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小説・注意書き

    この作品は「消えた後継者」「うしろに立つ少女」「雪に消えた過去」のネタバレに抵触します。 
    「雪に消えた過去の」の犯人と主要なエピソードに触れています。 
    「消えた後継者」の主要なエピソードに触れています。 
    「うしろに立つ少女」の登場人物も登場しています。
    各作品のストーリーをご存じない方は絶対にご覧にならないで下さい。 
     

祝いの言葉・前編

     いい天気だった。
     風は暖かく、空は青い。
     大安吉日の五月の日曜日。
     それは世に言う結婚式日和である。
     ここにも一人、本日結婚式を迎えようという二人がいた。
     本日の主役の一人は新郎の高田直哉さん、職業探偵である。

     シルバーグレイのモーニングに身を包み、直哉は控え室のストールの上で彫刻と化していた。
     目に優しいクリーム色で統一された控え室は、本来暖かな印象をその部屋に訪れる人々に与えるのであろう。けれど、緊張の頂点にある花婿にはさすがに効果がないようだった。
     その姿も新郎の義理の叔母である綾城ゆきこの目にはむしろ微笑ましく映る。
     すでに両親が他界している新郎側ではゆきこと、その夫が唯一の親族だった。彼女たちは新郎の付添人となるにはまだほんの少し年若い部類に入り慣れないことに手間取ることも多かったが、新郎とは縁の深い山本もとこの助けなどもあって、何とかこの祝いの日を迎えることができた。綾城夫人はそのことを素直に喜ばしく思う。
     ゆきこは新郎に呼びかけた。
    「直哉さん」
     新郎からの返答はない。
    「直哉さん?」
     もう一度、彼女は呼びかける。
    「直哉さん」
     更にもう一度。
    「あっ、はい! リハーサルの時間ですか!?」
     三度目でようやく返ってきた答えは、少し的を外れた物だった。思わず綾城夫人は微苦笑を洩らした。
    「まだ、あと三十分ほどありますよ」
    「ま、まだそれだけあるんですか……」
    「ええ。だから今の内に、なにかお腹に入れてはどうかしら。朝からなにも食べていないでしょう?」
     夫人はそう言って、念のためと用意してきた小さなおにぎりの入った弁当箱を差し出した。
     だが、直哉は曖昧な返事を返して目を反らす。かわりに、全身が『緊張で物が食べられる状態ではないです』と語ってはいた。
     困ったことだと、夫人は心の中でため息をついた。
     その時、控え室のドアが開いた。
     現れたのは体格のいい男性──ゆきこの夫であり新郎の叔父の綾城和人である。
    「様子はどうだい?」
     夫に尋ねられた綾城夫人は微苦笑を返した。
    「ほとんど準備はすみましたけど……あなたからも、少し何か食べた方がいいとすすめてあげて下さる?」
     和人もまた思わず苦笑した。
    「直哉くん、ゆきこの言うとおりだ。主役は披露宴でもろくに食べられないしね、いま食べておかないと具合が悪くなるよ」
     実を言えば、和人もまた自身の結婚式の前日、当日には極度の食欲不振に陥ったのだった。そのため披露宴に入る頃、今度は空腹のあまりひどく顔色の悪い花婿になってしまった。
     ゆきこが念のための弁当を用意する気になったのも、そこに理由がある。
     それでも無理強いしても仕方がない。
     ゆきこは新郎の目に付くところに弁当を置くだけにとどめて、改めて夫を見上げた。
    「花嫁さんの方は?」
     ゆきこは尋ねた。
    「ああ、さすがにお祖父様お祖母様がしっかりされているね。伯父さん夫婦もしっかりされているし、準備は順調だった。きれいな花嫁さんだったよ」
    「あゆみさんだったら、本当にきれいでしょうね」
     うっとりと綾城夫人は語る。
     だが、夫人はふと表情を曇らせた。
    「そういえば……お姉さまはいらした?」
     夫人の問いかけに和人もまた顔を曇らせた。
    「いや、まだだ」
     それまでほとんど石のように固まっていた新郎が、この会話には顔を上げた。
    「令子さん、まだなんですか?」
     新郎が尋ねる。
     和人は短く頷いた。
     夫人は自らの頬に手を添えた。
    「いらっしゃらないなんてことは……」
    「大丈夫さ、まだ受付の時間じゃないからね」
    「そう、そうね」
    「それより直哉くん、君は今のうちにちゃんと食事を取っておくこと。いいね」
     和人は言った。
     

