menu琥珀の時(誘い後日譚)其の壱―≪御那己さま≫17
天正九年 夏
それは伊賀の地に着いて間もなくの頃、影忍達が殺伐とした旅の生活から、ようやく里の生活というものに馴染み始めていた――そんな矢先の出来事であった。
その日は朝早くから、綾女は柘植口方面、左近は多羅尾口方面、龍馬は滝玉口方面へと、それぞれが近江に通じる要所を実際に見に出かけ、三人の中で地理的に一番砦に近かった綾女が、一足早く偵察を済ませて里へと戻っていた。
綾女は里に着くと、井戸から汲み上げた水で手水を済ませ、手ぬぐいで額に浮かぶ汗を拭う。
季節は既に生命力溢れる夏へと移り変わり、伊賀の里では内地特有のうだるような猛暑がここ連日続いていた。
――疲れたな・・
綾女は一息つきながら、晴天の空を見上げた。
眼を射るような眩しい日差し。
綾女はその日差しに、思いもかけず立ち眩みを覚える。
――え?
と、急に綾女が顔を顰(しか)めた。
――ま、まさか!?
綾女が下腹部を押さえ、その場に屈み込む。
「どうかされましたか?」
その時、勝手口の方から女の声で声がした。
綾女が慌てて、
「いえ・・たいした事はありません。少しこの暑さに当てられただけ・・で・・」
と、急ぎ立ち上がろうと、
「あ、そんな急に立ち上がられては・・!」
女の声が綾女の動きを言葉で制した。
ふわ・・っ
傍で風が動く。
綾女の様子を気遣って駆け寄ってきたのは、百地の屋敷で下働きをしている小夜という女であった。
「お顔の色が優れませんよ」
そう言って、女がしんどそう(京阪の方言:疲れて苦しそう)にしている綾女の背にソッと手を添えようとした――次の瞬間、
パシッ!
その手を綾女の手が勢いよく払い除けていた。
――え?
思いもかけない綾女の反応に、女は純粋な驚きの表情を浮かべる。
――な、何を私は・・!?
対する綾女も、自分の思わず取った行動に驚きの色を隠せずにいた。
「ほ、本当に大丈夫ですから・・」
自分の行動を言葉で取り繕(つくろ)うかのように言い置くと、綾女は逃げるようにして、その場を後にした。
後の残されたのは呆然と立ち尽くす小夜一人・・
その後綾女は夕餉の時刻になっても部屋から姿を見せず、心配して屋敷の者が障子越しに声を掛けても、綾女は暫し一人にして欲しい・・の一点張りで、部屋の中から出てこようとはしなかった。
綾女の様子が可笑しい――との知らせは、里の者の手で他の影忍二人へと伝えられる。
日が暮れる頃、龍馬、続いて左近が里へと戻り、早速二人は揃って百地屋敷内の綾之介の部屋を訪れた。
廊下を曲がり切ったところで、一人の老婆が障子を開けて部屋を出てきたところに出くわした。
「葛葉殿・・でござるか?」
龍馬が神妙な面持ちで老婆に話しかける。
身の丈は龍馬の腰の辺り・・と、たいそう小柄な老婆。
その老婆が、幾重にも皺の刻み込んだ顔を上げて、在るか無いかの細い目で龍馬を見詰め返してきた。
「左様・・」
その落ち着いた対応振りに、幾分ほっとした表情を見せて龍馬が言葉を続けた。
「此度は連れの綾之介が急な事で世話になり申した。して、綾之介の具合は――」
そこまで龍馬が言葉を紡ぐと、老婆は真顔で、
「何用じゃ・・」
と、ジロリと男二人を睨み見た。
「あ、いや・・だから綾之介の容態を・・」
少々奇怪な・・妙に迫力のある面相をした丈の低い老婆を前にして、龍馬が珍しく口篭もる。
老婆と言えども、相手は百地の支配下にあるこの里の年長者、里の知恵袋とまで称される老婆である。
その眼光たるや、当地の頭領・百地三太夫さえもたじろがせるものがあるという。
此度の騒動で、唯一綾女が部屋の中へと招き入れたのは、この老婆だけであった
「かの者はわしが預かった。心配せずとも、静かに寝ていればじきようなるはずだ。それまで・・そなた達二人にも、ここへの出入りは控えてもらいたいのだが・・」
老婆の物言いは人がもの頼む時と同じ言葉使いなのだが、どことなく抑揚がなく、相手に否を言わせない気配があった。
「何だと!?」
それまで龍馬の背後で控えていた左近が気色ばみ、一歩前に進み出る。
「あの者の事を本気で思い、厭(いと)うのなら、暫しあの者に猶予を与えよ・・さもなくば――」
老婆は激した左近を見ても怯む事無く、畳み掛けるように二人に告げた。
その言葉の裏には、綾之介の体に関わる何か重大な事が隠されているような感じがした。
「どがいなる・・と申される」
血気に逸る左近の動きを右腕で龍馬がスッと制し、静かに老婆に問うた。
「あの者・・」
老婆が静かに口を開く。
「下手をすれば、二度と参戦適わぬかもしれぬ・・」
「!?」
その答えに、左近も、直接問うた龍馬さえも、思わず言葉を失う。
戦えない・・それは、影忍として致命的であると同時に、その仮説は同じ仲間として衝撃的なものであった。
――何故?
