追い詰めていく・・欲にまみれた、おぞましき生き物・・」
女の両瞳には、強烈な憎悪が見え隠れしていた。
「それでも必死で耐え忍び、生きているからこそ、人は人なのではないのか?」
突如、妖魔の後方から言葉が投げかけられた。
珍しく左近が口を開いていた。
「人を憎むのはお前の勝手・・だが、己の都合で人を巻き込むお前は何様だ?」
引導を渡す左近の声は冷たい。
その言葉に、妖魔は米神(こめかみ)をピクリと動かした。
『御那己さま』を中心に、風がゆっくりと渦を巻きだす。
何かが『御那己さま』の周囲で起ころうとしていた・・その頃――
「どんな具合なん?」
「今確かめる・・」
一狼太と三狼太は、二狼太の傷の具合を調べていた。
二狼太の傷口に、一狼太が鼻先を押し付けて匂いを嗅いでみる。
傷口からは肉の饐(す)えた匂いがした。
妖魔の放った裂傷波は、その原理からすると、鎌鼬(かないたち)となんらその姿は変わらないのだが、真空に邪気を含んでいるため、切り裂いた傷口から邪気が入り込み、臓腑を腐食させていたのである。
「あんちゃん・・油断した・わ」
「なんも喋んな! 今から傷口浄化するで・・三狼太!」
「はいな」
「火を出せ。二狼太、傷口を焼くぞ。そうせんと腐食は止まらんし、邪気も消えんさかいにな・・ちょいきついけど我慢しいや」
一狼太が傷口の血を舌で舐めて毒素を吐き捨てると、三狼太が瞬時に小さな炎を呼び出し、その炎で傷口を焼く。
肉の焼ける強烈な匂いが辺りに漂った。
「ぐあああ――っ!」
堪え切れず、二狼太の口から苦痛の声が漏れる。
「二狼太あんちゃん・・」
三狼太が、そんな次兄の顔を心配そうに覗き込む。
それに伴い、浄化の炎が小さくなる。
「三狼太、気を緩めるな! 半端な処置しとったらあかん!」
二人の弟を守るように立つ一狼太が、末の弟に厳しく注意を下す。
暫くその場で、傷の手当は続行された。
「やっぱり・・アレを使う事になるかな・・」
一狼太がポツリと、意味深な言葉を漏らす。
「アレを・・か? あんちゃん・・」
痛みに耐えながら、兄の言葉を受けて、二狼太が問い返す。
「ああ、『御那己さま』だけなら姉さん達の力でなんとかなるやろ。せやけど妖力の源が顔出したら、いくら姉さん達でも対抗するのは無理や。うち達の妖力では長くは持たんやろが、アレを仕掛ければ、一時的にせよ相手を拘束できるとは思う。その後を姉さん達に任す事になるけど、それも一つの手として、頭に置いといたほうがええ。そのためには・・二狼太、お前はもう妖力をこれ以上使ったらあかん。自分の身だけを守りや」
「せやけど・・」
「後はうち等に任し・・あっちもそろそろ本気や・・」
三狼太が傷の処置を終える頃、綾女達のやり取りを一部始終窺(うかが)っていた一狼太が、いち早く『御那己さま』の変化を察知し、その毛波を逆立てる。
『御那己さま』の持つ肩巾(ひれ)から白い霧が生まれ、風に乗って辺り一面に漂いだしていた。
「二狼太、立てるか?」
「なんとか・・」
「なら、さっき言うた事は絶対守れ・・三狼太、行くぞ!」
「はいな!」
この後すぐ、二匹の犬神は、参戦困難な二狼太をその場に残し、『御那己さま』との戦いに、再度その身を投じる事になる・・白い霧が、『御那己さま』の持つ肩巾(ひれ)の辺りから、周囲に向かってゆっくりと漂い始めた。
「酸の瘴気です! 吸ったらあきません!」
戦いに合流を果たした一狼太が、影忍達に危険を知らせる。
綾女達も一狼太達の姿を目の端で確認しつつ、その忠告に従って、『御那己さま』から自分達の位置を後方へと離す。
「三狼太!」
「分かっとる! さっきはようも・・」
三狼太が怒気を込めると、その身から強烈な熱気が噴出し、白銀の毛並みが白く輝き始めた。
周囲の空気が白熱し、急激に温度を上げていく・・
「お返しや!」
声と共にその体から高温の熱火球が四方に向かって放たれ、灼熱の炎が瘴気を飲み込み、その毒素を次々に蒸発させた。
「どうや!」
渾身の一撃に得心がいったとばかりに、三狼太が無邪気な一声を上げる。
「小癪な!」
妖魔がそれに呼応し、次の攻撃に入ろうとした時、
「!?」
背後より音もなく走り寄る影。
墨染めの装束。
夜陰を疾駆する獣に変じた左近が、妖魔の背後から忍び寄り、二間ほどに間合いが迫ったところで、鋭いかけ声と共に、その身を跳躍させてきた。
「姑息な!」
忍びの辞書に姑息という言葉は存在しない。
勝利――それこそが全て。
左近の手から居合の声と共に繰り出されたのは、日向無双流『燕(つばくらめ)』。
だが、左近の一撃は、ヒラリと宙を舞った『御那己さま』によって、難なくかわされてしまう。
稲妻のように繰り出された抜けつけの一刀が、刃唸りを立てて、空を空しく切った。
すと・・ん
その場で舞い上がり、空中を一転した『御那己さま』が、ゆっくりと地面も上に舞い降りた。
刀身が返り、再度妖魔を狙って『逆風』の切っ先が伸びる。
だが、一足早く、意志を持った生き物のように、妖魔の肩巾(ひれ)が妖刀を持つ左近の右手首に絡みつき、左近の動きを封じた。
更に白絹は、蛇が木を登る要領で腕を這い上がり、左近の首にまでその魔手を伸ばしてきた。