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小説・注意書き

    この作品には「消えた後継者」の明確なネタバレが含まれます。 
    「消えた後継者」本編の主要なエピソードが分かります。 
    クリア前の方は決してご覧にならないで下さい。

    この作品は、ストーリー全体の時代を2001年前後に設定してあります。 

足跡無き殺人者・前編


     

    序章
     昨夜の豪雨が嘘のように思える程、その日の朝は晴れ渡っていた。八束町の外れにある桂庵寺の墓地は、盆入りの日という事もあり、家族連れの姿が見受けられた。しかし、そんな家族連ればかりの中に、一人きりの若い男性、いや男性というよりはむしろ少年といった雰囲気の人物が、墓の前で神妙な面持ちでたたずんでいる姿が人目を引いた。少年の目の前にある墓には遠山家の墓という文字が刻まれていたが、その墓には二人の人物しか眠っていなかった。雨に濡れたその墓は周りの墓に比べると少し小さく、そして少しだけ汚れていた。
    「お父さん、お母さん、やっと、やっと会えました」
     少年はそう呟くと、持参してきた清掃道具を使い墓についた汚れを少しづつおとしていった。その墓は長年の間誰も訪ねる者がなかったのかなかなか汚れは落ちなかった。しかししばらくすると、その墓は元通りとまではいかないまでも見違えるほどきれいになっていった。
     少年はその状態に満足を覚えると墓の前で黙祷を捧げた。
     長い黙祷の後に少年は顔を上げ、話し出した。
    「僕は、お父さんとお母さんの子供です。そしてそれを誇りに思っています。でも、僕は高田直哉です。ばあちゃんが付けてくれたこの名前をこれからも名乗っていきます。お父さんとお母さんと僕とのつながりはこの体の中に流れています。でも、ばあちゃんと僕とのつながりはこの名前だけだから」
     彼はその瞳に彼の両親が仲むつまじく、優しい瞳で自分を見つめている姿が見えた気がした。そして彼の表情には自然と微笑みが浮かんできた。

