SAMPLE COMPANY

小説・注意書き

    この作品には「消えた後継者」のネタバレがほんの少しあります。
    クリア前の方はご覧にならないで下さい。

たき火

     そこには何もなかった。
     女は薄汚れたアスファルトを見つめた。
     ごく一時はお悔やみの花で埋め尽くされた路地裏から花はあっという間に消え去った。今はもう花生け代わりにされたコップすらなく、青いポリバケツとチラシの残骸があるばかりだ。
     誰も、その路地裏で死んだ『彼』の死を心から悼んで花を供えたわけではなかった。死んだ『彼の父親』のご機嫌伺いに、一度だけ花を供えて見せたにすぎなかったということだ。
     八束町と呼ばれるこの町では、それが賢いやり方だった。『彼の父親』におもねいて損のあろうはずはない。
     そしてやはり誰も、ここで死んだ『彼』の死を悼んだわけではなかった。『彼』の母親である彼女を含めた、ごく少数を除いて。
     女は路面から視線を上げると大通りへ濁った目を向けた。
     まばらな人の流れの向こう、わずか100m先。
     交番があった。
     女は灰色の小さな建物を、落ちくぼんだ目でじっと見つめる。
     100m。
     どれだけ見ても、距離はたった100m。
     なぜ、と女は思う。
     たったこれだけの距離。
     なぜ警官を呼びに行かなかった。
     どうせ止められないなら。
     ナイフを持ち出されて逆に相手を刺してしまうくらいなら。
     自分で止めようなどしなければ良かったのだ。
     正義ぶった男が余計な真似をしなければ、彼女の息子は今も生きて、この町を歩いていたに違いない……。
     そうして交番をじっと見ていると、立ちつくす彼女の姿に気づいたのか、警官が一人やってきた。
    「あなた……」若い警官は困惑した様子で彼女に声をかけた。子どもか老人に見せるような笑顔を、警官は思い出したように浮かべた。「また、いらしてたんですね」
     ええ、と彼女は頷いた。
    「お寒くありませんか?」
     今度はいいえと答えた。
    「寄って行かれますか?」警官はそう言って交番を指し示した。「大したものはありませんが、よろしければお茶でも」
     申し出は嬉しかったが女は丁重に断った。
     そして、彼女は少し首を傾げた。
    「お巡りさんは、おいくつ?」
    「本官ですか?」
     彼女は再び頷く。
     警官はきまじめに彼女の質問に答えた。
    「わたしの息子と同い年だわ」
     目を細めて女は言った。
     若い警官もまた目を細めて、哀れむ表情になった。
     

     警官と別れると女はまたフラリフラリと町の中をさまよい始めた。
     パーマの取れかけた短い髪が切り付けるように冷たい晩秋の風に吹かれて揺れる。かつては美しく整えられていた髪が荒れているのも気にしない様子で、女はあてどなく歩き続けた。
     ──何がいけなかったのだろう。
     こうして街をふらつくようになってから、女はよくそれを考える。
     彼の父親は厳しい男だった。
     一代で地位と財を築いたためか、有能であることを自分にも周囲にも求めた。自身にも甘えは許さないが、他者にも厳しい男だった。
     それでも非情な男ではないと思う。親としての当然の情愛として、彼の父親は自分が築いたものを息子に継がせたいと思っていたらしい。だが、それだけに、父親が彼にも有能であることを求めたこともまた、自然な流れだったのだろう。彼は幼い頃から父親の多大な期待を寄せられ、他者より優れることを当然のこととして──より言うなら義務として──求められた。
     けれど残念ながら、彼は父親が期待するほどには優秀でなかったのだと思う。
     無能というほど出来が悪かったわけではない。
     ただ、父親の設定したハードルがあまりにも高かったのだ。
     そんな彼が女は哀れだった。
     父親としては、自分のかわいい息子なのだからこれだけのこともきっと出来るはずだと、そんな風に、かける期待の大きさこそが息子に対する愛情の現れなのだと女にはわかっていたけれど、どれだけ必死で父親の要求をこなしてもそれは当然のことと見なされて誉めてもらうこともない彼が、女にはたまらなく不憫だった。
     だから女は、せめて母親である自分が父親の分まで息子に優しくしようと思ったのだ。
     息子が自信を持てるようにと、ささやかなことでも誉めてあげた。
     父親が無理を強いる分、彼女はできるだけ彼の望むようにさせた。
     厳しいが立派な父親と、優しい母親。
     問題はなかったはずだ。
     それで、すべては上手くいくはずだったのに。
     ──何がいけなかったのだろう。
     道を踏み外してしまった彼を思う。
     それでも彼が悪かったとは思えなかった。
     親である自分たちが育て方を誤ったのだ。
     女は悲嘆にくれた。
     

