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琥珀の時(誘い後日譚)其の壱―≪御那己さま≫2【不可思議の迷宮】
この後徳川治世の時代に入ると、関東の交通網の中心は江戸となる。
特に江戸の中でも交通の中心になるのは「日本橋」で、日本橋からは東海道、甲州道中、中山道、奥州道中の五街道が各地に通じていた。
その中で江戸と甲府とを結ぶ道を甲州道中という。
江戸を出立して難所小仏峠を超え、大月で道を富士山道の方へと向かうと豆留(つる)、吉田と霊峰富士の信仰に支えられた町へと出る。
中でも吉田は富士登拝・遥拝の拠点として、室町時代の昔から来訪する道者のために御師と呼ばれる者達によって坊が営まれ、諸国からはその賑わいを目当てに商人が集う程の町であった。
その坊の一つに二人が参拝者に紛れて入り込んだ時の事である。
実際綾女が長旅の疲れを少し見せていたため、左近が坊の主人に頼みこみ、休息用にと一つ部屋を借りてくれた。
そして飯時に、既に大月の宿で富士裾野にまつわる奇異な噂を耳にしていた二人は、その坊で働いていた二十半ばの女に、さりげなくその噂の真偽を尋ねてみた。
どうもこの町でこの手の話は禁句となっているらしく――まあ、気持ちは分からないでもないが――町の者は一様にして口が堅く、正確な情報が集められずにいたからであった。
この女、歳若い男の二人連れに――片方はまだ青くて食指を動かすまでに歳は達していなかったが――突然声を掛けられて有頂天になり、此方から別段注意を払わなくても、ほいほいと噂の出所を事細かに(小声で)話してくれた。
彼女の話を要約するとこうなる。
此処より更に奥に向けて見延道へと続く間道が存在するのだが、その途中に鳴沢という山里が存在する。
最近その里を過ぎた辺りから、行方知れずになる者が後を絶たないと言うのだ。
元々その道は富士の裾野を縫っていく険しい山道であった。
武田信玄が甲斐の国を治めていた頃、伝馬制度と共に密かに領国に網羅させた抜け道の一本だったのである。
今も駿河へ抜ける道として極僅かに利用する者はいたが、普通の旅人が滅多に通る道ではなかった。
「ねえ・・よかったら――」
噂の事で自らの知る限りを話し終えた女が、品を作りながら左近の方へ遠慮がちに声を掛けてきた。
その間にも二人は何やら小声でぼそぼそと話をしている。
そしてこの時点で女には用が無くなったのだろう。
いともあっさり礼を言うと、二人は女を置いて部屋へさっさと引き上げてしまった。
合点が行かないのは女の方である。
後に残された女は呆然とそれを見送り、次にむっとした顔をして、
「何なのさ、あれは!」
と、これまで自分から声を掛けて落ちない男がいなかっただけに、その豊満な胸元を揺らしながら悔しがっていた。
勿論この時の二人連れが、左近と『綾之介』に扮した綾女であった事は言うまでもない。「お早いお立ちですなー お連れの方のお体はもうよろしいので――?」
着いて間もないというのに早くも出立しようとしている二人を送り出しながら、坊の主人が心底心配そうな顔をして言った。
「済まぬな主人、先を急ぐのでな・・」
「いえいえ、何事も一期一会ですよ・・手前どもは皆さん(=富士登拝者)のお世話をするのが当たり前の事でして、そう・・まだ日も高い事ですし、日の暮れるまでにはもう少し浅間大神様に近づけましょう・・途中岩室(=山小屋)で休まれればよろしいかと・・・」
「何から何までのご配慮、痛み入ります」
明らかに参拝者とは思えない二人を、事情も聞かずに快く送り出してくれる人の良い主人に心からの感謝を述べて、二人は坊を後にした。
途中例の女とすれ違ったが、相手があからさまに嫌な顔を見せたのを左近は何食わぬ顔でやり過ごす。
綾女は綾女でそんな左近に苦笑しつつ、軽く女に笑い掛け、小さく礼をして同じように通り過ぎた。
その笑顔の爽やかな事!