    一章 謎の死因
    「それじゃあ、僕はもう行きます。また、・・・来るから」
     直哉は名残惜しい気持ちを振り切り、帰ろうと立ち上がった。すると突然、その場の雰囲気にそぐわない程の大きな物音が響きわたった。
     直哉がその物音の方向に目を向けると、背広姿の男が一人、走り去る姿が見えた。しかし、距離が少し離れていたため、その男の顔までは確認することができなかった。
     直哉は習性のように自分の腕時計に視線を落とす。時計の針は十時五分を指していた。彼は持ち前の好奇心から、その音のした方向へと石畳の上を足音をたてないように歩いていった。
     音のした場所は寺の裏手だったが、どうやら改修工事中らしく、境内のいたる所に木材が立てかけられていた。そして、目的地の寺の裏手はその材木が散乱していた。どうやら音の原因は立てかけていた材木が倒れた音らしい。
     その場所は寺の壁と外壁とで狭くなっていたが、倒れた木材のために人一人通り抜けることもできないようになっていた。
     直哉は初め、そのままその場を立ち去ろうかと考えた。ところが、ある一点で視線が釘付けになり、一瞬にして動きを留めた。
     直哉の視線の先には人の足がのぞいていたのだ。その様子からどうやらうつ伏せに倒れている事が見て取れ、その足はピクリとも動かなかった。その瞬間、直哉の脳裏にその人が倒れた材木の下敷きになったのでは?という考えがよぎり、慌てて駆け寄ろうとした。しかし、乱雑に散らばった材木にはばまれ近づく事はできなかった。
     仕方なく直哉はその人に声を掛け、何とか通り抜けられる場所はないかと、木材の前をうろうろと動き回った。その結果は思わしくなかったが、それでもどうやら材木の倒れている向こう側にいるらしく、下敷きにはなっていないということが見て取れ、ホッとした。しかしすぐに、その人物が倒れている事実を思い出し、全く動かない事実に、ぞっとした思いに駆られた。
    「何事ぢゃ?そうぞうしい」
     突然声を掛けられ、直哉は後を振り向いた。姿を現したのはこの寺の住職らしく、袈裟に身を包み、立派なあごひげを持った老人だった。彼はそれが自慢なのだろうか、あごひげをなでながらゆっくりと歩いてきた。住職は散乱した木材に一瞬眉をひそめたがそれについては何も言わなかった。
    「た、大変です。人が倒れています」
     突然現れた人物に向かい、直哉は何の前置きもなしにそう叫んだ。
     しかし直哉の言葉を、住職は理解できなかったように呆然としたがすぐに気を取り直し、
    「どこぢゃ?どこにおるんぢゃ?」
    「そこです」
     直哉は住職を人の足が見えるところまで導いた。
     住職はその足に瞳を吸い付けられたように微動だにしなかった。
    「向こう側からなら回れそうなんで、少し行って来ます」
    「お、おうそうぢゃの、わしも一緒に行くぞ」
     二人は寺の表をぐるっと回るようにして反対側にまわりこんだ。
     先に到着した直哉が地面を見ると、そこは昨日の雨でぬかるんでいたが、一組の足跡しか認めることはできなかった。そしてその足跡は片道分しかなかった。つまり帰りの分の足跡がなかったのだ。
     直哉は住職に足跡が一組しかないことを確認させてから一人でその男性、今では倒れている人物ははっきり男性だと分かった。男性は年の頃は三十後半、ラフな服装に身を包み、中肉中背といった体格だった。その男性に近づき、脈を取った。しかし、直哉はその男が生きていない事をすぐに悟った。
     直哉がもっとも興味をひかれたのは、その男性の胸に深々と突き刺さっているナイフだった。ただそれは、ナイフ自体に興味をひかれたと言うよりも、あまり出血が見られないことに疑問を感じたようだ。しかし、直哉はそれ以上現場に手を触れることを避け、警察に連絡をするために住職に電話の場所を聞いた。そして住職に現場に誰も近づけないように頼んでから、警察と、そして空木に連絡を取った。
     警察が来るまでに少し間があったので、直哉は住職に話を聞くことにした。
    「君は一体何者なんぢゃ?やけにこういうことに慣れているみたいぢゃったが」
     直哉が質問をするとまず、そんな質問を逆に受けた。
    「申し遅れました。僕は高田直哉と言いまして、私立探偵の助手をしているんです」
     住職は私立探偵と聞いて少し眉をひそめたが、すぐに元の表情に返った。
    「そうか、探偵さんぢゃったが、道理で慣れているはずぢゃ。わしは天田というもんぢゃ。この寺の住職をさせてもらっておる」
    「そうですか。それで、住職はあの男性のことを知りませんか?」
     天田は首を横に振ると、
    「残念ながら顔を見とらんのぢゃ。役に立てなくてすまんの」
    と言ったが、その目は何か落ちつか無げにきょろきょろと動きまわっていた。
    「そうですか、それなら何か物音とか不審な人物とか、そんなことには気付きませんでしたか?」
    「大きな物音はきいたが、どうやらあの木材が倒れた音らしいの。他には特に何も気づかなんだが」
     そんな話をしている間に警察がやってきた。直哉と天田が警察に死体の発見したいきさつについて説明している間に空木が現場に駆けつけた。
    「直哉君、一体どうしたんだい?」
    「先生、実は・・・」
     直哉が死体を発見するまでのいきさつを説明する間、空木は真剣な表情で直哉の言葉に聞き入っていた。
    「そうか、君の話は分かった。少し警察の話を聞いてくるから、君はここで待っているんだよ」
    「はい、先生」
     直哉は不満そうな表情で答えたが、空木は直哉に近づくと耳元で、
    「今日、君はせっかくの休みなんだから、事件になんかにかかわり合いを持たずゆっくりしていると良い。それと、警察の話を聞いたら君のご両親に挨拶させてもらうよ」とささやき、直哉の背中を一度強く叩いた。
     空木が警察の話を聞きに言っている間に、直哉はにわかに辺りに集まりだした人々に聞き込みをすることにした。
    「十時頃にこの辺で怪しい人を見ませんでしたか?」
     直哉は目についた人に片っ端から訪ねていったが、しかし、これといった話を聞くことはできなかった。
    「何してるんだい、直哉君」
     いつの間に警察との話を終えていたのか、空木は直哉の隣で微笑んでいた。
    「ゆっくりしておくように言っておいたのに、全く君は困った子だよ」
     空木はわざとらしくため息をついて見せた。
    「先生それで、あの人は誰だったんですか?」
    「一体何のことだい?」
     空木はわざとらしく首を傾げて見せた。
    「殺されていた人のことですよ」
    「ああ、彼のことか。どうしてそんなことを聞くんだい?」
    「どうしてって気になるじゃないですか。それとも僕には言えないんですか?」
     直哉の言葉に空木は困った表情を浮かべたが、観念したようにため息をつくと、
    「殺されたのは川辺けんすけ、今年で三十八歳、職業は今の所不明。死亡推定時刻は今日の午前八時頃、死因は絞殺じゃないかな。どちらも検死の結果を待たないと詳しいことは言えないけどね。今分かっていることはこんなとこだよ」と、真面目な表情を浮かべ、話し出した。
    「絞殺!?やっぱり刺殺ではなかったんですね。どうりで傷口からあまり出血していないと思いました。」
    「ああ、多分あのナイフは絞め殺した後に心臓に突き刺したんだろう。その理由はまだ分からないけどね」空木はここまで言うとがらっと雰囲気を変えて、
    「さあ、直哉君の両親の所に案内してもらおうか?」と、快活に言った。
     直哉は空木を案内し、今は両親の墓の前に立っていた。そして真剣な表情で墓に手を合わせる空木の横で、直哉は彼の表情から彼の考えを読み取ろうとした。しかし、空木の表情は風の無い湖の様に穏やかで、その心の中を読み取ることはできなかった。
    「どうかしたのかい、直哉君」
     空木は直哉の表情に気付いていつもの優しい微笑みを浮かべた。この微笑みを見ると、直哉はいつも初めて空木に会ったときのことを思い出す。
     その時直哉は、本当の両親を捜すために見知らぬ街をさまよっていた。不安にさいなまれ、家を飛び出したことを後悔しだした時、直哉と空木は出逢った。空木は初対面の直哉を理由も聴かず信じ、今と同じ様な微笑みを直哉に向けてくれた。最初に空木が私立探偵だということを聞いた時にはさすがに驚いたが、そのおかげでこうして両親の墓の前に立つことができたかと思うと、直哉は空木に感謝してもし足りない思いだった。
    「先生、ありがとうございます」
    「なんだい、やぶから棒に・・・。直哉君、警察の方には僕から言っておくから今すぐ事務所に戻ってくれないか?君が殺人事件に巻き込まれたと聞いてあゆみちゃんが心配してるんだよ。顔だけでも出して安心させたほうが良いと思うんだ」
    「分かりました。でも、先生はどうするんですか?」
    「僕かい?僕はもう少しここにいるつもりだよ。あ、それとあゆみちゃんにいつ帰れるか分からないから、もし遅くなっても心配しない様にって、そう言っておいてくれないかな?」
    「はい」
     そんなこと電話をすれば済むことなのに、無理に僕が事務所に帰る用事を作っているみたいだ。どうしてだろう?まるであまり僕にここに居てほしくないみたいだ。
     直哉はそんな疑問を抱きながらも、空木の言葉に従って事務所に帰ることにした。直哉は空木との長い付き合いから、彼が一度決めたことをそうそう覆すことがないということを知っていた。そしてその事に対しては、すでに諦めにも似た感情を持っていた。
    「それじゃ先生、気を付けて下さいね」
    「直哉君も気を付けて帰りなさい」

     直哉は事務所へ向かう電車の中で、まるでやっかい払いのように追い払われた理由について考えていた。
     先生の言ったとおり僕が今日、休暇を取っていたからだろうか?本当にそんな理由で追い返されたとは思えない。
     もしかして、僕が邪魔だったんだろうか?そんなことは信じたくない。確かに僕はまだ未熟者だけど、それでも先生と一緒にいくつもの事件に関わってきたし、一人で事件を解決したことだってあるんだ。例え役には立たなくても邪魔はしない事ぐらい分かってくれているはずだ。それじゃ一体どうして・・・。駄目だ考えても分からないや。先生が帰って来たら聞いてみよう、教えてもらえるかどうかは分からないけど。
     直哉は満足のいく説明が付けられず、納得もいかなかったが、電車が目的の駅に着いたので考えを一時中断する事にした。

