menu
琥珀の時(誘い後日譚)其の壱―≪御那己さま≫1
御那己さまはな、子供達の守り神じゃ
不憫な子を見かけると、優しげに微笑んで手招きしてくれる・・・
その手を取るとな、飢えも寒さも苦しみも無い国へと誘ってくれるのじゃと――!くすくす・・ くすくす・・
――嘘ばっかり――!
くすくす・・
――大人はね――・・
きゃははは・・ ぱたぱたぱたぱた(遠ざかる足音)――後ろの正面だ――れ?
【影二つ】
霞むように細く細く雨が降りしぶく中、雑木が皆一斉に空を目指して立ち並ぶ山の間道――ほとんど獣道と言ってよい――を微かに草を掠る音を残しながら、疾風の如く駆けて行く二つの影があった。
先に行く者は長身、その後ろに続く者はそれよりも頭一つ小柄な者である。
どちらも肩衣を羽織った旅装束に身を窶(やつ)し、頭には菅笠を深く被っている。
そのため顔が笠の陰に隠れてしまい、傍目からもその容貌は確認できなかった。
唯この二人、その独特の足の運び、尋常でない足の速さからして、普通の里人でない事は確かであった。
その健脚は特異な訓練を受けた者のみが持ち得る体技――その証拠に、既に一時(とき)あまり雨の中を走り続けているというのに、僅かに後方を走る者の額に汗が滲み始めている事を除けば、二人は息一つ乱していなかった。
人も滅多の通らぬ裏街道――何故二人は昼なお薄ら寂しいこの間道を選んで、先を急ぐのであろうか?
驚いた事に二人は進路を更に変更し、鬱蒼と茂った森の中へ、道無き闇の世界へと飛び込んでいく――
次第に地形の起伏は激しくなり、この辺り特有のごつごつした溶岩が所々で地肌を覗かすようになる。
飛び出た岩を避けながら走っていくと、蹴り出す草鞋の下を青々とした苔が覆い尽くすようになり、その湿った柔らかな感触が足底へと直に伝わってきた。
時々その緑濃い毛氈の下には、予想もつかない窪みがあったりする。
油断をしていると足を取られる危険があった。
だがそのような悪条件もものともせず、二人はなおも地を飛ぶような速さで駆けていく。
この森にはある種の境界が存在する。
それを過ぎた頃より二人は方角を失った。
次に時刻を――この雨も災いして――昼と夜の区別もつかない薄闇の中に狂わせ始めた。
事前にこの森の特異性を聞かされていたので、最初から道に迷う事は覚悟していたが、さすがにこれ以上この迷宮のような森を走り回る訳にもいかず、先を行く者が微かに後ろの者に合図を送った。
それに答えて、後ろを行く者も頷きを返す。二人の走る足が急速に緩められた。
そして歩調を常人の歩く速さに変えると、先に合図を送った者が後ろを振り返り、気遣う素振りを見せながら相方に声を掛けてきた。
「さすがに不入(はいらず)の森と言われているだけの事はあるな・・・これ以上闇雲に探しても目的の里は見つかるまい・・ひとまずこの雨を凌(しの)げる場所を探そう」
「・・そうだな」
声を掛けられた方は息を整える中でどこかほっとした様子を見せ、先の者より少しだけ高い声音でそれだけを答えて返した。
どちらの衣装もずぶ濡れ、それを気に掛けている二人では無かったが、確実にこの雨は二人の体温を奪い、尋常でない体力をも限界へと導きつつあった。
特に後方を走っていた者の疲労が激しいようである。
幸い此処は雨露を凌ぐ場所を探すのに苦労はいらなかった。
程無くして、樹齢何百年かと思われる木が朽ちて倒れ重なり合った奥に洞穴が口を開けているのを見つけた。
その洞は奥が深く、口は人の四、五人は楽に通れる広さがあり、雨宿りの場所としては理想的な所であった。
その中に入ると二人は頭に被っていた菅笠の結わえ紐を解き、雨の雫を払った。
一人はそれを地面へと置く。
もう一人は少し紐を解くのに手間取り、少し間を置いて笠を頭から取り去る。
その下から現れたのは烏の濡れ羽色に光る艶やかな髪――それは頭の高い位置で一つに束ねられていて、それらの一本一本が先刻からの雨のしぶきに濡れて、細く濡れそぼっていた。
さらにその束から零れ落ちたほつれ毛が、湿気のためにその細く白い首筋に張り付いていて、それが妙に艶っぽい風情を醸(かも)し出している。
濡れてなお美しいその顔(かんばせ)・・いや濡れる事で、更にその者本来の美しさが際立ち、薄闇にその者の立つ場所だけが輝いて見える。
濡れた髪を掻き揚げていた相方の手が、つと止まる。
そのまま切れ長の双眸が、相手の艶姿に釘漬けにされた。
その間にも長い黒髪を持つ者は頭を二、三度振り、額に張り付いた煩わしい前髪を振り払った。
「左近、どうした――?」
ふと自分に向けられた視線に気付き、怪訝顔で傍らの立ち尽くしている相方にその者は声を掛けた。
「あ、いや・・この雨が止まんと里探しも難儀するだろうと思うてな・・・綾女・・と違ったか――」
まさかお前に見蕩(と)れていたとはさすがに面と向かって言えず、左近と呼ばれた男は別の話題で言葉尻を濁した。
「構わないぞ、二人きりの時は・・・」
そう言って綾女と呼ばれた方は、男の視線の本当の意味に気付かないまま、ふっとその目尻を一瞬柔らかく崩した。
「だが――」
その言葉と同時に緩めた瞳の光をすぐ元の真剣なものへ擦り替えると、笠を壁に立て掛けながら綾女も気にかかっていた疑問を口にする。
「本当にこの不入の森の何処かに、あの男の申した十六夜の里が存在するのだろうか?」