男二人の頭にそんな言葉が浮かんでは消える。
だが、
「分かったな・・」
それだけの言葉を残して、老婆は部屋の中へと音も立てずに戻っていく。
そして、その後も男達へ詳しい説明はないまま、うやむやのうちに日だけは経ち、いつかしら綾女一人別棟で休むのが当然の生活へと変わっていくのである。
龍馬、左近、両名にさえ秘密とされたこの時期の綾女の体調――実はこの時期、綾女の体には、思いもかけない事態が起きていたのである。
年頃ともなれば、当然女として訪れるべきもの――月経。
それが、綾女の場合、香澄の里を離れた時点から、ピタリと止まっていた。
過酷な戦いの連続と、何より綾女自身が『女を捨てた』という意識を持つ事によって抑圧されてしまったのか、綾女の女性としての機能は、その後一年以上もの間沈黙していた。
それが、ここ伊賀の里に落ち着き、綾女が里の生活にほっと息をついた瞬間、綾女は下腹部に鈍い痛みの走るのを感じた。
身に覚えのある感覚――月の障りの到来である。
――今更、何故!?
綾女の焦り。
――兄上・・
綾女の罪悪感。
――自分は悲願を何一つ達成していない。
綾女はいつもそうやって自分を責めていた。
そのうち、そういった綾女の事情を、生来の感のよさというか・・とかく女性の機微に敏感な左近が察し始めた。
以来左近は、綾女に対してどこか苛ついた態度を取るようになり、
「綾之介のアノ戦い振り・・何とかならんじゃろか?」
と、龍馬に綾女の鬼気迫る戦い振りを相談された時など、
「戦力としては申し分ない。せっかくあそこまで回復したのだ、好きにさせてやればいい・・」
と、投げやりな答えを返して、龍馬をひどく驚かせた。
左近は、『綾之介』が『女』である事は、その仕草、表情から、薄々気付いていた。
それでも『綾之介』はあくまでも『仲間』であり、長い間寝食を共にしていても、左近はこれまで綾女に異性を感じる事はなかった。
それほど綾女は『女』の気配を消していた――いや、消えていた、という方が表現として正しい。
それが事ここに至って、予想外のところで綾女が『女』である事を露呈した。
その事実に左近は戸惑いを隠せなかった。
そして、いつしか『綾之介』を『女』として意識するようになり、左近は戦鬼の如き『綾之介』の戦い振りから眼を離せぬようになっていった――――お互い、変われば変わるものだな・・
左近は綾女の姿を見ながら、改めてそう思っていた。
今、その綾女が妖魔に問う。
何故人を殺める!?
何故血肉を貪る!?
何故そこまでして生きる!?
その真の理由を理解しているのか!?
と――
憎んで憎んで憎み抜いたその果てに、何が残るというのだろう。
――血の涙も枯れ果てて、絞り滓(かす)のように乾ききった己の心・・
脈打つ命さえも憎悪し、その手にかけて、それを糧とし、その身を妖魔と落としながら、心だけが適わぬ夢を追い求める。
――永遠に満たされる事の無い心・・
当の『御那己さま』は綾女の言葉をただ黙って聞いている。
何処まで綾女の心が通じているのか・・妖魔の表情は相変わらず能面のように強張り、そこから妖魔の心を窺い知る事はできなかった。
「『禍蛇』」
突如、虚空に向かって、妖魔が僕(しもべ)の名を呼んだ。
グルルル・・
妖魔の忠実な僕(しもべ)は、喉元を低く鳴らすと、その呼びかけに応じて頭を低く下ろす。
「暫くこの子をお願い・・」
『御那己さま』はそう言うと、我が子を頭上へと持ち上げ、何かを念じた。
ふわり・・妖魔の赤子が空中に浮かび上がると同時に、妖魔の全身が白く輝き始め、白い光は妖魔の腕を伝って、妖魔の赤子を包み出す。
白い光は、本来杜辺神が扱うべき『白い御力』。
その力が妖魔の純粋な母心に呼応し、妖魔の赤子の周囲に強力な結界を作り出した。
白い結界球に包まれた妖魔の赤子は、母親の腕から離れると、『禍蛇』と共に闇の虚空をゆっくりと昇り始める。
『禍蛇』が体を優雅に波打たせるたび、辺りには白い光の粒子が零れ落ちた。
結界球がある一定の高さに達すると、『禍蛇』はその周囲にとぐろを巻き、まるで赤子を守るかのようにその瞳を爛と輝かせる。
その様子を母親の眼差しで仰ぎ見ていた妖魔が、素早く綾女に視線を戻した。
二人の視線が絡み合う。
場の緊張が一気に高まった。
嵐の予感。
見守る者達の心にも風は流れ込み、心の水面をざわめかせる。
『御那己さま』を見詰める若竹の表情が曇った。
綾女は『御那己さま』の顔をジッと見据えたまま、何かを待っている。
左近は綾女の落ち着きように妙な胸騒ぎを覚えた。
ピシュ! シュ! ピシュ!
