menu琥珀の時(誘い後日譚)其の壱―≪御那己さま≫19
もし、あの時心のままに泣き叫んでいたならば、
もし、その心を誰かが受け止めてくれていたならば、
何かが変わっていたのだろうか?泣く事さえできなかった現実(過去)
今更如何する事もできない現実(現在)
その狭間で、
女はずっと心の帳(とばり)を閉ざし、真実から目を逸らせていた・・【光満ちる時】
どのくらいの間、女は綾女の腕の中にいたのだろう?
それは束の間の出来事であったかもしれないし、それよりは少し長い時間であったかもしれない・・
「あ・・」
突然傍で漏れた声に、綾女はふと我に返った。
抱き締める腕の力を緩め、ソッと女を見下ろせば、女は綾女の肩越しに何かを見詰めていた。
綾女の背後いるのは、綾女の姿をジッと見守る左近と、そのすぐ傍らに立つ幽鬼・若竹であった。
女の視線は、二人のうち、若竹の方に釘付けになっていた。
女の顔に浮かぶのは、驚愕、そして、何かを思い出しかけ、結局それが分からないといった困惑の表情であった。
女の様子に綾女は表情を引き締め、
「見えるのですか?」
と、女に尋ねた。
女がきょとんとした目で綾女を見上げる。
「貴方が今見ているのは十六夜の子供です」
「十六夜の・・子供?」
「そして、空に浮かぶ鬼火は、貴方が殺めた子供達の命の焔」
「!?」
「子供達は貴方の事をずっと見ていました」
女は綾女の言葉に突き動かされるようにして、空を仰ぎ見る。
そこには無数の鬼火がユラユラと揺れ、女を見下ろす子供達の姿を闇の中に浮かび上がらせていた。
「・・そんな・・あの子達が・・」
女が両手で綾女の腕をギュッと掴む。
女は子供達の姿を凝視ながら、その左手を小刻みに震わせていた。
滴る血の温かさ・・むせ返る血の香り・・
普通ならそれらは、生々しく人の記憶に残るものである。
女が少しでも正気を保っていたとしたなら、その手に子供達を殺めた感触を覚えている可能性の方が高かった。
「あんた、やっと気付いたんだな」
その時、突然女に声がかかった。
振り向くと、若竹が泥状化した溶岩の地を裸足で踏みしめて、女の方に近づいてくるところであった。
女の手が綾女から離れた。
それを機に綾女は立ち上がり、自分と女との間に距離を置く。
女は近寄ってくる若竹の方に気を取られ、そんな綾女の動きに気付いている様子もなかった。
若竹が女の前で歩を止める。
「俺はずっとこの時を待ってたんだ」
ボソリと呟かれる言葉。
「こう言ってもあんたは信じないだろうが、あいつ等は皆あんたの事を恨んじゃいないよ。何故だと思う? 」
若竹は腕組みをしながら女を見る。
その表情には女に対する敵愾心がありありと現れていた。
「その時期が幼すぎて、自分の身に何が起きたか覚えちゃいないからさ。だからって、あんたがあいつ等を殺ったって事実は消えない。あんたが忘れても、俺が簡単に忘れさせやしない。あんたのやってきた事は全部、見て、聞いて、俺は知っているからだ」
虚空に浮かぶ子供達は今、仮初の命を与えられて、『不入(はいらず)の森』に幽鬼として存在している。
女を見下ろす顔・顔・顔・・
そこに浮かぶ鬼火の数だけ、女は罪を犯したのであった。
だが、若竹の言う通り、子供達の表情はとても穏やかで、恨みの影すらそこにはない。
年長者の腕に抱かれた赤子の年頃の子供などは、両手を女に向かって伸ばし、愛嬌さえ振りまいていた。
「・・・どうして?」
女が子供達の姿を見上げながら、呆然と呟く。
女は自分の事を恨んでいないという子供達の心情が理解できず、その顔に困惑の表情を浮かべていた。
若竹は、そんな女の様子に小さく舌打ちをする。
「『不入の森』に住む俺達は、強い恨みとかを持っちゃいけない事になっているのさ。いや・・そんな気持ち自体、この森の中では浄化されちまうっていうほうが正しいか・・」
そこで若竹が女を一瞥した。
「だが、あんただけは例外だった・・その強い思念で森の主である『杜辺神』を巻き込み、森全体に『負』の結界を張ったもんだから、富士の清らかな力もあんたには届かなかった・・その結果が、これさ!」
そう言いながら、若竹は右手の親指を立てて上空を示す。
そこには無数の鬼火とともに、白く輝く『禍蛇』の長大な全身が浮かんでいた。
その額の『第三の眼』は今なお赤く輝き、『禍蛇』の中で『負』の思念が激しく逆巻いている事を示している。
本来『杜辺神』の第三の眼は翡翠色で、穏やかな性格をしているのだが、一旦『禍蛇』となると、他者の思念の影響を受けている事から精神の均衡を崩しやすく、いつ、その力を暴走させるか分からない、といった危険を孕んでいた。
