menu花と風と3(琥珀の時外伝)
静かな夜であった。
澄んだ早春の空気に月の光は益々冴え渡り、その銀色の輝きが地に降り注ぐ音さえ聞こえてきそうな夜であった。
綾女は雪見障子を少しだけ開け、何とはなしに外を眺めていた。
一面の白――昨夜から降り出した雪が、この世の名残とばかりに、辺りを白く覆い隠し、うっすらと薄化粧を施していた。
美しいが物悲しく、それ故空虚さも否めないこの風景に、綾女の心も沈みがちであるが、却ってそれが今の綾女には心地良くさえ思える。
死の誘惑にも似た心地――
――気弱になったものだな・・・
綾女は一人苦笑する。
部屋の中に燻る、仄かに甘い麝香の香り――
粉末であっても香の材料は独特の香りがする。
綾女は部屋の片隅に落ちていた薬包を拾い上げて、その包に染み付いた微かな芳香から中身が何であるかを知った。
ふと気紛れを起こし、一連の所作――忍びは精神統一の鍛錬の際に香を使用する時がある――を思い出しながら、それを焚いてみた。
白煙が立ち昇り、部屋全体がその甘い香りに満たされる頃、綾女の心と体に変化が生じた。体が虚脱し、意識は忘我の域に入り込む。
半ば放心し、床の上に置いた片手に寄り掛かるようにして横座りしている綾女の風情は、しだれ梅を連想させる。元々しなやかな肢体の持ち主だ。
その楚々とした美しさは、今のように白小袖一枚という簡素な衣装の時のほうが、なお一層引き立っていた。
無意識のうちに、懐から一枚の葉を取り出した。
ヤブコウジの長楕円の葉――ふと雪に誘われて庭に出た時、白い雪の中に赤い実をつけた低木を見つけて、摘んだものであった。
それを下唇に押し当て、息を吹きかける。
プィ― プィー・・
物悲しい音色が綾女の口元から生まれる。
妙に、この眺めている風景に似合う音色であった。
その音色は庭を横切り、別棟の渡り廊下まで聞こえていた。
丁度その渡り廊下を、明かりを持った左近が部屋へ戻ろうと、こちらへ歩いて来ている最中であった。
左近はふと立ち止まり、その音色を確認する。
――また、要らぬ事を考えているな
左近は大きく嘆息した。これで何度目だろう、溜息をつくのは・・・
いい加減諦めていた。何を言っても、左近の言葉は綾女の心に届かない。
此処の所、綾女の体調は快方に向かっている。
不安定だった言動も鳴りを潜め、いく分落ち着きを取り戻しつつある。
体が床に臥したことで、逆に疲れていた心との落差が埋まって、心と体の均衡が保てたという皮肉な結末だった。
今は体の無理が利かない。だから、戦いの事で思い煩う事も無い。
とにかく綾女は、体の回復の事だけに、今は専念していればいい。
それからの事は、体調が戻ってから考えればいいのだ。
左近はそう思う事にしていた。
一言声を掛けてから、部屋の障子を空ける。
「寝ていなくても大丈夫なのか?」
一瞬鼻先を掠めた甘い香りに眉を顰(ひそ)め、左近は後ろ手で障子を閉める。
草笛の音が途切れた。
「ああ、今日は気分がいいのだ。ふっ、昼間寝ていたせいもあって、寝つけぬしな・・丁度雪が綺麗なので見蕩れていた」
はにかむようにして、綾女がか細く笑う。
雪明りに浮かぶ綾女の横顔――ちらりとそちらを垣間見て、左近は思わず心の中で呟く。
――美しいのはお前の方だ
そう思ってから己の相変わらずの心ばえにはたと気付き、左近は内心苦笑しつつ、手にしていた明かりの火を油皿の方へと移した。
油の燃える独特の匂いが立ち昇り、灯心に火が点される――蝋燭の火はその時点で吹き消す。
部屋の片隅が仄かに明るくなった。
襖全体に描かれた錦絵が、屏風絵が、明かりのもとに鮮やかに浮かび上がる。
部屋の空気が一気に緋色を帯びた。
その中に浮かび上がる夜着一枚を纏った綾女の姿――病み上がりの分いつもより儚げでたおやかに見える――小袖から覗く白魚のような手、裾から覗く華奢な足、連日の微熱で上気し、しっとりと濡れた風情のある襟足、潤んだ瞳、青白い頬に唇だけが何故か紅を薄く刷いたように赤い・・・
十分魅惑的なその姿に、思わず喉の奥が鳴る。
左近は慌てて目線を逸らし、綾女に別な事を尋ねた。
「上手いものだな・・」
「何が?」
