menu<渦 前編>
ひどく、脆い。
急に上がった気温と、纏わりつく湿気が不快な午後に目にした光景。それが一際記憶に残ったのは何故だろうか。
川べりの木陰、何とはなしに向けた視線のその先。極自然な水の流れのその現象に、左近は心がざわつく感覚を覚えた。溶けて、消える。
童たちの戯れか、もともとは川の流れの緩やかなところから水を引き込んで作られたと見られる水溜り。
先程の雨のせいか、その小さな水鏡はまさに今、増水した川に飲み込まれようとしていた。
湿って柔らかい砂を浅く掘って造られたそれは、左近の目の前で徐々にカタチを喪い、そして。
溶ける境目。渦を描いて確実に流れ込む水。
そして、何も無かったかのように。
あった筈の、モノが消えた。
◆
伊賀に来た事は間違っていたのだろうか。
詮も無いことだと思いながらも、最近左近はそんな疑問に悩まされていた。
否。ここに来ると決めたときは、それが最良の道だと同意していたはずだ。
葉ヶ塊で「信長が化け物を用いて影忍の里を襲った」という確証を得て後、それと闘うために取る手法としてはなかなか悪いものではなかった。結界という、地の利。
信長に屈せずという、忍軍団との共闘。効率的に戦いに望もうとするならば、当然考慮されるべき条件に適った選択だったはずだ。だが・・・。
何かが違っている。何かが外れている。何かが動かない。
そう。なぜ、信長は、出てこない?
◆
「お待たせして申し訳ない。」
館の主が姿を見せたのは、左近が訪れてから小半時ほど過ぎた夜更けだった。
「いや、こちらこそご多忙の所無理を言ってしまったようです。」
上座についた、主---百地の表情には疲労の色が濃い。気づかれぬほどに眉を顰めた左近に、百地は苦笑して見せた。
「客人に気を遣わせるようでは皆に怒られましょうな。」
「実際、お忙しいのでしょう。特に不審な噂が飛び交う今は。」
今度は百地の表情が曇る番だった。
「左様・・・戦には相手方の戦意を砕くような噂は付きものです。」
「根も葉もない噂というわけでもないようですが。」
俺も随分大きく出られるものだ、と心の内で呟きながら、左近は追い討ちをかけた。
厳しさを増した相手の表情を見据え、言葉を続ける。
「実際、共に闘うよう呼びかけた流派との連絡がまるで途絶えていると聞き及びますが。」
「・・・確かに。」
自分に向けられている眼光に、酷く真剣なものを見たのだろうか。百地はため息をついた後、ようやく一つ頷いた。
「我らと接触を計ろうとした者が大方、不審な状況で死んでいるそうです。」
「成程。この伊賀の地は陸の孤島となりつつある、いう訳ですな。」
一際険しくなった百地の視線を真っ向から受けて。浅く息を吐いた後、左近は本題を切り出した。
「このような時間にお尋ねしたのは他でもない。余人を交えず、百地殿のご意見をお聞きしたいと。」
「・・・なんでしょうか。」
「伊賀は何故、信長と戦うのですか?」
直裁な左近の問いに、百地は一瞬、理解できぬと言った表情を浮かべた。
無言のうちに。今更それを尋ねるのかと言わんばかりの視線を受けて、左近は心中「今だから尚、それを問いたいのだ」と呟いた。◆
戦いに赴く理由は人それぞれだろう。
明確な殺意を持って望む者。
何かを守るために刃を振るう者。
ただ奪うためだけに無辜の血を流す者。あるいは、流されるままに戦場に駆り出される者。
否定する気は毛頭無い。
この乱世に忍として育った左近にとって、「戦う」ことは日常の極近いところにあった。
だが、それでも。「俺はご免だ。」
物心ついてからの信念だった。
剣を振るう以上、命のやり取りをしていく以上は、「自分の意志」を持って戦いに望みたい。
自分自身にとって、刀を振るう価値があると思える戦列に加わりたい。
たとえ、それが「忍」としての立場からかけ離れたものであったとしても。◆
「何故に、と仰るか・・・。」
幾ばくかでも猶予が必要なのだろうか。