    二章 空木探偵事務所
     直哉が事務所に戻るとあゆみが心配そうな表情で出迎えた。
    「一体何があったの?急に電話してきたと思ったら、慌てた声で先生に変わってなんて言うから何があったのかと思うじゃない。先生も何も言ってくれなかったし」
    「え?先生はあゆみちゃんに何も言わずに出てきたの?」
    「うん、ただちょっと行って来るって言って出て行ったわ。それで先生には会ったの?直哉君?直哉君!」
     あゆみは直哉が答えないので声を荒げた。
    「あ、ごめん、なんだっけ?」
    「もう、聞いてなかったの?先生には会えたのかって聞いたのよ」
    「ああ、そうだ、先生からの伝言で今日は遅くなるかもしれないから心配しなくても良いって言ってたよ」
     直哉の言葉にあゆみは不思議な表情を浮かべた。
    「どうしたの?」
    「うん、先生がそんな伝言をするなんて珍しいなと思って、だって先生が遅くなることなんていつもの事じゃない。現に昨日だって夜遅くまで帰って来なかったみたいだし、今朝だって私が事務所に来たときにはもういなかったのよ?」
     そういえばそうだ。僕もあゆみちゃんも先生が帰ってこないことなんて慣れている。それなのにそんな伝言を僕にさせたということは、やっぱり僕を事務所に帰す口実だったんだ。でも、どうして?まただ、結局いくら考えても同じ場所に戻ってしまう。
    「どうしたの、今日の直哉君、少し変よ。すぐに考え込んだりして、一体何が有ったの?」
    「それは・・・」
     あゆみは直哉の言葉に真剣に耳を傾けていたが、空木の不思議な行動について意見を求められると、
    「うーん、確かに先生らしくないわよね。それに、わたし達に簡単に分かる嘘をつくなんて変だわ。なにかに慌ててたのかも、そんな雰囲気は無かった?」
    「普段通りだったと思うけど、でも、そう言われればそうだったかも・・・」
    「どうしたのずいぶん頼りないわね、直哉君らしくないわよ」
    「そんなこと言われても、先生は僕に動揺を悟られる様な人じゃないよ」
     直哉は思っていることを素直に口にした。
    「それもそうね、直哉君に感情を悟られるようじゃあ探偵なんてやってれないものね」
    「そうそう、ってあゆみちゃん、もしかして僕のこと馬鹿にしてない?」
    「そんな訳無いじゃない、気のせいよ」
     空木に対する二人の信頼はかなり厚い。例え空木が二人に嘘をついていたとしても、それにはきっとそれ相応の理由がある、それなら打ち明けてくれるまで待とう、それが二人のたどり着いた結論だった。
    「あゆみちゃん、お腹空いてない?今から何か作ろうと思うんだけど」
    「あ、私が作るわ。直哉君は疲れてるでしょ?」
    「そう?それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
    「うん、そうして」
     そう言うとあゆみは事務所の億の台所へと入っていった。この事務所は空木と直哉の自宅と兼用になっているため、立派とは言えないまでも一通りの道具の揃った台所がついていた。
     あゆみちゃんの手作りか、いったい何を作ってくれるんだろう?
     直哉がわくわくしながら待っていると、突然事務所の電話が鳴った。
    「はい、空木探偵事務所ですが」
     直哉が受話器を取ると聞き覚えのある声が聞こえてきた。
    「ああ、その声は高田君だね?こちらは丸山だけど、分かるかい?」
    「あ、丸山刑事、先生に何か御用ですか?」
    「ああ、空木さんにちょっと変わってもらえるかな?」
    「すいません、先生は今ちょっと出かけているんです」
     直哉は机の上のメモ用紙を引き寄せ、ペンを握った。
    「そうか、残念だな、それなら先生に伝言願えるかな?」
    「はい、どうぞ」
    「以前にお知らせした件について、新たに分かったことがあるので来てもらえますか?遠山たかおの件についてです。そう伝えておいてくれるかな?」
     直哉はメモ用紙の上にペンを走らせていたが、丸山刑事の口から遠山たかおと言う名前が出るとピタッと手の動きが止まった。
    「ちょ、ちょっと待って下さい。今、遠山たかおと言いましたか?」
     直哉はペンを机の上に転がし、受話器を両手で持ち直した。
    「ああ、そう言ったが、それがどうかしたかい?」
    「その話、僕に聞かせてもらえませんか?」
    「そりゃ、君に伝えるのも空木さんに伝えるのも大差無いとは思うからかまわんが、どうしたんだい、急に?」
    「い、いえ、きっとその話、僕に関係があると思うんです。今すぐにそちらにうかがっても構いませんか?」
    「それは構わないけど・・・」
    「ありがとうございます。これからすぐにうかがいます」
     直哉は丸山の言葉を最後まで聞かずに受話器を置いた。
    「あゆみちゃん、ちょっと出てくるよ」
    「ちょっと直哉君、ご飯できたわよ、これどうするのよ?」
    「ごめん、残しておいて、帰ってきてから食べるから」
     直哉はそう言い残すと事務所を飛び出していった。
    「もう、せっかく一緒に食べようと思ったのに」
     あゆみの呟きは直哉の耳には届かなかった。

