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琥珀の時(誘い後日譚)其の壱―≪御那己さま≫20
 

ポツ ポツ・・
雨が振り出した。
サアアアアァァァ・・
雨は次第に勢いを増し、本格的な降りへと変わっていった。
雨が森の樹木を焼く炎へと降り注ぐたび、ブスブスと音を立てて炎は鎮火していく。
そんな状況の中で女と子供達が、綾女と左近が、その身の雨に濡れるに任せていた。
『禍蛇』が富士裾野に与えた被害は、その広大な面積からすればかなり限局されたものであった。
このまま暫く雨が降り続けば、この炎もいつか沈黙していく事だろう。
「綾女」
子供達が女の治療を終える頃、綾女は左近に肩を叩かれた。
綾女が振り返ると、左近はクイッと顎をしゃくって、こっちへ来い、という仕草を見せた。
綾女は子供達と女の方に心を残しつつも、左近の後に従う。
左近は元いた場所からそう離れていない木陰に綾女を強引に座らせると、太刀を地面に置いて、自分も綾女の傍に片膝をついた。
そして、何の前触れもなく、いきなり綾女の着物の合わせを左右に押し広げた。
「な、何をする!?」
狼狽する綾女を無視し、左近は綾女の上衣をサッサと脱がしにかかる。
そして、衣装を脱がす手を休めぬまま、
「傷の具合を見るだけだ」
と、その目的を告げた。
綾女は頬を微かに朱に染めながら、それでも大人しくその身を左近に任せた。
「済まない・・左近」
「そう思うなら、少しは体を厭え」
少々怒気を孕んでいても、左近の声は綾女の耳に優しく聞こえる。
左近は懐から小刀を取り出すと、それを口に咥えた。
綾女は着衣の下に、いつもさらしを巻いている。
その白いさらしが、胸の傷口から溢れた血でどす黒く染まっていた。
左近はさらしの縁を左手で摘むと、口に咥えていた小刀を右手に取り、さらしに押し当てて、一気にそれを切り裂いた。
闇夜に綾女の白磁器のように滑からな胸乳(むなぢ)が白く浮かび上がる。
綾女の左胸には、いずれも針で突いたような――『御那己さま』の鋭い爪が食い込んだ跡が五ケ所あった。
その左胸で、青い光が一定の間隔をおいて瞬(またた)いていた。
青く瞬(またた)く光は、左近もよく知る妖刀の光である。
今回、妖刀の力が、宿主である綾女の心の臓になり代わり、その命の源を動かしていたのであった。
その力の余波で、既に血も止まりつつある。
だが、その光はあくまでも綾女の生命を繋ぎ止めるためだけに働いている。
今、この場で、綾女の体に何らかの処置を施さなければ、綾女自身の生命力が奪われ続ける事に変わりはなかった。
さりとて、それが普通の方法であるはずもない。
妖刀の憑人(よりまし)となった綾女。
その綾女を救えるのは、やはり同じ境遇の中にその身を置く、左近しかいないのであった。
左近は一か八か、咄嗟に思い付いた方法を試みてみる事にした。
自分の傷を一瞬にして止血してしまった青い光・・その治癒力が本物なら、この方法で綾女の傷も塞げるはずであった。
左近は地に置いた妖刀を手に取り、自らの身の内に戻すと、おもむろに左手を綾女の左胸の上に置いた。
暫くすると、綾女の胸の上に置かれた左近の左手が、青い光を放ち出した。
光は綾女の体が放つ光と融合し、次第にその明るさを増していく。
光が増すにつれ、浅く速かった綾女の呼吸は、次第に深くゆっくりしたものへと移っていき、時々痛みに顔を引きつらせていた綾女も、いつしか穏やかな表情を浮かべるに至った。
降りしきる雨が綾女の額に浮き出た脂汗を、頬にこびりついた血を、泥を、洗い流していた。
綾女の表情には疲労の色が濃く残っていたが、左近の癒しを受けて、まるでまどろんでいるかのようにも見えた。
その綾女が一つ小さく笑った。
「何だ?」
「いや・・この体は本当に死ねないなのだな・・と思ってな」
それは思いもかけない、綾女からの言葉であった。
それを聞いた左近は、思わず眦(まなじり)をつり上げた。
「お前はそんな事を考えながら、ずっと戦っていたのか?」
「馬鹿な! そんな余裕がどこにあった」
「だったら何故、そんな事を改めて口にする?」
綾女を問い詰める左近の表情は、真剣そのものであった。
「済まない。言い方が不味かったな。深い意味合いはないのだ。今回思いもかけないところで、死ねぬ我が身というものを思い知った・・ただ、それだけの事だ」