     一方、本日のもう一人の主役は橘あゆみさん、職業は新郎と同じく探偵である。

     新婦の準備は着々と進んでいた。
     新郎同様、新婦の両親もすでに他界しているが、こちらは祖父母と年齢を重ねた伯父夫妻が見ているため、準備は手際よく進んだ。
     花嫁はすでに白いドレスへの着替えも済ませ化粧台の前に腰掛けている。その化粧台に置かれた長いベールと白百合をメインにして三日月型に作られたブーケは、いやがおうにも結婚式直前の雰囲気を彩っていた。
     立っても少しだけ裾を引くように作られた花嫁のドレスはAラインを描きストールから広く床へと流れている。色素の薄い今日の花嫁に真珠色のドレスはひいき目抜きでもよく似合う。
     今日の新婦は輝くように美しく、新婦の祖母である橘サチはその姿を見て涙ぐんだ。
    「敏江にも見せてあげたかったわ」
     サチは何度も何度もそう繰り返していた。
    「おばあちゃん」
     花嫁が祖母を気遣って少し微笑む。
     新婦の祖父である真之介は妻の隣で頷いた。これも、もう何度も繰り返された光景である。
    「邦宏くんも敏江も、喜んでおるだろう」
     あゆみは小さく微笑み返す。
     それからふと、新婦は真顔になった。
    「おじいちゃん」
    「なんだ」
    「お姉さんは、まだ?」
    「いま慎太郎と浩一が表で待っておる」
    「そう……」
     めでたい日にもかかわらず、少し沈む花嫁を見て真之介は胸が痛むのを感じた。
     今日の花嫁とは父親の違う姉である野村令子が、式への出席をためらっていた。
     それは父親が違うという事情以前に、もっと複雑ないきさつと、何より令子が以前に起こした過ちが暗い影を落としているためであることは明らかだ。令子はすでに科せられた刑期を終えていたが、だからといって気軽に彼らの前に現れようとはしなかった。その一件で、彼女たちの実の母親が命を落としたことも令子には多大な負い目になっているのだろう。
     今日の式にも、親族としてはどうしても出席するつもりがないようだった。
     けれど、彼ら橘家の人々にとって野村令子は気がかりな存在であり、何より花嫁であるあゆみにとっては唯一の姉である。令子を──どんな形であっても──今日の式に招くことは彼らにとっては当然のことであった。
     特に橘真之介は彼女が来てくれればいいと、心の底から思っていた。
     誰も真之介を責めようとはしないが、令子が起こした事件の根底には彼が大昔に下した判断がある。周囲の人々が真之介を責めないのは、彼が発端であることに誰も気づいていないからか、それとも気づいていながら敢えて責めずにいるからかはわからなかったが、周りが自分を責めないからという理由で真之介が自らを許せるはずもなかった。
     もはや過去は取り返しがつかないが、せめて花嫁の姉には妹の門出を遠慮なく祝えるようになってほしかった。祝われる者のためにも、祝う者のためにも。
    「わしも少し様子を見てこよう」
     真之介は言った。
     迎えの人間が多く外にいると、むしろ彼女には来づらいかもしれないと思われたが、じっとしてはいられなかったのだ。
    「でも、あなた」
     彼の妻が呼びかけた。
    「あなた、もうすぐ最後の練習があるでしょう? 私は則子さんと受付に行かなくてはなりませんから、外を気に掛けておきますよ」
     妻の言葉で真之介は時計を見た。なるほど、いつの間にか思ったより時間が経っていたのだ。確かに今から外へ出ても、すぐに中に戻らなくてはならないだろう。
     どうしたものか、と真之介が口をへの字にしたところで、控え室の戸がノックされた。
     はっと、全員が視線を戸に集中させる。
    「どうぞ」
     と花嫁は答えた。
     戸を開いて現れたのは、新郎新婦の唯一の上司に当たる空木俊介だった。
    「あ、空木先生」
     新婦が白いレースの手袋に包まれた手を口元に当てる。
     思わぬ注目を浴びたせいだろう。空木はわずかに戸惑ったような顔を見せたあと、少し笑った。
    「丸山さんご夫妻が到着しましたよ。今は新郎の控え室に」
     それはわざわざ、と恐縮して真之介は答える。
     本来、いちばんの来賓になっても良さそうな空木は、ほとんど世話役のようになって親族並みによく働いていた。
     空木自身には同伴できる女性がいないため立会人にはなれないということだったが、その分、新郎新婦と面識の深い丸山氏に話を通してくれたのも彼だった。立会人夫妻は──というより、夫の丸山警視は職業柄多忙のため、空木で肩代わりできる役目は彼が嫌な顔一つせず行ってもいた。
     あゆみはいい上司に恵まれたと真之介は思う。
    「空木先生も、どうぞ式までしばらくお休み下さい。ずっと立ち回っていただいて」
     真之介はそう勧めたが、そんな彼の目をじっと見つめてから、空木は難しい笑顔を見せた。
    「令子さんのことを心配されていますね?」
     空木が言った。
     なんというか、それは一足飛びに切り込んでこられたような気分を与える質問だったが、その通りであるため新婦側の人間は全員頷く。
    「ご心配なら、ぼくも表を見てきましょう。良く見知った方ばかりがいるより、令子さんの場合、あまり知らない人間がいた方が入りやすいということもあるかもしれませんから」
     空木の言葉に、真之介は慌てて止めに入った。
    「そんな、そこまで先生にしていただかなくても」
    「いえ、ぼくが気になっているんですよ。直哉くんも気にしています。直哉くんとあゆみちゃんには何も気がかりのない形で式を迎えてほしいですから……まあ、ぼくに何ができるかわかりませんが」
     空木の申し出に真之介は深く頭を下げた。
     