    三章 遠山たかお
     直哉は丸山刑事に面会を求めた。話は通してくれていたのか名前を名乗るとすぐに案内してもらえた。
    「やあ高田君、早かったね。それにしても空木さんといい君といい、この事件にどうしてそんなに興味を持っているんだい?事件自体はありふれた、全くと言っていいほど疑問の余地のないものだと、私は思うがね」
    「それで、どんな事件だったのか、教えてもらえませんか?」
     直哉は丸山刑事の言葉も聞こえていないのか、挨拶もそこそこにそんなセリフを放った。
    「その為に君は来たんだからね、教えてあげるよ」
     丸山刑事はそんな直哉の様子を不思議に思いながらも話し出した。
    「先ず初めに言い訳をさせてもらうとこの事件は僕が担当した訳じゃないから詳しいことは知らないんだ。でも、担当だった刑事が僕の知り合いでね、この刑事は佐々木というんだが、彼にはその当時から何度かこのことについて話を聞いていたから、少しは知っているんだよ。じゃあ、事件のことについて話すよ。
     事件の起こった日は今から十七年前の八月十三日、一人の男性が四人の男性に絡まれていた。
     そういうことが行われていても見て見ぬフリをする人が多いんだ、悲しいことにね。ところが遠山たかおは違った。
     正義感が強かったんだね、四人が一人に向かってよってたかって暴力を振るうのを許せなかったんだ。それは警察の取り調べでも証言している。いや、こういう人物が犯罪者として扱われるのに深い憤りを覚えるね、私は」
    「犯罪者ですか」
    「あ、いや少し話がそれてしまったね、遠山たかおは襲われていた男性を助けに入った。そして四人のうちの一人が取りだしたナイフで、誤って相手の心臓を刺して殺してしまった。
     殺人事件だからね、もちろん警察としては遠山たかおを逮捕しなければならなかった。
     正当防衛が認められるとみんな思っていたよ。遠山たかおは好青年でね、彼に同情しない人はいなかったよ。事実、さっき話した佐々木という刑事も同情して、彼のために尽力していた。しかし、結局彼は殺人者として投獄されてしまったよ」
    「あの、死んでしまった人はどういった人だったんですか?」
     直哉は感情を抑えた声で尋ねた。
    「近所でも評判の不良、その当時にはすでに未成年では無かったので不良とは言わないかもしれんね、しかし、そう言った人物と思ってもらって構わないと思うよ。
     名前は黒部としお当時二十一歳、地元の名士の息子だよ。この人物について話すことはこれ以上無いよ。ただ言えることは死んだ人間がこの男だったことが遠山にとっての不幸だったという事だね」
    「それで、襲われていた人は?」
    「ああ、その男性は西村こういちと言って現場近くの会社員だったんだが、遠山たかおが助けに飛び込んですぐに逃げていった。薄情なもんだよ。
     取り調べの時には遠山に悪いことをしたと言ってはいたが、一度も遠山に面会にも行かなかったらしい。遠山も報われない事をしたもんだ」
    「でも、とう、遠山さんは後悔していなかったと思います。そこで助けなかったほうが後悔したんじゃないでしょうか」
     丸山は直哉の言葉に頷いて、
    「私もそう思うよ。しかし、彼は犯罪者として記録が残ってしまった。それは変えようのない事実だ。それによって家族がどんな思いをしたかと思うとね」
    「家族・・・」
    「彼には妻と、まだ小さな子供が一人いたんだ。
     妻と子供の名前は資料として残っていなかったから分からないんだが、子供の方は生きていれば君くらいの年齢だね。
     妻と息子がどうなったかは分からない、とここまでを以前空木さんに伝えていたんだが、妻の消息と言っていいのかどうか、その後が分かったので伝えようと今日連絡を取ったという訳なんだよ」
    「その女性はすでに亡くなっているんですね?」
     直哉は喉から絞り出すような声で呟いた。
    「おや、知っていたのかい?ああ、私の言い回しからそんな気がしたんだね?その通り、十六年前に火事でね、放火だったようだけど、犯人の特定はできなかった。多分黒部の仲間だろうということが当時の見解だったのだが、それは間違えていないと私は思うよ」
    「黒部の仲間というのは?」
    「そうそう、この事はもう空木さんには話しているんだけどね、いつも黒部とつるんで悪さをしていた奴等だよ。内藤まさひこ、岸上やすし、川辺けんすけ、この三人と黒部を加えた四人が西村に暴行を働いていたんだね。放火犯もきっとこの三人の中に、もしくは三人ともかもしれんが、この中にいるとおもうよ」
     川辺けんすけ・・・、何処かで聞いた名前だ。何処だったか、つい最近聞いた様な気がする。・・・そうだ今日僕が死体で発見した男の名前も確か川辺けんすけだったはずだ。偶然だろうか?
     直哉の心の中に少しづつそんな疑問が生まれてきた。
    「丸山さん、川辺けんすけと言う人物は事件当時何歳だったんですか?」
    「黒部と同じ二十一歳だが、それが何か有るのかね?」
    「実は・・・」
     直哉は丸山に今朝あった事を説明した。
    「ふむ、年齢的には合ってるようだね。しかし、それだけではまだどうとも言えんよ」
    「けど、昨日は八月十三日、十七年前に丁度事件のあった日ですから、何か暗示的だとは思いませんか?」
    「ふむ、本当だね、確かにそうだ。少し興味深いね。そうだね、僕の方でも少し調べてみよう」
     丸山は考え深げに頷いた。
    「お願いします」
     直哉の言葉に丸山はニッと微笑んだ。
    「他に何か聞きたいことは?」
    「そうですね、どうして西村は黒部達に暴行を受けたんですか?」
    「さあ、それがはっきりとは分からんのだよ。四人、正確には三人だね、三人が言うにはただ気にくわなかったと、そう言っていたが、あり得ない話ではないね、あの四人なら。
     彼らは過去にも何度かそういう事件を起こしていたからね。しかし、そのどれもが黒部の父親の力でもみ消されていたよ。
     残りの三人は黒部が死んでから一度もそう言った事件を起こしていない。残念だよ。もし何か事を起こしていれば捕まえることができたのに。
     そこが奴等の卑怯で狡賢いところだね。まあ、無抵抗の人物を複数人で襲う時点で卑怯なことは分かっていたが」
     丸山は少しづつ怒りがこみ上げてきたのか言葉が震えてきた。
    「ありがとうございます。これで失礼します」
    「ああ、それにしてもやっぱり不思議だね、空木さんといい君といい、この事件についてそこまで熱心に話を聞くからにはそれ相応の理由があるんだろうけど、私にはその理由がさっぱり分からないよ」
     丸山刑事の言葉に直哉は悲しい微笑みで答えた。

