menu琥珀の時(誘い後日譚)其の壱―≪御那己さま≫16
風が地上に唄を運んでくる。
――ねんねんころり おねむりな・・
それは、この世に生を受けながら、育つ事を許されず、若芽のうちに摘まれていった複数の魂が歌う子守り唄であった。
――十月十日(とつきとうか)の夢語り
草葉の陰の髑髏(されこうべ)
焼け野の雉子(きぎす) 夜の鶴*
泣かぬやや子よ 寒かろう
躯(むくろ)あやして乳をやる・・
注釈*雉は巣を営んでいる野を焼かれると、わが身を忘れて子を救おうと巣にもどり、巣ごもる鶴は霜などの降る寒い夜、自分の翼で子をおおうというところから、親が子を思う情の切なることのたとえにいう。子を殺された事を切っ掛けに、妖魔となった一人の母。
――いつか夢路は覚めるもの
黄泉平坂(よもつひらさか)その先の
三途の川原で待ちましょか?
一二三(ひふみ)数えて拾っては
かかさま、ととさま思いつつ
小さなお手々で石を積む・・大人の勝手な都合で殺められ、幽鬼となった子供達。
――ここは十六夜
躊躇(ためら)い月
月の欠片の吹き溜まり・・男達が勝手に下克上の夢に酔いしれる中、弱き者達はその陰で血の涙を流し、人知れずその命を散らす。
富士の裾野で起きた出来事は、そんな戦国の世のどこにでも見られた悲劇の結末、その一例でしかなかった。
風が黙す――
幾多の者達の複雑な事情と思いを映した十六夜の子守唄が終りを告げる。
唄の終りは呪の終りを意味する。
闇が蠢(うごめ)いた。
妖魔にかけられていた言の葉の呪縛が解けたのだ。
「殺ス・・」
闇に女の憎しみに満ちた声が呟かれる。
柳のようにほっそりとした姿態に血で染めた深紅の単――襟元に一本の太刀筋が残る――を纏(まと)い、腰まである黒髪を風に靡(なび)かせた一人の女が、竜の如き姿を持つ『禍蛇』の背に乗り、眼下の影忍達を見下ろしていた。
憎悪の念に塗れてなお美しさを損ねない妖魔が、おどろ髪のあいさから冷ややかな眼差しを覗かせている。
妖魔を唄で拘束したのは、妖魔がその手で殺めてきた幼い命達。
だが、妖魔・・いや、赤子の躯(むくろ)を抱えたまま、己の名すらも記憶の奥底へと追いやり、自分の時間を止めてまで恨みに生きてきた者に、唄を歌う子供達の姿は見えていなかった。
妖魔の眼に映るのは影忍二人の姿だけ。
特に、小太刀を手にする綾女に対して、同性ゆえに許せない気持ちが大きいのか、嫌悪に満ちた視線は主に綾女に向かって投げかけられていた。
「『禍蛇』――」
妖魔が『禍蛇』の耳元に何かを囁く。
グル・・
その言葉を受けて『禍蛇』は一つ低く唸ると、その頭部をゆっくりと地面に向けて下げた。
水魚の背びれに似た『禍蛇』の耳翼の陰から、赤子を抱いた『御那己さま』が地面へとゆっくり下り立つ。
そんな妖魔を、傷付き、疲れ果ててなお、生きようと足掻く綾女の眼差しが迎えた。
両者お互い、相手の姿だけをその両瞳に映している。
そこには、周囲を隔絶した、彼女達だけの空間が確かに存在していた。
風がピタリとその動きを止める。
「私カラ全テヲ奪ウ・オ前」
最初、その沈黙を破ったのは『御那己さま』であった。
「殺ス・憎イ・オ前・生キテイル・何故・オ前ダケ・オ前達ダケ・・」
妖魔はまるで亡者が自分を殺めた人間を地獄の底で呪うような陰鬱さで、綾女に向かって呪いの吐露を吐く。
その声は、憎悪の念に燻(いぶ)されて、どこか煤(すす)けて感じられた。
「止めろ・・」
ようやく綾女が口を開く。
秋の気配さえの感じられる森の夜気の中、綾女の額から玉のような汗が噴き出し、そこから一筋の汗が流れた。
民百姓の類・・いや百戦錬磨の剣豪でさえ、この妖魔の殺気に満ちた凝視をまともに受けたなら、蛇に睨まれた蛙(かわず)のごとく居すくんで仕舞うか、たちまちのうちにその場を逃げ出して仕舞うようなところを、女の綾女が必死に堪えている。
「これ以上罪を重ねるな・・」
そう妖魔に告げながら、綾女の語尾は微かに震えていた。
一つの念に囚(とら)われた心は、その原因を取り除かない限り、その念に縛られ続ける。
長引く苦しみは、時間が過ぎるほど人としての心を貪っていく。
そして人は、何故自分がこれほどまでに人を憎むようになったのか、その本当の理由さえも忘れてしまう事がある。
「夫ヲ、吾子ヲ、優シイアノ方達ヲ、死二追イヤッタ・・戦・人・ソレ二関ワル全テ・憎イ・憎クテ・イクラ憎ンデモ・何ヲ恨メト・・」
妖魔の吐露は、深い慟哭と怨念とが入り混じっていた。
憤怒の先に悲しみがあるか・・
悲哀の先に怒りがあるか・・
いずれにせよ、妖魔の中では二つの感情がせめぎ合い、その明確な境目は既に無くなっているように綾女の目には映った。
「イッソ・全テ・消エテシマエバイイ・・」
妖魔の両瞳に、ゆらり、と憎悪の焔が点る。
「イッソ・最初カラ・何モ無ケレバイイノダ」
生き人が目の前に存在する事が許せない。
いや、人が生きている事にさえ憤りを覚える。