改めて問われた百地の右手が、自身の顎を撫でるのを冷ややかな視線で左近は見ていた。
「戦である以上、そこには利害があるはず。」
風に揺れた明かりが、相対する男の表情に苦悩の影を落とすのを左近は見逃さなかった。だからといって追撃の手を休めるわけにはいかない。
「伊賀が、信長と戦うことで得るものとは何です?」
「・・・我等の存在そのもの、ですな。」
しばらくの沈黙の後、一つ大きく息を吐いた百地がようやく口を開いた。
「信長は我等の存在を恐れている。故に我ら全てを滅せんとしているのです。」
「確かに。」
伊賀は鈴鹿、笠置の深い山々に囲まれた天険の要害だが、財を為す地ではない。
もし、この国の価値を挙げるとしたら。「隠(なば)りの里」とも呼ばれ中央支配から独立した、諜報・謀略に優れた戦闘能力の高い忍者を数多く輩出する点だろう。ここは特定の権力者に跪く事のない忍者達が自らを治めているのだ。
しかもこの地の結界は信長の魔手・・・妖魔の力を封じる力がある。
信長が恐れるのも無理からぬ事だった。だからこそ、数千、数万という兵力をこの小国に対して投入しているのだろう。・・・似ているな。
弧を描いて思考の芯に集約されていく全ての要素は、左近に一つの答えを与えようとしていた。
隠れ里。
閉ざされた世界。中央から目を向けられる事のない土地。
だが、そこには、唯一つ。
あの男の、信長の恐れる「何か」がある。昼間見た、崩れゆく水溜りの様が一瞬脳裏を過ぎった。
穏やかに空を映す水面。隔離された聖域であるはずのそこは、流れが変わった瞬間に全てを失う。
逃げ場が無い水溜りは、ただ、防ぐ力も無い脆い壁で護られているのに過ぎない。「もう一つ。お聞きしたい。」
不吉な未来が見えてしまったような感覚を覚える。怖気が立ちそうな魂を押さえつけ、左近は再び問い掛けた。
「それでは、我らが戦わないことで失うものは何でしょうか。」
今度こそ、百地の表情は当惑そのものといった様相を呈してきた。
「戦わない・・・とは、一体。このまま黙って滅びよと仰るか?」
今までも冷静さを保ってきた穏やかな百地の声音が、さすがに上ずったものになる。
「そうは言いません。ただ、我等の力ならばかなりの民をこの地から逃がす事はできる、と。」
「・・・逃げる。」
苦く、頭領の立場にある男が呟く。
快く思われないのは充分承知だった。左近は意に介さない様子のまま淡々と話し続ける。
「幸い、この地は天然の要害。魔を退ける聖地でもある。取り囲まれてはいますが、突破口を開いて女子供を逃すことは充分可能なはずです。」
実際、よく持ち堪えているものだと思う。
相手は唯の兵、こちらは忍という違いはあれ、あれだけの戦力と対峙しながらも尚戦いに赴く事が出来ている。無論、葉ヶ塊以降、惜しみなく発揮される綾之介の御神刀の力もあるだろう。
その善戦が、或いは伊賀の衆の戦況判断を甘くしている可能性もまた、否定できなかったが・・・。
実際のところ、目の前の長たる男が今の状況をどう見ているのか、その辺りも関心事の一つではある。
押し黙った百地を醒めた目で眺めつつ、左近はその答えを待った。◆
「やめちょけ。」
この時の、百地との会見の計画を事前に話したとしたら、恐らく龍馬は止めていたのではないだろうか。
男二人。龍馬と酒を酌み交わしつつ、同じような事を話していた。戦況に話が及ぶと知らず声が低くなりだした頃の話だ。
はっきりと口には出さなかったが二人の見解はほぼ一致していた。
----------膠着状態。
地の利も、戦略も悪くは無かった。
これだけ焦らせば信長をおびき寄せる事は可能だろうと思われた。
だが。
「奴も案外気が長いのう。」
信長が姿を見せるかどうかが、この戦の勝敗の鍵。
それが思惑通りにはなかなかいかない。
「伊賀の衆は気づいているのだろうか。このキナ臭さ・・・俺は気に食わん。」
「ま、確かに消耗戦にはなってきちょると思うが、な。」