    「ただいま」
     直哉は事務所に戻ってきた。
    「おかえり」
     あゆみの返事に刺のような物を感じ、直哉は体をビクッと震わせた。
    「うん」
     直哉は恐る恐るあゆみの表情をうかがった。
     あゆみはそんなことには目もくれず、無言で事務所の奧の台所になっている部屋にはいると、ばたんと大きな音をさせて扉を閉めた。
    「僕、何かあゆみちゃんを怒らす様なことしたかな?」
     直哉はしかしすぐにそんなことは忘れ、ソファに浅く腰掛けると推理に没頭し始めた。
     丸山刑事の話からすると先生は遠山たかおの事件を知っていたらしい。それもわざわざ丸山刑事に頼んで調べてもらっていたみたいだ。先生がこの事件に興味を持ったのは僕のためだということは自信を持って言える。あの事件には先生の興味を引くようなことは他に何もない。それは丸山刑事も言っていた。
     川辺けんすけ、僕が死体で発見したあの男性は十七年前の事件と何か関係があるのだろうか?
     待てよ、先生は十七年前の事件のことを知っていた。そして、川辺けんすけの存在も。もし、今日僕が見つけた死体の男と十七年前の事件の男が同一人物なら、僕を無理矢理にでも事務所に帰した理由になるんじゃないか?
     どうだろう、やっぱり理由にはならないか。でも、どうして先生は十七年前の事件について調べていることを僕に言ってくれなかったんだろう?
     やっぱり分からないことが多すぎる。
     直哉の思考はしかし空腹という生理現象に妨げられた。
    「そういえばあゆみちゃん、ご飯残しておいてくれてるかな?でも、さっきの様子じゃ期待できないか」
     直哉は立ち上がるとあゆみの入っていった扉に向かって歩き出した。
    「え?」
     直哉は扉を開けるとそんな素っ頓狂な声を上げた。扉の向こうには美味しそうな料理が並べられており、そしてその料理が冷たくなっていないことを示す湯気が立ち上っていた。
    「あ、あゆみちゃん、これ僕のために?」
    「そうよ。直哉君出ていくときに言ったじゃない、帰ってきてから食べるって」
    「でも、あゆみちゃん怒ってるみたいだったから、てっきり残してくれていないとばっかり」
     直哉はしどろもどろになりながら言い訳した。
     あゆみは嬉しそうに笑っただけでそれについては何も言わなかった。
    「しかもわざわざ温め直してくれていたんだね」
    「うん、だって、冷めちゃうと美味しくないでしょ?」
     直哉はあゆみの心遣いに深い感謝をしながら、空腹を満たしていった。
    「で、何処にいっていたの?」
     あゆみは直哉の向かいに腰を下ろしていたが、体を前に乗り出して尋ねた。
    「うん、実は・・・」
     直哉は受けた電話の内容から全てをあゆみに説明した。
    「先生、そんなことを調べていたんだ・・・」
     そう呟くと共に、あゆみは深く考え込んでしまった。
     直哉はあゆみの用意した食事をきれいに平らげた。
    「あれ、食べ終わったの?」
    「うん。おいしかったよ、ありがとう」
    「どういたしまして」
     あゆみは嬉しそうに微笑んだ。
     直哉は立ち上がり食器の後片づけを始めた。
    「あ、片づけぐらい私がするわよ」
    「いいよ、あゆみちゃんは何か考えごとがあるんだろ?あゆみちゃんには美味しい食事も作ってもらったし、これぐらいは僕がするよ」
     直哉は食器を流し台に運び、食器を洗い始めた。
    「ねえ、直哉君」
    「ん?なに?」
     直哉は洗い物を続けながら返事をした。
    「これからどうするの?」
     直哉は洗い物の手を止め振り向いた。
    「え、何?」
    「ううん、なんでもない」
     あゆみはそんな言葉でその場を濁すと、突然全く関係のない話を始めた。直哉も深くは追求せずその会話に興じた。しかし、二人の思考はそんな会話に向けられてはいなかった。
    「あ、もうこんな時間だ、あゆみちゃん送っていくよ」
    「・・・」
    「あゆみちゃん?」
    「あ、ごめんなさい・・・」
     しかしあゆみは上の空のように黙り込んだ。
    「どうしたの?」
     直哉は心配そうに尋ねた。
    「実は、直哉君が出ていっている間に先生から電話があったの」
    「先生から?」
     あゆみは頷いた。
    「それでね、直哉君はいるかい?って聞くから、どこかに出ていきましたって答えたの。ほら、その時私は直哉君が何処に行ってたか知らなかったから。それでね、先生、今回の件は自分一人で調べるから直哉君は手伝わなくてもいいって直哉君に伝えて欲しいっていうの。
     その話を聞いたときにはあまりなにも思わなかったんだけど、直哉君の話を聞いた後に考えると、多分、ほんとに多分よ、ただの想像だから。でも、きっと殺された川辺けんすけは黒部としおの仲間だった男なんじゃないかと思うのよ。だってそうじゃないと直哉君を調査からはずす必要はないもの」
    「どうして?僕がはずされる理由が分からないよ」
    「そんなのは簡単よ。直哉君が感情的にならず正常な判断ができるかどうか、それが分からないからしか考えられないわよ」
     あゆみは直哉から目をそらした。
    「そんな・・・」
    「じゃあ、もしその人達に会ったとき冷静でいられると言い切れる?できないでしょ?だから先生は直哉君にこの事件に関わって欲しくないのよ」
     あゆみは真剣な表情で直哉を見つめた。そして悲しそうな光を瞳に浮かべた。それはその指摘があゆみにとって辛いことであることを表していた。
    「分かったよ。でも、今日はもう遅いからあゆみちゃんは帰った方がいいよ」
     直哉は空木に信頼されていないかもしれないということに大きなショックを受けていたが、それを表に出さないように努めた。そして、それは表面的には成功しているように見えた。実際はあゆみには直哉が無理をしていることが分かっていたが、わざと気付かない振りをした。
    「それじゃあ私はそろそろ帰ることにするね」
     二人はお互いに不自然な微笑みを浮かべて別れた。
     直哉はその後、何も考えることができなかった。そして眠りについたのはその日もかなり遅くなってからだった。