綾女が陰の残るその横顔を、真っ直ぐ左近の方に向けた。
久しぶりに自分の方を振り向いてくれた綾女であった。だが、何故か心痛む。
微笑が余りにも痛々しいからだ。
左近は綾女から少し離れて座り、小袖の袂から胡桃を取り出すと、それをカラリカラリと
手の内で弄(もてあそ)びながら、その続きを答えてやる。
「草笛だ」
「ああ・・これか。つい手にしてしまう・・葦笛とはまた違う、手になじんだものだからな・・・」
そして暫く二人の間に沈黙の時が流れる――と、急に綾女が何かを思い出し、クスリと笑った。
「如何した?」
左近が怪訝顔で問う。
「いや・・なに、これ(草笛)を教えてくれた奴の事をふと思い出してな・・やはりこんな雪明りの夜にはこっそりと二人して屋敷を抜け出し、二人して外を遊び回るのだが、疲れると決まって藁(わら)小屋で眠ってしまい、翌朝、朝一番に父上に見つかってな、大目玉を食らったものだったから・・・つい、な・・」
暫く一人忍び笑いをもらした後、急に綾女は真顔に戻り、押し黙る。
そのまま綾女はうな垂れた。
左近が気遣って合いの手を差し伸べる。
「香澄の里の者か?」
「ああ、そうだ・・・草笛の本当にうまい奴で、私もこれ(草笛)を吹いてみたいと言ったら、お前には無理だと言うから、最初そいつとはケンカになった。それでもと駄々をこねると、最後にはしょうがないなと笑って私の願いを叶えてくれた。私はせっかちで、できないとすぐ癇癪を起こしたけれども、それでも根良く教えてくれた。約した事は必ず守る、生真面目な奴だった。一つ一つ石を積み上げていくように、自分の事を磨いていく、そんな奴だった・・もう・・いない・・誰も・・・」
綾女の双眸から涙が流れた。
左近の眉間に皺が寄る。
「その者は――?」
綾女はすんと一つ鼻を啜ると、左近の方を振り返りはっきりと答える。
「私の許婚だ」
左近の顔が微かに曇る。
綾女は誰に語るでもなく、ぽつりぽつりと思い出話を始めた。
「里では兄の華やかな天賦の才の前に霞んでしまい、影は薄かったが、腕は確かで、いぶし銀かなにかのように、皆の心の中に確実に存在しつづけるそんな奴だった。もしあの者が生きていて、里も無事であったなら、死んだ兄に代わり、里を統率していただろう。それができるだけの度量と技量を持ち合わせていたと思う。そう・・兄がいなければ・・・
いつも陰に徹し、兄を助け、でしゃばらず、何事も控えめで・・・ふ、私がこうして綾之介を名乗る事が無かったなら、今頃あの者の傍らで穏やかに暮らしていたのだろうな・・・」
「愛して・・いたのか?」
胡桃がカラリカラリと音を立ててこすり合わされる。
「分からぬ・・・生まれた時より共にいて、共に育った。傍にいるのが当たり前・・そんな空気のような存在だった。元は香澄忍群の頭領である父の取り決めた縁談ではあったが、奴から直接、一生を俺に預けてくれぬかと言われた日には・・涙が止まらなかった・・・
あの時点まで、私は胸高鳴るような愛も、波乱に満ちた人生も知らなかったが、春の優しい日差しに満ちた里の生活は知っていた。あの者となら・・その日々を紡いでいける・・予感があったのだ・・・その夢もあの惨事で潰えたがな・・・」
バキリ・・ッ
胡桃が左近の手の内で音を立てて割れた。
非常に硬く、かなりの力を加えなければ割れる事の無い胡桃の殻が粉々に割られ、左近の掌からパラパラと音を立てて零れていく。
「――左近?」
綾女が左近の様子を変に思い、声を掛ける。
最初は聞こえないほどに小さく、そのうち声を立てて左近は笑い出だした。
明らかに人を小馬鹿にした笑いであった。
「左近っ!」
綾女が訝しがりながら、語気を強めて再度左近の名を呼んだ。
左近がゆらりと瞳を泳がせながら、その顔を綾女の方に向ける。
綾女の背にぞくりとするものが走った。
本能的な直感だった。心で警鐘が鳴り響いている。
それでも綾女は気丈に左近の目を真っ直ぐ見詰め、再度問う。
「何がそんなに可笑しい!?」
その声に左近は笑うことを止めた。
その代わり、怖いくらいに真剣な顔で、綾女を見詰め返してきた。
その瞳には苦悩とも悲しみとも怒りともとれる複雑な感情が入り乱れていた。