そう言いながら綾女は、どこか曖昧な笑みを浮かべた。
左近はそんな綾女に何かを言いかけて・・途中でやめた。
代わりに大きな溜息を一つつく。
「・・怖くなったか?」
暫くしてから、左近は綾女に問いかけてきた。
「多少な・・」
綾女は意外と素直に、その本音を語った。
「・・後悔しているか?」
左近の問いは更に続いた。
綾女は左近の顔を間近に見詰め、
「それは無い!」
と、はっきりとし口調で答えた。
だが、綾女はその返答の裏で、
――今のところは・・な
と、残りの言葉を胸の内で呟いていた。
さすがにその呟きまで、当事者の一人である左近に聞かせるわけにはいかなかったからである。
「そうか・・」
左近はそんな綾女の胸中を知って知らずか、それ以上質問を繰り返す事はなかった。
二人は再び沈黙した。
程無くして、
「こんなところか・・」
左近は綾女の左胸からその手を退けた。
左近の手の陰になっていた部分は、傷が完全に修復され、元の真っ白な肌が蘇っていた。
だが、例の青い光は、僅かながらに残った。
それは、もう暫く綾女の体が万全でない証のしょうなものであった。
――これが限界か・・
左近はすっきりしない、それでもどこかホッした表情で処置を終えた。
実は、妖刀をその身に融合させた二人だからこそできる、『陰と陽の理(ことわり)』というものが存在する。
その理論を実践すれば、綾女の体を完治させる事も可能なのであるが、この時点で左近達は、まだこの治癒理論を『比之木のお婆』(左近の蘇生を綾女に促した妖魔)から聞かされてはいない。
それを二人が知り得るのは、まだ少し先の話なのである。
取り敢えず綾女の応急処置を終えた左近は、おもむろに立ち上がると、身なりを整えた綾女に対してその右手を差し出し、その体を引っ張り上げるようにして、立ち上がらせた。
濡れそぼつ髪を伝って、雨の雫が間断なしに、地へと流れ落ちていく。
「なあ、左近・・」
「なんだ?」
「今後、あの者達は、どうなるのだろうな?」
二人の視線の先には、どうやらこちらも手当を終えたらしい、子供達と女の姿があった。
「その答えを出すのは、俺達ではあるまい・・」
返ってきた左近の返答は、実に素っ気無いものであった。
子供達は幽鬼。
過去の呪縛から解かれたとはいえ女は妖魔。
そして、彼等に対峙した綾女達は、時から外れた人間であった。
三者は通常、全く別の、理の輪の中で生きている。
その三者の輪が、たまたまこの富士の地で重なりあった。
そう・・今回たまたまである。
だから、ここから先、三者が出会った事で、自分達の生き様がどう変わっていくのか、誰一人として、その答えを出せない状態にあった。
自分達の未来さえ覚束無いのだ。
他人の事まで思いやる余裕は、本当なら綾女達には無いのである。
それをつい思いやってしまう・・そこが、安土の地以降の、綾女らしい心の現われであった。
綾女は左近の答えに一瞬眼を見開き、続いてフッと口元に笑みを浮かべて、
「そうだったな・・」
と、相づちをうつ。
その微笑みはとても淡く、闇の中ですぐにでも消えていってしまいそうな儚いものであった。

急に雨が強く降りだした。
いつしか上空には通常の風が戻り、風が富士裾野一帯に、真っ黒な雨雲を運んでいた。
雨雲の中に、稲妻が一瞬、白く煌(きらめ)く。
この地では珍しくも無い、天候の変化であった。
程無くして、雷鳴が轟く。
それとほぼ時を同じくして、
グアアアアアアア――ッ
激しい咆哮が上がった。
――!?
その根源を見定める暇もなく、いきなり目も眩むほどの閃光が闇を切り裂き、大地へと光の矛が突き刺さる。
影忍達の眼底には、ただ真っ白な光だけが焼き付けられた。
飛び散る砂礫。
凄まじい衝撃。
乱れる気流。
影忍達は、なす術もなく、その衝撃の波に巻き込まれてしまう。
グオオオオオオォォォ・・
轟音は、光の後にやってきた。
――逃げて!
一瞬、光が炸裂する前に、誰かの声が木霊したようであった。
だが、その忠告を嘲笑うかのように、光は人の予想を遥かに超えた勢いで地上へと届き、地上にいる命ある者全てを飲み込んで消えていった・・
 
 

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