    四章 足跡無き殺人者
     しまった寝坊した!
     直哉は枕元の時計を見て慌てて飛び起きた。そして寝室と事務所を隔てる扉を勢い良く開いた。
    「おはよう、直哉君」
     そこにはすでに事務所に出てきていたあゆみの姿があった。そして、受話器を持って話している空木の姿が見えた。
    「おはよう」
     直哉は恥ずかしそうに答えると空木の姿を眺めた。多分帰ってきた所なのだろう、空木は昨日と同じ服装をしていた。
    「私も事務所に住まわしてもらおうかしら、そうすれば寝坊しても平気だものね」
     直哉はそんなあゆみのせりふに苦笑いを浮かべた。
    「先生は誰と電話しているの?」
    「多分警察の人だとは思うんだけど、知らないの。今日初めての方だったから」
    「ふーん、なんていう人?」
     直哉は特に何も考えず、そんな質問を口にした。
    「佐々木さんっていう人だったけど、直哉君知ってる?」
    「佐々木?知らないなあ」
     その言葉を直哉は無意識のうちに呟いていたが、その瞬間、
    『・・・担当だった刑事が僕の知り合いでね、この刑事は佐々木というんだが・・・』という、昨日の丸山刑事の言葉が頭をよぎった。
    「佐々木!?」
     直哉は大声を出したことに気付くとすぐに声を潜めて、
    「もしかして、遠山たかおの事件の担当だった刑事かもしれない」
    と、あゆみに告げた。あゆみも直哉をまねて声を潜めると、
    「そうなると、昨日殺された川辺という男の人と、黒部の仲間だった男性とが同一人物の可能性がますます強くなわね」
     直哉とあゆみがそんな話をしている間に、空木は電話を終えたらしく、二人の様子を不思議そうに見ていた。
    「二人してなんの相談だい?」
    「いえ、なんでもありません」
     直哉の言葉に空木はくすくすと笑い、
    「僕には内緒の話かい?言っておくけど、所内恋愛は禁止だよ」
    「そんな話じゃありません」
     あゆみがきっぱりと否定する。空木は意外そうな表情を浮かべて、
    「おや、違ったのか。僕はまたてっきり・・・」
    「てっきり、なんです?」
     空木は直哉に視線を向けると、一度口を開いたが、そこから言葉は漏れず、再びその口は閉じられた。そして再び開かれたときには、
    「いや、やっぱり止めておくよ」と答えただけだった。
    「じゃあ、僕はちょっと出てくるよ。直哉君、昨日あゆみちゃんにも言ったけど、この件は僕だけで調べるからね」
     空木はそれだけ言うと直哉に言葉を挟む暇も与えずに事務所を出ていった。
     直哉は何も言わずにその姿を見送った。そして、そこにまるで何かがあるように空木の出ていった扉をじっと見つめていた。その瞳に悔しそうな色を浮かべながら。
    「ねえ、直哉君」
    「え?」
     直哉はまるで今まであゆみの存在に気付いていなかったような声を上げた。
    「直哉君は、今回の事件に興味がある?」
    「当たり前だよ、今までこれほど興味を引かれたことはないよ」
    「じゃあ、先生に内緒で調査してみる?」
     直哉はあゆみの言葉に一瞬驚いた顔を浮かべたが、
    「それは無理だよ、僕は何も知らないんだ。川辺が何処に住んでいたか、どんな職業に就いていたか、そんなことすらも知らないんだよ」
     あゆみはそれを聞くと嬉しそうな笑顔を見せ、
    「こういうものがあるんだけど」
    と、一枚のメモ用紙を直哉の目の前でひらひらと振って見せた。
    「それは?」
    「内藤まさひこと岸上やすし、それに殺された川辺けんすけの住所と職場を先生がメモしていたから写しておいたの」
     直哉は初め、あゆみの言葉の意味が理解できないようにぽかんとしていたが、はたと正気を取り戻すと、あゆみちゃんありがとう、という言葉と共にいきなりあゆみに抱きついた。
    「ちょ、ちょっと直哉君!?」
     あゆみが意表を突かれ、正常な判断ができないでいる間に、直哉はあゆみの手から紙をひったくり、そのまま事務所を飛び出していった。あゆみに、行って来ます、という言葉を残して。
     事務所に残されたあゆみはしばらくの間呆然としていたが、正気を取り戻すと「ほんとにもう!」と顔を真っ赤にして呟いた。

     直哉は八束町の外れにある桂庵寺を訪れ、死体を発見した場所に向かった。
    「あれ、木材が、片づけられている」
     直哉は昨日は木材の下敷きになり、見ることのできなかった位置を眺めたが、何も発見できるようなものはなかった。ただ、捜査陣のものと思われる足跡がいくつか残っていた。直哉はその様子に少し違和感を覚えた。
    「もう、何もないか」
     直哉は元々、何かを発見する期待はほとんど持っていなかったが、それでも少し残念に思いながら呟いた。
    「こりゃ、何をしておる!」
     直哉がかがみ込んで現場を調べていると突然言葉を掛けられた。直哉が声のした方向に顔を向けると、そこには天田和尚の姿があった。
    「ん?おお、昨日の。どうじゃ、何か新しいことでも分かったかの?」
    「いえ、実は、今回は僕一人で調べることになりまして、まだ何も分かっていないんです。できれば、少しお話しをお聞かせしてもらってもよろしいですか?」
    「そりゃかまわんが、何か役に立てることがあるかのお」
     天田はあごひげを撫でながら歩み寄ってきた。
    「昨日も聞きましたが、十時前後に怪しい男性を見ませんでしたか?」
    「いや、特にだれも見んかったぞ」
    「被害者の男性、川辺けんすけについては何か知りませんか?」
     住職は一瞬何かを言おうと口を開いたが、思い直したように無言で首を横に振った。
    「木材は片づけたんですね」
     直哉は特に深い考えを持たずにそんなことを聞いた。
    「うむ、それが不思議なことがあるんぢゃ」
    「不思議なこと?」
     直哉の言葉に住職は重々しく頷き、
    「足跡が片道分しかなかったことは覚えておるか?ふむ、その様子だと覚えておるの、それがの、わしはてっきりあの木材の下に足跡があると思っておったんぢゃ。ところが・・・、無かったんぢゃ。足跡が全く」
    「そんな!じゃあ、犯人はどうやって逃げたんですか?」
    「それが分からんのぢゃ。それに、あの時ついていた足跡は被害者のものぢゃった」
    「ということは、犯人の足跡は全く無かったんですか?」
    「そう言うことぢゃ」
     どういうことだ?足跡がなかったなんて・・・。犯人は空を飛んででもいたというのかそんな馬鹿な・・・。その時、先程感じた違和感の理由が分かった。捜査員の足跡の様子に、犯人の足跡を保存しておこうとする様子がなかったのだ。それも、保存するべき足跡がなかったのなら当然だと思えた。
     ん?もうすぐ昼だ、先生から何か連絡が入っているかも知れない一度事務所に戻った方がいいかな、直哉がそんな考えを持った時、
    「わしが知っておるのはこの程度ぢゃ、すまんの、あまり役に立てんで。しかし、足跡を全く残さないとは、まるで幽霊のような犯人ぢゃの。ん?そういえば昨日は丁度、盆の迎え日ぢゃ。霊が犯行を行うにはぴったりの日かもしれん」
     天田はそれだけ言うと直哉をその場に残して去っていった。
    「幽霊・・・」
     呟いた直哉の目には墓地が写っていた。
     直哉は一度身震いすると桂庵寺を後にした。