「あんたは森の存在そのものを脅かして、あいつ等の後の住処まで奪おうとしたんだ。 あいつ等の命だけじゃなくてな!」
若竹の言葉に、女の眼が苦しげに歪められる。
「あいつ等が許しても、俺があんたを許さない・・」
若竹は抑揚のない言葉で女を冷たく突き放しながら、どこか思いつめた表情で女を見詰めていた。
若竹と女の間に重苦しい空気が流れる。
若竹は押し黙ったまま女を見詰め、それ以上口を利こうとしない。
女は女で、何を言葉にすればよいのか分からないといった様子である。
そんな二人のやり取りを見守る綾女が、ふと傍らに人の気配を感じて横を振り返った。
「・・左近か」
そこには音も立てずに近づいた、相方の左近が立っていた。
「正念場だな」
名を呼ばれた男は綾女に視線を返さず、ただそれだけを低く呟く。
綾女もそれに対して、
「ああ・・」
とだけ短く答え、また視線を元に戻した。
女と若竹は、まだお互いの姿をその両瞳に映したまま、そこから一歩も動こうとしていなかった。
相手の息遣いまで聞こえてきそうな静けさが、場の空気を満たしている。
幾つもの視線が、二人に向かってジッと注がれていた。
「やらあああ!」
突如、重苦しい場の空気を、一人の幼い子供の声が破った。
続いて、
「待って!」
と、いう声が上がるな否や、上空の片隅で一つ、二つ、と鬼火が消え、地上に程近い場所で、青い焔が、ボワッと、いきなり姿を現した。
「草太! 茜!」
若竹が思わず焔の持ち主の名を叫ぶ。
驚いた事に、焔の出現と同時に地上に姿を現したのは、綾女達が『不入の森』の洞窟で出会った、草太と茜という二人の幽鬼であった。
草太はまだ三歳、茜は七歳といった外観をしている。
最初に声を上げたのが、草太であった。
今、草太の両肩は、茜の両手によって背後からしっかりと掴まれている。
そうでもしなければ草太は、今にも若竹に向かって走り出していきそうな勢いであった。
その草太が大きな目一杯に涙を溜めて、若竹に向かって叫んだ。
「こんな『わか』やら! 『わか』じゃない!」
「草太・・」
幼い草太の言葉に、若竹はそびやかしていた肩を急に落とし、沈痛な面持ちで二人の方を見た。
「草太。駄目だよ。若竹に任せるって、皆で決めたんでしょ?」
茜は草太の体を自分の方に向けると、草太の顔を覗き込みながら、優しく諭す。
「れも!」
「そうだね・・草太の言いたい事も分かるよ」
茜は草太の涙を袖口で拭ってやりながらそう答えると、若竹の方に視線を向けた。
「若竹・・話が違うよ」
「茜・・」
「皆で決めたよね。もし、この女(ひと)が、『御那己さま』が、私達の存在に気付けたら、この人を許してあげるって・・忘れたの?」
「忘れちゃいないさ。でも、それじゃあ――」
茜の言葉に、一瞬若竹が拗ねたような表情を見せる。
「皆に申し訳が立たない?」
「茜!」
若竹の声が急に尖った。
茜は、ふっ、と淡い笑みを浮かべ、
「分かってる」
と、小さく答える。
「でも、若竹。自分に嘘をついたって悲しいだけだよ。そんな優しさだったら、皆欲しくないと思う・・」
「茜・・」
意外な事に若竹は、年下の茜の、まるで諭すかのような言葉に反論を見せず、視線を地面に落とし、押し黙ってしまった。
傍で聞いている綾女達は、二人の会話を理解できないでいる。
だが、若竹の言葉と行動の裏には、何かしら複雑な事情が隠されている事だけは、朧気ながら綾女達にも伝わってきた。
「『御那己さま』」
茜は女の傍までやってくると、穏やかな口調で女に話しかけた。
その茜の背に草太はピタリと張りつき、女の様子を茜の背後からジーッと窺っている。
「今のこの時世、人は生きていく事に精一杯で、人が人らしくあり続けるなんて無理な話なのかもしれません。現に里の大人達も、自分達が生き残るために、十六夜の子供を、私達を、これまであなたの元へと送ってきました。そして、多分、こんな事は、これからも続けられる・・悲しいかな私達も里の人間、それは詮無い事、と言われれば、それに頷いてしまう。だから、今のこの状況を招いたのは、あなただけに原因があるとは言いません。でも――」
そこで茜の口調が急に強まった。
「でも、あなたはもう、この輪の中へは立ち入らないで下さい」
「!?」
茜のはっきりとした物言いに、女は思わず息を飲んだ。
「これは里に生きる者達の問題です。それにあなたが混じる必要はありません。何より、あなたが人を殺め続ける事で、それを悲しむ者がいる・・」
「そんな・・全てを捨てた私に、いったい誰が!?」
女の思わず発した言葉に、茜が微苦笑し、
「いるのです・・実際。それが誰であるかは明かせませんが・・」
と、答える。
すると、黙って女を見ていた若竹が、一瞬女からツイっと視線を逸らした。
――若竹?