「どうであろうな・・事実迷い込んだ者達は行方知れず、その理由を探りに森に入ったその道の兵(つわもの)達までもが――忍びの者も含まれていたようだが、誰も帰還せずとくれば、何かはあるであろうな・・・」
左近は洞穴の中に乾いた木の欠片を探しつつ、その問いに答える。
綾女も左近の動きの意味を察して、岩伝いに洞穴の中まで根を張り、そのまま朽ちてしまっている木の根を引き裂きにかかる。
そうして木切れを作り、二人は火を起こして暖を取った。
二人して暫く揺れる炎を見詰めていた。
「なかなかすぐには温まらぬものだな・・・」
ぽつりと綾女が両腕を自分で抱きしめながら呟く。
季節は夏を終えて、秋へと移りつつあった。
火のおかげでいくらか体は温かみを取り戻しつつあったが、この森の空気は人里で感じる外気より気温が低く、すぐには濡れた着衣を乾かしてくれない。
火の傍にいるほど濡れた衣服の感触が肌に直に伝わり、不快が増すようである。
「ならば手っ取り早く暖をとる方法もあるぞ・・・」
綾女の言葉を耳にして、左近が真顔でさらりと言ってのける。
すぐにはその言葉の意味が分からず、綾女は一瞬きょとんとした表情を見せた。
そして一拍置いた後、綾女は顔をカ――ッと朱に染める。
膝を抱えて座り込んでいた姿勢を片膝立ちの姿勢へと瞬時に変え、
「要らぬわ!」
と顔を赤らめつつ、あからさまに左近を警戒した。
その様子を見て左近は一瞬呆気に取られ、続いて思わず吹き出す。
「何が可笑しい!?」
「くく・・いや、別に・・」
その意味ありげな言い回しが神経に障り、綾女は更に突っかかる。
「それ以上笑うな! 」
言えば言うほど綾女は左近の笑いの壺にはまり込み、左近は左近で綾女のあまりにもお約束な反応にこみ上げてくる可笑しさを止める事ができなくなってしまった。
一頻(しき)り二人の掛け合いは続いた――
そのうち綾女が途中で己の馬鹿さ加減に気付き、突然そっぽを向いて押し黙ってしまった。
左近もそれに合わせて笑う事をやめる。
「・・・気は紛れたか?」
暫くの沈黙の後、左近が火にくべた木を弄(いら)いながら、顔を背けたまま此方を見ようとしない綾女に言葉を掛けてきた。
――え!?
綾女が驚いた表情を見せながら左近の方を振り返る。
そこには、これ以上無いくらいに優しげな瞳で自分を見詰めている左近の瞳があった。
「この雨の中ずっと走りどおしだったからな、疲れたろう・・・死んだ男の言っていた里の事といい、昼間道で聞いた子供達の声といい、鳴沢の村を出てからこっち奇怪な事が多過ぎる・・まるで全ての符号がこの不入森へと繋がっているようにな・・・今こうして俺達が此処にいる事さえ既に何者かの策略の範疇に入っているのかも知れぬ・・それでも後戻りはできぬのだ・・分かるな?」
「ああ、じゅうじゅう承知している・・」
「ならば休める時に休め。そのように今から身を強張らせていては、いざという時に力は出せぬ!」
左近の言葉に綾女ははっとする。
自分としては気負っている自覚は無かったのだが、知らぬ間に己の気を高ぶらせ、自らを緊張の糸でがんじがらめにしていたようである。
そんな綾女の様子を左近は何気ない視線で見抜き、左近なりの配慮で緊張を解いていたのである。
なるほど先の戯言で綾女の気持ちは程よく高揚(?)し、要らぬ気負いが解けている。
――自分はまだまだ未熟だ
そう思う。そして心の中で綾女は左近に感謝するのだ。
「・・・そうだな、ここはお主の言葉に甘えて先に休ませて貰う事としよう・・左近、お主も休みたい時は言ってくれ・・火の番は途中から代わろう・・・」
「ああ、その時は頼む・・」
二人の間に阿吽の呼吸が通う――そうやって二人はこれまでも旅をしてきたのだ。
綾女は火の方に背を向けて地べたに横臥した。
左近はそんな綾女の背をちらりとだけ見て、後は黙々と火の番をこれまでどおりに続けた。
綾女が窮地で背を預けられるのは左近だけであった。
その絶対の信頼が綾女の背中から左近に伝わってくる。
だから二人の間にそれ以上の言葉は必要無かった。
「雨――」
ボソリと壁の方を向いたまま綾女が呟く。
「――ん?」
左近が炎の向こう側から綾女を見る。
「――止みそうに無いな・・・」
綾女の言葉に、左近は視線を洞穴の入り口の方へ向けた。
「そうだな・・今夜一晩は無理であろうな・・・」
外に真の闇が近づき、視覚で捉えにくくなった冷たい雨を、左近は入り込む風の気配から読み取った。
実際、外はなおも雨音を立てずに霧雨が降りしぶいている。
綾女もそれを肌で感じつつ、いつしかまどろみの中に意識を手放しつつあった。
――この先に何が待ち構えているのだろうか・・・
忍びは体を休めていても何処かしら神経の一部を覚醒させているものである。
綾女もまどろみながら、そんな事を頭の片隅で考えていた。
先の事を考えても仕方がない。
だが、戦う覚悟だけはいつも自分に課していなければいけないのである。
自分達が相手するのは、人間とは限らないのだから・・・いや、むしろ人間で無いものを相手するために自分達は生きているとも言えるのだから・・・
――あの男との出会いが、今回の事の発端になったのだったな・・・
眠りに落ちていく中で、綾女は此処に至るまでの出来事を思い返していた――