    「ただいま、あゆみちゃん、先生から何か連絡はなかった?」
    「ううん、なかったわよ。何かあったら直哉君の携帯電話に知らせるからその事については心配しないでいいわよ」
    「あ、そうか、そういえば携帯電話を新しく買ったんだった」
    「それで、何か分かった?」
     直哉はあゆみに天田和尚の話を伝えながら推理を始めた。
     天田和尚は死体発見現場には逃げていく足跡はなかったと言っていた。雨が降った時刻は一昨日の夜から昨日の朝六時頃までだった。そして、川辺の死亡推定時刻は・・・昨日の八時頃だ!つまり、どうしたって足跡を残さずに逃げる事なんてできる訳がない。現に被害者の足跡は残っている。じゃあ、どうやって犯人は逃げたんだ?いや、それよりもどうやって犯人は川辺を殺したんだ?
     そうだ、その前にどうして川辺はあんな時間に桂庵寺に行ったんだろう?一度川辺の家族に話を聞いてみる必要があるかな、よし、今から行ってみよう。
    「あゆみちゃん、ちょっと行って来るから先生から何か連絡があったら上手くごまかしておいてね」
    「うん、まかせておいて。でも、幽霊が犯人だなんて、ぞっとしないわ」

    五章 隠密捜査
     直哉はあゆみの教えてくれた川辺の住所の近くに来ていた。
     どうやら川辺は実家の仕事を手伝っていたらしい、職場と家の住所が同じだった。彼の実家はこの街で古くからあるスーパーマーケットらしく、道行く人にカワベスーパーは何処ですか?と尋ねるとすぐに教えてもらえた。
     直哉は店が閉まっているのではないかと危ぶんでいたが、店の前に立つとその危惧が徒労に終わったことが分かった。店はきちんと営業していた。
    「すいません」
    「はい、何をお求めですか?」
     直哉が声を掛けると若い女性が返事をした。
    「いえ、買い物に来たんじゃないんです、店長に会いたいんですけど」
    「店長は今ちょっと・・・」
     女性は言葉を濁す。
    「そうですか、そうですね、今はそれどころじゃないですよね」
     直哉の言葉に女性は驚いた表情を浮かべ、
    「あの、もしかして警察関係の方ですか?」
    「いえ、探偵なんです」
    「探偵?でも、けんすけさんのことを調べているんですよね?」
    「ええ、できれば少し話を聞かせてもらってもいいですか?」
     女性は覚悟していたのか頷いたが、その顔色は真っ青だった。しかし、その瞳には興奮と興味の色がありありと浮かんでいた。多分初めて探偵という職業の人物を見たのだろう。
    「まず、あなたのことを教えてもらえますか?」
    「は、はい。私は大島美佐子といいまして、ここでアルバイトさせていただいているものなんです。ア、アルバイトを始めてだいたい一年経ちました。だ、大学生です」
    「そんなに緊張しなくてもいいですよ。別にあなたを疑っている訳ではありませんから、気を楽にして、話して下さい」
    「は、はい」
     美佐子は落ち着こうと胸に手を当てて、大きく息を吸い込んだ。
    「もう大丈夫です」
     直哉が見る限り、それほど落ち着いた様には見えなかったが、話を聞くには支障はないと判断した。
    「大島さん、川辺けんすけさんのことについて少し教えてもらえますか?」
    「はい。でも、何を話せばいいのか・・・」
     美佐子は困ったように黙り込んだ。
    「そうですね、けんすけさんはここで働いていたんですよね?」
    「はい。一応はそうです」
    「一応?」
    「あ、いえここで働いていました」
     直哉が聞き返すと美佐子は慌てて言い直した。
    「そうですか、では、彼が殺されるような理由に心当たりはありませんか?」
    「全く、ありません」
    「本当ですか?」
     直哉が聞き返すと美佐子はおびえたように何度も首を縦に振った。
    「?・・・
     大島さん、何かを知っているんなら話した方がいいですよ」
    「なにもしりません!」
     美佐子は意地になったように声を荒げた。そして周りの視線が自分に集中していることに気付くと恥ずかしそうにうつむいた。
     直哉はこれ以上この事について尋ねても何も答えてもらえないと考え、話を変えることにした。
    「最近のけんすけさんの様子で変わったことはありませんでしたか?例えば何かにおびえているとか、急に羽振りが良くなったとかそういったことは?」
    「ありませんでした。・・・と思います」
     直哉は美佐子の言葉に引っかかりを感じた。
    「というのも私とけんすけさんとはそれ程親しく無かったものですから」
     美佐子は直哉の表情に気付くと慌てて付け加えた。
    「それじゃ、けんすけさんがあんな場所に行った理由を何か知りませんか?」
     美佐子は表情を硬くすると怯えたように今度は首を横に振った。
    「大島さん?やっぱり何か知っていますね?」
    「何も、知りません」
     美佐子は首を何度も横に振り、喉の奥から絞り出したような、蚊の泣くような声で答えた。
    「そうですか、それでは、けんすけさんと親しかった人物は知りませんか?」
    「いえ、親しかった人といわれても・・・」
    「奥さんとか、恋人は居られなかったんですか?」
    「はい、けんすけさんは独身ですし、誰かと付き合っていたという話も聞いたことはありません。多分結婚をしたこともないと思います」
     直哉は、これ以上彼女に話を聞くことを諦めた。多分何も語ってはくれないだろう。
    「そうですか、お仕事中にありがとうございます。あの、僕がいろいろと捜査していたことを警察やその関係者には言わないで欲しいんですけどお願いできますか?」
     美佐子は直哉の申し出に首を傾げたが、はい、と首を縦に振った。
    「ありがとうございます」
     直哉は礼を言うとその場所を後にした。
     美佐子は不安そうに直哉の後ろ姿を見つめていた。

     直哉は内藤まさひこの家を訪ねようと考えた。しかし、内藤の家がすぐ間近に迫ったときその家の前に一台の車が止まっているのが見えた。そして、その車から降りてくる空木の姿が見えた。
     直哉は空木に見つからないようにその場を離れた。

     次に直哉は岸上やすしの職場に向かうことにした。
     そこは直哉ですらも名前を知っている一流企業だった。その会社のビルの前に立ったとき、直哉は入っていくことに躊躇した。しかし、意を決してビルの中に入っていくと入り口に立つガードマンらしき男に止められた。
    「すいません、岸上やすしさんにお会いしたいんですが」
     直哉はその男性にそれだけを伝えた。
    「ほう、岸上やすしさん?いったいどの部署の方ですか?」
    「それは・・・」
    「では、アポはおとりですか?」
    「いえ・・・」
    「残念ですが約束のない方をお通しする訳にはいきません。どうぞ、お引きとり下さい」
    「分かりました・・・」
     直哉はあっさりと諦めると引き返した。ここで無駄に騒ぎを起こし、自分が捜査していることを警察や空木に知らせるよりは、ここは引き下がる方が懸命だと考えたからだった。