綾女はそんな若竹の様子を訝しげに眺める。
綾女は、若竹の女に対する態度が妙にとげとげしいのを、ずっと気にかけていたのである。
若竹の女を突き放したような態度は今に始まった事ではない。
若竹は綾女達に会った時点で既にこう言っていた。
――俺はこれ以上、あの『御那己さま』に関わりたくないんだ。
また、こうも言っていた。
――俺達があの者の動きを封じる・・だからあの者を! 『御那己さま』を! あんた達の力で倒してくれ!
しかし、口ではそう言いながら、若竹の表情はどこか苦しげで、何かに焦れているような節さえ見られた。
――若竹・・何に惑っている?
綾女は無言のまま、若竹の様子をジッと見詰める。
若竹自身が感情を持て余しているのであろう。
綾女の視線にも気付かないまま一つ溜息をつくと、茜達の方へ視線を戻した。
そこでは丁度、茜が女の傷の手当を始めたところであった。
手当といっても幽鬼達の行う治療は、自分達の持つ『十六夜の力』を、そのまま女に分け与えるといったものである。
初め女は、
「胸を見せて」
と、言う茜の真意が掴めず、戸惑いの表情を浮かべた。
そして、それが治療を目的とするものだと聞かされると、女は衣の合わせを握り締めて、その身を竦ませてしまった。
だが、茜は女の戸惑いなどお構い無しに、女の手の上から胸に――女は綾女に小太刀で切りつけられている――両手を翳(かざ)し、両瞼を閉じる。
すると、
「おいらも!」
と、草太も腕を一杯に伸ばし、茜の上に小さな掌を重ねた。
程無くして茜の掌の中に、ポオオオ・・っと淡い光が生じる。
それは、子供達の掌にスッポリ収まってしまうような、そんなささやかな、でも、子供達の心そのままを映したように、淡い優しい色合いをした光であった。
その光が粒子となり、女の胸元へと零れ落ちると、それはそのまま『白の力』に変換され、女の体へと深く浸透していく。
光が影響を与えるのは体だけに止まらない。
体から吸収された光の一部は光り輝く鳥に姿を変え、無数の光の羽を撒き散らしながら、女の心の深淵をゆっくりと舞い下りていった。
女の傷付いた心は、まだ時間を止めたまま、覚醒半ばのまどろみの中にいた。
――温かい・・
心がそう感じたとき、時間がゆっくりと溶けて流れ出す。
「・・これは」
女は温かな光に誘われ、まどろみから両の瞼を開けると、上空に広がった幻想的な光景に、眼を奪われた。
蛍火のように瞬(またた)きながら、静かに空から舞い落ちてくる光・光・光・・
それらは茜の作り出す癒しの光に誘われるようにして集まり、女の上へと降り注いでいた。
「あ・・」
女は声を発すると同時に、口元を両手で覆い隠し、その双眸から涙を溢れさせる。
光を作り出していたのは、十六夜の子供達であった。
穢れを知らぬ子供達の魂は、ただ純粋に「傷付いた者を助けたい」とだけを願う。
その祈りが光を生み、女の元へと『力』を、子供達の命ともいえる『十六夜の力』を送り届けていた。
他人を傷付けるばかりが人ではない。
人はその優しさでもって、他人を労わる事もできるのである。
悲しいから、苦しいから、辛いから、といって、その感情に押し流され、人である事を、その意味を、その責任を、全て捨ててしまっていいわけがなかった。
「まら痛いの?」
女の涙を見て、草太が心配そうに、女の顔を覗き込んできた。
女は、まだまだ幼く、舌足らずな草太の質問に、微笑で応じながら、
「ありがとう・・そうじゃないの・・そう・・じゃない・・のよ」
と、その言葉を詰まらせる。
幼い草太は、女の言わんとするところを、言葉そのままに捉えたのだろう。
不思議そうな顔をして、
「じゃ なんれ泣くの?」
と、再び女に聞き返していた。
だが、その答えは女の嗚咽の中に埋もれてしまい、結局女の口から語られる事はなかった。フワフワと地上に舞い落ちて、消えていく淡い光達・・
それは、時期が来れば儚く消える、名残雪のようであった。