今度は女の方が乙女のように顔を赤らめた。
綾女は全く自覚していないだろう。自分の笑顔がどれほど罪作りか!
――坊やもなかなかではないか!?
と、その時女が思ったとは、ゆめゆめ綾女は知るまい――一路、鳴沢へ――そこへは吉田より三里ほどの道のりがある。
途中にわかに空の雲行きが妖しくなってきたが、二人は真昼である事も考慮して、普通の旅人より少しだけ速い足取りで里を目指した。
そうしてようやく里に着いた頃には、時刻は昼八つも大方過ぎた頃(午後三時頃)となっていた。
それまで持ちこたえていた雨が、丁度この里に着いた頃からしとしとと音も無く細い糸を引いて降り始めた。
里の家は昼日中だというのに何処も戸や窓をぴたりと閉めて、ひっそりと息を潜めている。
あの噂は本当なのだろう。
身近に奇怪な事件を抱えた村は、昼と無く夜と無くその恐怖に怯えていた。
家々の戸を叩いて回り、ようやく一つの家が戸を開けてくれた。
二人を迎え入れてくれたのは、鄙びた里の者にしては珍しく物腰の柔らかい壮年の男であった。聞けば、この村の長を務めている者であった。
長は二人からこの先の間道の事を尋ねられると眉を潜め、此処から引き返す事を強く二人に勧めた。
「なんなら今夜一晩、此処に泊まられても良い。悪い事は言わぬ。あの不入の森にだけは近寄ってくださるな。あそこは昔から魔物の住まう森、入り込めば生きて戻る事など叶わぬ地です。それでも私共は此処で暮らしてこれた・・お互いの境界さえ越えなんだら、魔物の方も人を傷つける事はなかった・・だがここ数年、森の脇を通る者にまで魔物は手を出すようなりもうした・・噂を聞きつけ、腕の立つ者が幾人とこの村を発(た)っていったが、その悉(ことごと)くが戻ってきなせなんだ・・魔物に食われたのだと・・村では皆が言っておりまする」
左近の瞳がきらりと光った。
「その不入の森とは如何なるものなのですか?」
「昼なお暗く木々が鬱蒼と生い茂り、入り込めば右も左も分からなくなる・・何故かその森では磁石が使えず、後は彷徨うだけ彷徨い、朽ちていくのを待つばかりの場所だと村の長老達から聞いております・・それが如何された――まさか!?」
綾女と左近が互いに目配せし合う。
その落ち着いた瞳の色合いからは、何の躊躇(ためら)いも見受けられない。
そして確固たる決意が二人の雰囲気から伝わってきた。
長は言いかけた言葉を飲み込むと、大きく溜息をつき、それでも穏やかに二人に話し掛けた。
「――行くなとお止めしても、無駄なようですな・・」
「はい、それが私達の務めなれば・・」
「務め?」
その質問に対し、綾女は唯穏やかな微笑を浮かべる。
隣に座した左近も、無言のまま二人のやり取りを見詰めていた。
囲炉裏の火を映した二人の瞳が語っていた――その質問に対する答えの拒否を・・・
影忍の宿命は、縁無き里人に説明してまで語る事柄ではなかったし、説明した所で、普通の人間にその過酷な境遇を理解できるはずも無い。
「これは余計な聞きもうしたな・・」
聡い長もそう言うと、曖昧な微笑を浮かべる。
二人の稀人は、その言葉使い、物腰からして、普通の旅人ではなかった。
だが彼等の後ろにただならぬ決意を見抜いた長は、それ以上の踏み込んだ質問は避けてくれた。
囲炉裏にくべられた薪がばちっと一つ大きな音を立てて爆(は)ぜる。
もうすぐ秋の早い夕闇が迫っていた。その後、せめて一晩だけでも、と親切に宿泊を勧めてくれた長の申し出を断り、二人は先を急いだ。
もう素性を隠す必要も無い。霧雨の降りしきる薄闇の山道を二人はひた走った。
そして一人の男と出会う――いや、正確に言うと、倒れている一人の男を見つけた。