     本日の友人代表、河合ひとみさん(男性)は青灰色の気分を貸衣装の肩に漂わせて、式場である教会への道を歩んでいた。
     今日は十年来の友人同士の結婚式であり、めでたい日である。あまり不景気な気配は漂わせたくもないのだが、本日の花嫁は彼にとって、友人であると同時にいわば憧れの女性であったのだ。幸せを祝う気持ちはもちろんあるが、一抹の寂しさを感じるのはいかんともしがたい。「橘さん」が「橘さん」でなくなるのも寂しいことだった。
     ひとみは両手で頬を挟むようにぴしゃりと軽く叩いた。
     今日の新郎新婦は出逢ってからここまで、いろいろなことのあった二人である。そもそも出逢いさえ明るいものではなかったことをひとみは良く知っている。彼らが出逢うきっかけになった──なってしまった今は亡き友人の分まで自分が精一杯祝ってやらなくてはならないと、彼は思った。
     気を取り直してひとみは再び歩き始めた。教会はもうすぐそこだ。
     彼にしては珍しく、時間的には必要以上のゆとりを持ってきてしまった。このままいけば受付開始より早く着いてしまうだろう。
     似合わない(に違いないとひとみは信じている)礼服を着た新郎をからかいつつも祝ってやろうと思った。
     が、やがてすぐに彼は足を止めることとなった。
     教会を目前にした曲がり角で、なにやら挙動不審な人物がいたのだ。
     ひとみは思わず立ち止まりその相手を眺めてしまった。
     遠目には顔までわからないが長い髪の女性である。明らかに礼服とわかる明るい色のスーツを着て、曲がり角の直前で行ったり来たりを繰り返していた。たまに角ぎりぎりまで行って、その奥にあるはずの教会をのぞき込んだりしているようだが、すぐに顔を引っ込めてしまって、それ以上進む様子はない。
     ひとみは首を傾げた。
     女性は教会のある方へ顔を向けたり、うつむいたり、足を進めかけてはまた戻ってきたりとやたら忙しい。
     ひとみと同じように招待客が早く着きすぎてしまったのかとも思ったが、それにしても挙動不審だった。
     ひとみがしばらく見ていると、彼女は意を決したように──ひとみがいる方へと戻ってきた。
     はた、と二人は真っ正面から対峙する形になった。
     女性はひとみの姿を見てさっと顔色を変えた。何か悪いことをして見つかったような表情だった。
     ばつの悪さを感じたのはむしろひとみの方である。女性がいささか怪しげだったからとはいっても、じろじろと眺めていたのだから。
     女性は一瞬だけ立ち止まったあと、顔を隠すようにうつむいて、そのままひとみのいる方へ、つまり教会から離れる向きで足早に歩いてくる。ひとみも突っ立っているわけにはいかず、微妙に浮かない足取りを前に進めた。
     しかしながら、何となく、女性はひとみの記憶を刺激していた。歩き方や雰囲気が誰かに似ているような気もするし、どこかで見たことがある気もする。
     その女性がどういうわけか式場とは逆方向に歩いてくることも気になった。明らかに招待客という風情であるのに……。
     ひとみはつい、ちらちらと視線を送ってしまった。
     そうして、直線距離にしてあと3メートルというところになって、突如ひとみの脳裏にひらめくものがあった。
     以前、今日の新婦が複雑な家庭事情を少し話してくれたことがあった。その時に見せられた写真に、新婦の故人である母と目の前の女性の姿があったのだ。
    「橘さんのオネーサン!!」
     ひとみは思わず女性を指さして叫んでしまった。
     指を突きつけられた女性はびくりと足をすくめた。
     次の瞬間、彼女はぱっと音が聞こえそうなほどの勢いでひとみに背を向けた。
     これまでと逆方向へ彼女は小走りに駆けだす。
     礼式用のハイヒールを履いていることを思えば、それは「脱兎のごとく」と形容していいくらいの必死のスピードであったろう。
     反射的にひとみは令子を追いかけた。
     いくら逃げる当人が必死でもスピード自体はそれほど出ていない。それも混乱したらしい新婦の姉が向かった先はむしろ教会へと向かう道だった。
     
     

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