そんな理不尽ともとれる感情が、綾女を見詰める妖魔の眼差しから垣間見えた。
「有ニハ・無ヲ・・生ニハ・死ヲ・・」
『御那己さま』の思考は、次第に病みつつあった。
「それがお前の本心か・・?」
綾女が妖魔に問う。
「それがお前の望みなのか!?」
綾女の声が次第に大きくなる。
「それがお前の心なのか!」
そう叫ぶ綾女の表情は、真剣そのものであった。
――ひとつの心に、相反する思念が存在する・・
風の中に妖魔の思念を読んだ時、犬神の二狼太が確かそう言っていた。
今思えば、一方は『御那己さま』の優しさ、一方は『御那己さま』の憎悪、その二つが『御那己さま』の心を形成していたのだ。
――二つに引き裂かれた心・・
その心はどこか、昔の綾女と共通する点がある。
香澄の者でありながら、里の中では一番『普通』である事を『綾女』は望んでいた。
その『綾女』が、『綾之介』として小太刀を握り締め、血みどろになりながら戦う・・この矛盾。
綾女も、悲しみを紛らわすため、憎しみだけに生きた事のある人間であった。
あの当時綾女は、「仲間の仇を討つ」それだけを心の糧(かて)に、それこそ自分の命も顧(かえり)みず、必死に妖魔と戦っていた。
憎しみという感情は、善きにしろ悪しきにしろ、人の中ではとび抜けて強い感情である。
刹那に生きる者にとって、これほど力強い味方はない
だが、その一方で、「憎しみからは何も生まれない」という定説がある。
己の悲しみ、怒り・・といった負の感情は、妖魔によって意図的に呼び覚まされたもの、己が命を託し、妖魔を倒す武器として携えていた『御神刀』は、妖魔が影忍の思念を利用するため、あらかじめを里に伝わるようしていたもの、そして、己が『宿命』と信じて疑わなかった『妖刀伝』の内容に至っては、影忍を約束の地・安土へと誘うために、妖魔が遥か昔に作り上げた台本にすぎない・・と、事の真相を明かされた時には、綾女はただ呆然と、蘭丸が妖星を背景にとうとうと語り続けるのを聞いている他なかった。
この場合、負の感情に流され続けた綾女の元には何も残らない。
結果的に蘭丸の言葉は、『宿命』という第三者的なものに自分の生き方を預けてきた綾女に対し、その愚かしさを知らしめる事となった。
本来命とは、能動的に生きてこそ意味があるのだ。
――何をしている・・綾女・・
そんな綾女を庇い、
――忍びとは・・その命尽きるまで勝負を捨てぬものだ・・
生きる事、そのものを、身を持って示した者がいた。
左近、その人である。
――脈打つ命は己のもの・・ならば、足掻けるうちは足掻け!
そう左近の瞳は綾女に告げていた。
左近が綾女を見詰める。
綾女が左近を振り返る。
二人の間には絶対の信頼が存在する。
ふとした瞬間に彼等の瞳に宿る穏やかな光。
それが今の綾女の心を著明に現していた。
時の流れが、綾女の心を少しずつ癒していく。
だが、戦いの中で傷付いた綾女の心は、完全に癒える事はないだろう。
時に心が疼く。
それはそれでいい・・と、綾女は思っている。
『綾女、生きろ!』
――兄上
『お前を幸せにしてやりたかった・・』
――小十郎(許婚)
人とは、多くの人の思いを受け継いで生きていく生き物。
綾女の命もまた、多くの人の思いと命の上に紡がれた尊い命の一つなのである。
「私は誰かのために戦っているわけではない・・」
「・・・」
「お前に、その恨み忘れろ、とは・・言えない」
左近の眉がピクリと動いた。
――綾女、お前は・・
「だが、これ以上生きた者を殺めたところで如何する? 何が残る? 何が返る? お前自身の苦しみが、続くだけではないのか!?」
『御那己さま』の姿は過去の自分。
だから。
あえて向き合った。
過去を克服するため、過去と決別するため、綾女は必死の思い出でその両腕を広げる。
「・・私の屍も超えていくがいい・・」
そう告げる綾女の全身から、壮絶な気が立ち昇った。
思わず左近も息を呑む。
綾女と付き合いの長い左近は、綾女のちょっとした仕草や表情を見ただけで、綾女が今何を考えているか、その大よそを言い当ててしまう。
それほど左近は、必ずといっていいほど、綾女を己の視界の中に入れている。
今の綾女は昔の綾女とは違う。
苦悩を自らに受け入れた者だけが持ち得る強さを、綾女はその心に持ち合わせている。
全てを任せても大丈夫だ、という確信が左近にはあった。
――今はまだ動く時ではない・・
そう判断して、この男は綾女の背後で守りに徹している。
だが、今回の綾女の行動には不可解な点も多い。
それが左近の不安を煽る。
――これでいいのか!?
そんな思いも無いではない。
唯一人の女。
――守りたい・・
その衝動を左近は己の中に押し込める。
これが以前の綾女であったなら、左近はここまで綾女の意志を尊重する気にはれなかっただろう。
そう言い切れるほど、当時の綾女はどこか刹那的で、目を離せば何をしでかすか分からない危うさを、その行動の端々に漂わせていた――