その男は、髪は霜髪、衰弱しきり、息も絶え絶えの状態で道端に倒れていた。
「しっかりされよ! 如何された!?」
綾女が駆け寄り、男を助け起こして体を揺さぶった。
男がようやく薄目を開ける。
「さと・・いざよい・・」
男は苦しい息の下、掠れた声で一言そう呟くと、その震える指先で道の前方を指差した。
「この先に何かあるのか!?」
綾女の声に男が微かに頷く。
いきなり男の体が痙攣した。
「おいっ、しっかりしろ! 『いざよい』とは何だ!」
綾女が必死で男の肩を揺さぶりながら尋ねる。
だが、男は一つ大きく体を戦慄かせると、そのまま綾女の腕の中で事切れた。
綾女は男の躯(むくろ)を腕に抱いたまま、途方に暮れた目を背後に立つ相方の方に向けた。
左近も苦渋の色を濃く表情に残しながら、静かにその首を横に振った。
さと・・いざよい・・
それは何を指して言った言葉なのか、直接聞いた綾女にも、左近にもすぐには見当がつかなかった。
取りあえず死んだ男の亡骸を埋葬する必要があった。
左近が男の手を取った瞬間、驚愕する。
「綾女・・見てみろ!」
左近の強い言葉の調子に誘われるようにして、綾女も男の手に視線を落とした。
その手はどう見ても二十代前半の男のもの――その皮膚の張り、艶、どれも老人のそれではなかった!
若い屈強な男の髪を一晩で白髪にしてしまう程の出来事――
一体この男の身の上に何が起こったというのか?
綾女は背筋に悪寒が走るのを感じた。
その時である! いきなり二人の周りを突風が吹き抜けた。
辺りの木々が轟々(ごうごう)と音を立てて揺れ始める。
その風に混じって、幼い子供達の声が辺りにこだました。
――きゃははは・・・ くすくすくす・・・
風に舞って雨のしぶきが視界を遮る。
「誰だ!」
綾女は手をかざし、雨風を避けながら大声で叫んだ。
――やっぱり駄目だったね せっかく逃がしてあげたのに・・・
――もっとできた人でないと駄目だよ
――力ばかりじゃ勝てないよ
――あの人にはね
――そうそう!
次々と子供達の声が上空にこだまする。
姿無き子供達の声・・・
この辺り一帯で確かに何かが起こっていた。
「貴様達は何者だ―――っ」
風に向かって綾女が叫ぶ。
――また後で会いましょ
――待っているね、お姉ちゃん達・・・
――不入の森で・・・
――十六夜の里で・・・
「!」
その言葉に驚く綾女と左近を残して、声は複数の小さな足音とともに遠ざかっていく。
やがて風は子供達を引き連れて去っていった・・・
唐突に・・真相を告げないまま・・風は黙す。
冷たい雨だけが今なお降りしぶいている
「何だったのだ!? 今のは・・」
辺りが急に静かになると、左近は蒼ざめながら、誰に問うでもなく呟いた。
「分からない・・あれが聖か邪かも・・だが、どうにでも私達を不入の森に招き入れたい者達がいるようだな」
風の去った方向を睨みながら、綾女はそう答えると、今しがた死した者をそっと地面に横たえ、自分はゆっくりと立ち上がった。
その目には新たな決意が漲(みなぎ)っている。
「綾女・・行くのか?」
左近が綾女の方を振り返り、確認を取る。
「ああ・・行かねばなるまい・・いや、行こう! 左近!」
その言葉に左近も頷く。この後二人で男の亡骸を道の傍らに埋め、墓標として手ごろな石を上に据えた。
野辺の花を一輪、その前に供えたのは、綾女であった。
花が雨に濡れて、雫の重みにうな垂れている。
――名も無き者達の最期は、いつもこんなものなのかもしれない・・・
一抹の寂しさを覚えながら、綾女は左近と共に墓の前で合掌した。この後すぐ二人は不可思議の迷宮――不入の森へと向かった。
誰かの声がする・・・
闇が彼等を呼んでいた――