     直哉が事務所に帰る途中、あゆみから携帯に電話が掛かってきた。
    「どうしたの、あゆみちゃん?」
     直哉がたずねるとあゆみは慌てた声を出した。
    「直哉君、先生から直哉君に電話が掛かってきたの、これは私の携帯から掛けてるんだけど、今から事務所の話し口と私の携帯の聞き口とを合わせるから、直哉君は事務所にいるフリをしてくれる?直哉君はトイレに行っていたって事にしてるから」
    「分かったよ」
    「それじゃ二つ数えたら話し出して」
     あゆみの声はそれ以上聞こえなくなった。
    「もしもし、直哉です。先生どうしたんですか?」
    「ああ、直哉君かい?実は今警察に居るんだけど、直哉君に話を聞きたいそうなんだ。悪いけど、今からここまで来てくれないかな?」
    「今からですか?分かりました。でも、一体どこに行けばいいんですか?」
    「うん、それは・・・」
     空木は直哉にある警察署の名前と住所を告げた。
    「多分事務所からだと二十分とはかからないと思うけど、少し余裕を見て三十分後に来てくれるかな?」
    「分かりました。それで先生、捜査に進展はありましたか?」
    「いや、目立った進展はないよ。それじゃ待ってるからね」
     空木が電話を切る音が聞こえた時直哉はホッとした。何か外にいると思われる音が空木に聞こえるのではないかとひやひやしていたからだった。空木の様子だと、どうやらそれらしい音は電話には入らなかったらしい。それからしばらくしてあゆみが電話に出た。
    「ありがとう、あゆみちゃん、助かったよ」
    「うん、それよりも先生の用事はなんだったの?」
     直哉はあゆみに空木との電話の内容を説明した。
    「じゃあ、私が警察署の位置を地図で調べるから、後で電話を掛け直すわ」
    「うん、頼むよ」
     直哉は電話を切ると最寄りの駅へ向かって歩き出した。そして駅に着いた頃にあゆみから直哉の携帯電話に再び電話がかかってきた。あゆみから警察署の詳しい位置を聞くと電車に乗り込んだ。

    「結構早かったね」
     警察署の受け付けで空木の名前を出すとすぐに空木が顔を出した。そして、初めて見る男性が空木の後について現れた。
    「こちらは佐々木刑事、今回の事件の担当だよ」
     佐々木は直哉とおきまりの挨拶を交わした後、直哉を一つの部屋に連れていった。そこは隣の部屋がマジックミラーで見ることのできる部屋だった。隣の部屋ではやはり直哉の見たことのない男性が椅子に座り、不安そうにきょろきょろと辺りを見回していた。
    「事件の日に現場から逃げていったのはこの人ではありませんでしたか?」
     佐々木刑事は唐突に話を始めた。
    「すいません、距離が遠かったので顔は見ていないんです。ただ、この人だとは言い切れませんが、この人ではないとも言い切れません」
    「つまりこの男性の可能性もあるということですか?」
     直哉は一度頷いた。
    「はい、でも、この人は一体どなたなんですか?殺された男性と何か関係がある人なんでしょうか?」
    「残念ですが、君にそれを教えることはできません。もう用事は終わりです。帰っても結構ですよ」
    「そうですか、でも、せめて名前だけでも教えてもらえませんか?」
     直哉は佐々木の稟とした態度に少し気後れしながら尋ねた。
    「西村こういち」
     突然今まで壁に背を持たせ掛け、沈黙を守っていた空木が声を挟んだ。
    「え?」
    「彼の名前だよ。西村こういち、これで満足かい?」
    「はい、ありがとうございました」
    「じゃあ、そろそろ事務所に帰った方がいい、僕はもしかしたら今日は帰らないかもしれないけど、心配しないでいいよ」
     直哉は空木の言葉に従い事務所に戻ることにした。

    「ただいま」
    「おかえり、疲れたでしょ?お茶でも入れるね」
     直哉はあゆみに礼を言うと推理を開始した。
     どうして先生は僕に西村こういちの名前を教えたんだろう?先生は僕にあまり捜査をして欲しくなさそうだった。それなのに僕に情報を教えるなんて。
     美佐子と話をした。彼女は川辺のことを何か知っている。しかし川辺との仲はそれ程親しくはなかったみたいだ。美佐子は川辺のいったい何を知っているというのだろう?
     先生達は今回の事件と十七年前の事件には何かつながりがあると考えているらしい。何を根拠にそう思ったんだろう?
     川辺の殺害現場に行ってみた。天田和尚の話からすると現場には犯人の足跡がなかったらしい。あの場所に足跡を残さずに川辺を殺すことはどう考えても不可能だ。
     そういえば天田和尚が言ってた、
    『・・・足跡をまったく残さないとは、まるで幽霊のような犯人ぢゃの』
     ばかばかしい、幽霊が人を殺すなんてことある訳がない、しかも紐を使って絞め殺すだなんて。
     しかしその考えはいくら振り払おうとしても直哉の頭から離れることはなかった。

     次の日、直哉は扉を乱暴に叩く音に目を覚ました。
    「うーん、なんだろう、こんな朝っぱらから」
     直哉が時計を見ると、彼が普段まだ寝ている時間だった。
     直哉はやっとの事で起き出すと、事務所への扉を開いた。最初に彼の目に飛び込んできたのは空木が玄関の扉を開く姿だった。昨日は結局帰ってきていたらしい、直哉がうっすらとそんなことを考えていると次の瞬間、開いた扉から数人の男性が部屋に飛び込んできた。そして後からゆっくりと姿を見せたのは佐々木刑事だった。そして佐々木刑事の口から驚くべき言葉が発せられた。
     直哉は最初、聞き間違えではないかと自分の耳を疑った。しかし、何度思い返しても他に考えようがなかった。佐々木刑事はこう言った。
    「空木俊介、あなたを川辺けんすけ及び内藤まさひこ殺害容疑で逮捕します」
     
     
     

    足跡なき殺人者(後編)に・・・つづく
     

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