     ふと女は足を止め、顔を上げた。
     もう日はとっぷり暮れていた。女は知らなかったが、その時はすでに真夜中と言っていい時間帯になっていた。
     そこは街の中程だった。古びたアパートがある。
     いつもの場所だ。
     長い期間続いている女の徘徊の終着点は、いつも決まってここだった。
     一見するならば取り立ててなんの変哲もない、ただの古い二階建てのアパートだ。ドアの脇に並んだ洗濯機。むき出しの赤茶色い鉄の階段。塀は申し訳程度にしかなく、建物のすぐ脇にはゴミ回収用の青いポリバケツと古新聞の束が小さく積まれていた。
     濁った女の目は、そのどれでもなく二階のとあるドアを見ている。
     ドアの前の蛍光灯は切れかけて点滅していた。
     明滅する灯りのもとでも、そのドアだけは異常な状況にあることが見て取れた。
     何か貼り紙のようなものが無秩序にいくつも貼られている。
     灰色のドアには真っ赤なペンキで「人殺し」の三文字が大きく書かれてあった。
     数日前までは黒字で「殺人者」と書かれてあったような気がする。
     離れた場所から見ても今回の毒々しい色合いは際だっていた。
     女がここを訪れるようになった頃には、すでに始まっていた悪質な嫌がらせだ。
     女は針のように目を細めた。
    「人を殺すような人間は、みんな死んでしまえばいいのだわ……」
     おそらくこれは彼の父親の仕業なのだろう。
     彼の父親が裏で何かしていることを女は知っていた。『彼』を殺した男を獄中に送るだけでは気が済まなかったということだ。死刑判決が下ったわけではないのだから無理からぬことだと、女には夫の行動を理解こそすれ非難する気持ちはわずかもない。
     女は電柱の陰からじっとその部屋を見つめた。
     見上げるだけ。何もしない。これ以上近づくこともない。
     そうやって女はいつもここで一時間ほどを過ごし、家に戻って行く。それを毎日繰り返していた。

     この日、それまでと違うことがあったとすれば、まず初めに寒さだったろう。

     女はいつもと同じように電信柱のそばでじっとしているだけだったが、足下から寒さがこみ上げた。乾いた冷たい風が強く、風向きも悪かった。ちょうど路地の間を抜けて女の横合いから吹き付けて来るようだった。
     毎日の徘徊につきあわされてくたびれた薄手のコートでは、たとえ元が上等な品であってもしのげる寒さには限度がある。
     行儀が悪いと思ったが、女は少しでも暖を取ろうとコートのポケットに手を入れた。
     その彼女の指先に触れる物があった。
     おや、と女は思った。
     女の指先に触れたのは何か固い物だった。女の手でもちょうど握り込めるようなサイズで、四角い。ずっとポケットに入れてあったために温まっていた。
     なんだったろうか。
     指先でその正体を探っているうちに、女は思い当たった。
     女はポケットからそれを取り出した。
     電信柱に設置された弱々しい蛍光灯が照らし出したのは、女の白い手のひらに置かれた銀色のライターだった。
     女は少し驚いてそれを見つめた。
     ライターは彼の遺品のひとつだった。それも、最後まで彼が身につけていたもののひとつだった。
     こうして街をさまようとき、女はたいてい彼の思い出の品を何かひとつ身につけていた。彼の写真や保険証。彼が幼いころ彼女に摘んでくれた花を押し花にしたしおりなどがそうだ。家を出がけに、そうした品につい手が伸びるようだった。女にしてみればほとんど意識していない行為で、こうしてポケットに入れていたことも忘れることが多かった。
     けれど、このライターを持ってきたのは初めてだ。
     女は手のひらに乗せたそれをじっと見つめた。
     彼が最後まで身につけていた物は、触れるのが辛かった。
     彼の最期の痛みが伝わってくるような気がしたからだ。
     彼が死んだ路地裏には、事件のすぐあとはおびただしい量の血の跡が残っていた。
     どれほど痛かったろう。どれほど苦しかったろう。
     どれほど恐ろしかったろう。
     そうした気持ちが物にも残っていて、伝わってくる気がしてならなかった。だから触れられずにいたのに、なぜこれを持ってくる気になったのか。
     女は不思議に思った。
     不思議に思いながら微動だにせず、ライターを見つめていた。
     