たて続けに狂風が綾女の体を掠めた。
真空が綾女の衣装を容赦なしに切り裂いていく。
『御那己さま』の念が裂傷波を生んだのだ。
風が再び乾いた音を立てて綾女に迫る。
米神に、頬に、首筋に、次々できる擦過傷。
風が皮膚を切り裂くたび、血しぶきが飛び、傷からは鮮血が滴(したた)った。
だが、何故だろう。
妖魔の攻撃は執拗なほど繰り返されるのに、そのほとんどが綾女の体を掠めるだけで、致命的な傷を与えられずにいる。
予想外の展開に、妖魔の表情に焦りが見えた。
妖魔が右手の爪先を一尺程に伸ばす。
そして、
「死ネエエエエ――ッ」
必殺の咆哮を上げて、妖魔は綾女に直接襲い掛かってきた。
綾女は妖魔の動きを静かに見詰めるだけで、小太刀を構えようともしない。
「綾女!」
咄嗟に左近は太刀を空で反転させると、柄の向きを逆にして持ち替えた。
「手出し無用!」
綾女の一喝が、左近の次の動作を鈍らせる。
虚空に浮く子供達が、思わずその両掌で目を覆った。
妖魔の右手が綾女目掛けて突き出される。
綾女は逃げない。
その両眼は、迫る『御那己さま』姿をしっかりと捕らえていた。
――馬鹿なっ!
「綾女――っ!」
ズブ・・ッ
生きた凶器が綾女の左胸を捕らえた。
左近が絶叫する。
子供達も悲鳴を上げた。
ゴフッ・・
綾女が血反吐を吐く。
「綾女えええ――っ!」
ポタッ・・
刺し貫かれた綾女の左胸から血潮が溢れ出し、背に突き抜けた妖魔の爪を伝って、鮮血が地面に滴り落ちる。
ニヤリ・・
綾女より頭半分ほど低い位置で、妖魔が口の端を上げていた。
尋常でない痛みが綾女を襲う。
意識が飛ぶ。
――コレデ死ネルカモ・・
そんな死の誘惑が綾女の心を甘くくすぐった。
「死ねない」事への戸惑い。
その事実が綾女の心に影を射す。
だが、綾女の魂の求める答えは、死の方向には存在していない。
――死んでたまるか!
瞬時に綾女の意識は死の方向から生の方向へと転換する。
綾女の両眼がカッと見開かれた。
綾女の両手がゆっくりと持ち上がり、妖魔の首筋から背に向かって絡みついていく。
ズプッ・・
綾女の体が進むにつれ、妖魔の爪先は更に深く綾女の左胸を突き刺す。
綾女が妖魔に何かを囁(ささや)いた。
「な・ん・・」
『御那己さま』の表情が凍りつく。
妖魔が綾女の顔を見上げた。
そこには、激痛に耐えながらも、妖魔の眼を真っ直ぐに見詰め返す、精気に満ちた綾女の眼があった。
――満足・・か?
綾女の一言。
「お前・・まさか!?」
妖魔の表情が驚愕で引きつる。
殺意も露(あらわ)に挑んだ相手が、なんの抵抗も見せない。
しかも生きている。
その事実に、妖魔の背筋に冷たい汗が流れた。
狂気が潮の引くように消えていく・・
「は、離せっ!」
『御那己さま』は退(すさ)ろうと、渾身の力でもがいた。
だが、その体を、重症を負ったとは思えぬ力で、綾女は抱き止めて離さない。
二人は激しくもみ合ううち体の均衡を崩し、膝からその場に座り込む。
背後で左近の動く気配がした。
綾女が瞼を伏せて微笑する。
――心配性が・・
次の瞬間、綾女は真顔で叫んでいた。
「・・来るな」
「そんな事を言って――」
「来るんじゃないっ!」
綾女の一喝は左近の動きをピタリと止める。
――何故だ!?
綾女の意図が読めず左近が焦る。
初めての経験であった。