     また風が吹いた。
     冷たく乾いて、強い風だった。
     ──焚き火。
     女は不意に思い出した。
     彼がまだ小学生時分の頃、焚き火をしたいと言い出したことがあった。マンガででも見たのだろう。落ち葉を集めて庭で、おいもを焼いたりしたいと言い出した。
     彼女は焚き火などしたこともなかったが、他でもない息子の頼みだったので望むままにした。記憶を頼りに見よう見まねで落ち葉の小山を作り、少し古新聞も足したりしてそれらしくして、水をくんだバケツも用意し、ライターで火をつけた。
     それは、思い返せば浅はかな行為だった。
     その日はやはり今日のように乾いた風の強い日だった。
     彼女が考えなしに落ち葉の小山に点けた火は、あっという間に山の表面に燃え拡がった。そればかりでなく、小さな炎のかたまりととなった木の葉が風にあおられて舞い上がった。
     彼はその光景を無邪気に喜んだが、彼女はさすがに青くなって慌てて火を消した。幸い、彼女たちの家屋や隣家に火の粉が飛ぶようなことはなかったが、そのことは後から夫の耳にも入って、彼女はひどく叱責された。そのせいで、息子に頼まれても焚き火だけは、彼女は二度としてやれなかったのだ。
     ──そう。焚き火。
     焚き火をすれば、彼は喜んでくれるかもしれない。
     女は茫洋とした面もちで再び歩き始めた。目前のアパートへと向かう。今し方まで風よけにしていた電柱から先は、それまで彼女が踏み込んだことのない領域だった。
     にもかかわらず、まるで勝手知ったる場所のように女は迷いなくアパートの敷地内へ足を進める。
     女は積まれた古新聞の脇にしゃがみ込んだ。
     すえたゴミの臭いのする中、そっとライターの蓋を開けた。金属の触れあう澄んだ音。その音に重なって、すぐそばでカタンともう少し大きな音がした。
     彼女はゆっくり音がしたほうに目を向ける。
     音を立てた相手がこの辺りの住人なら申し開きのしようはない状況だったが、焦る気持ちは不思議なほど生まれなかった。
     女が少し目を上げると、別の二つの目と視線があった。
     薄暗がりにあっても明るく輝く丸い瞳は、断じて人間に持ちうるものではない。
     彼女を見つめていたのはポリバケツの蓋に乗った黒い猫だった。瞳以外はあんまり見事に黒いので、そばにいても気づかなかったようだった。
     女が少し首を傾げると、猫は音もなく地面へ飛び降りてトコトコと歩み寄り彼女を見上げた。
     よく見れば痩せて小さな猫だった。生まれて一年とは経っていないだろう。
     飼い猫だったことがあるのか、このあたりの住人に餌付けされているのか、人を怖れる様子がない。
     しゃがみ込んでいる女を見て餌をくれると思ったのかもしれなかった。
     女は何かあげられるようなものを持っていたろうかと考えたが、何も思い付かない。
     代わりに野良猫の薄い毛並みを一度なでた。
    「おまえも寒いでしょう?」
     女は尋ねる。
    「しばらくすれば、暖かくなるから……いい子で待っているんですよ」
     女はライターに目を戻す。
     何度か火を点けるのに失敗した後、風から火をかばうことを覚えた女は、ゆっくりと古新聞の束に火を点けた。
     十分燃え移るまで、じっと女は火を当て続ける。コートの袖口からのぞく彼女の手首は、連日ろくに食事も取らず街を徘徊していることで枯れ枝のように細い。
     はじめは小さかった火が、ゆっくりと紙の平面上を拡がり始めた。
    「危ないからね……。少し、離れていないとだめよ」
     女は猫にそう言い聞かせて立ち上がると、ポケットにライターを大事に戻し、二歩うしろに下がった。猫も火に驚いたのか、少し離れた。
     一人と一匹が見つめる前で、火は新聞紙の束を完全に包み込む。
     やがて炎となった火は風に吹かれてアパートの壁へと燃え移った。
     平面を燃え拡がるよりずっと速く、炎は風の力を借りて壁を這い上がっていく。
     その壁のすぐ向こうが、あの人殺しと殴り書きされたドアのある家だった。
     女はそれを見届けて、赤い光の中ゆっくりアパートに背を向ける。
     いつの間にそんなところまで逃げたのか、さっきの黒猫がいつも彼女の立つ電柱の陰に隠れていた。
     女は猫に近づいた。
    「怖がらなくて大丈夫」
     おびえた素振りを見せる猫に、女はやせた手を差し出した。
    「おまえは、ちょうどわたしの息子が殺された頃に生まれたのかしらね?」
     しゃがんで話しかけてくる女に猫は少し警戒心を解いたのか、一度ぱたりと細い尾を振る。
    「一緒に、うちへいらっしゃい。何か食べるものをあげましょう」
     しばらく女を見上げていた猫は、やがてそろそろと彼女に近づいた。
     女は猫をそっと抱き上げ、初めて小さくほほえむ。
     彼が殺されてから初めて彼女は自分でもそうとわかるだけ、きちんと笑えた気がした。
     猫を抱いたまま女は路地裏をまたふらふらと歩き始める。
     その細い姿は「火事だ!」と叫びが上がるより先に、闇に溶け込んで見えなくなった。