「お主は平気なのか?」
どこか平然とした様子の龍馬に、酔いも手伝ってか珍しく、左近は僅かに苛立った声を上げた。
「平気とは人聞きが悪いのう。わしじゃて目の前で味方に何人も死なれるのは正直しんどい。じゃが・・・」
手にしていた杯を一気に呷り、龍馬は表情を引き締めた。
「忘れちゃいかんぜよ。戦には流れがある。そしてその流れを決めるのはここの者じゃけん、他所もんのわし等がどうこう言う筋ではなか。」
「それでは俺達が敢えてこの地に留まって戦う理由は無くなる。」
自分の杯に新たに酒を注ぎつつ、左近は軽く毒づいた。
「正直、信長が引きずり出せないのだとしたら、ここに居る事に意味は無かろう?俺達の標的は奴一人のはず、なんだからな。」
どういう訳でそうなったのかは知らないが、とは口に出して言うつもりはなかった。
この場に居ない、もう一人の御神刀の持ち主は間違いなく、信長を倒すことを悲願としている。自分の里を滅ぼした仇敵として信長を憎み、滅ぼすことが自身の使命だと信じて疑う様子も無い。
だとしたら。尚更、信長の首に手が届かない以上ここに留まる理由は無いはずなのだが。
「じゃが、左近。おんしはこの伊賀を見捨てられるか?」
龍馬の諭すような声に、左近は鼻で笑って「多分な」と曖昧に答えた。
おんしも大概へそ曲がりじゃなぁと、呆れた龍馬を、真っ向から見据えて左近は口を開く。
「目的の無い戦いを続ける意味があるとは俺は思わない。」
「左近。」
低く厳しい声で名前を呼ばれても、左近は気にしないかのように言葉を続けた。
「このままでは犠牲しか増えない。恐らく流さなくても済むはずの血だ。このまま戦えば」
「やめちょけ。」
厳しい声が再度、左近の言葉を遮った。ようやく左近は口を閉ざして龍馬の方に目を向ける。
「ワシらの標的は確かに信長ただ一人じゃ。だが、伊賀には伊賀の戦の理由っちゅうもんがある。人は逃げられるが土地は逃げられん。逃げられん故郷を死んでも守りたいっちゅうモンの気持ちも分かっちゃれ。」
「死んで何になるというんだ・・・生きて居なければ土地も故郷もあるまいに。」
「じゃから、それを決めるのはここのモンだと言っちょるんじゃ。」
「だろうな。」
どこか投げやりに左近は答えた。酔いが大分廻ってきたらしい。
だが、この土地の人間が全て同じ考えだと言うわけじゃないだろう、と心中で呟く。
殆どの者はただ、上に従うしかない。頭が「戦って死ね」と言うならば死ぬための戦いに赴かねばならない。
逃げても命長らえたいと思う者も当然いる事だろう。
もっとも。それを部外者の自分が言ったところで詮無いことだと、左近は自身を嘲笑った。
「だが、それに俺達が巻き込まれなきゃならん理由など無いだろう?」
「おまさんまっことへそ曲がりじゃ。」
心底呆れたような声を龍馬が上げる。本当はそうすることができないだろう、と見透かされているようで何だか心地が悪い。
「何とでも言ってくれ。現実を見なければ先は切り開けない。ただその時の流れに流されたままでは、いつか絶対後悔する。」
左近は杯を床に置き、自身の太刀を手にした。
「こいつがそれを俺に教えてくれた。」
そう言って、左近は鞘に入ったままの太刀を目線の高さまで持ち上げる。
酔いと、心の芯に染み付いている怒りが、いつに無く左近から冷静さを失わせていた。
「こいつは日向を守らなかった。綾之介の小太刀も香澄を守る事はなかったな。葉ヶ塊は・・・全滅は免れたが大きな打撃を受けた。」
「刀も槍も、使うのは人じゃ。ワシらがこいつを完璧に使いこなせるようになればまた話は変わってくるじゃろう。」
「お主、本気か?」
箍が外れている。自制ができない。口元に嘲笑うような笑みを浮かべて左近は龍馬を見た。
「綾之介は今正に使いこなしているぞ。あいつ一人で目の前の雑兵共は消せる。・・・だが、結果はどうだ?」戦場で目にする、蒼い光を思い出す。
魂を削り取るように、小太刀を振るう綾之介の姿が脳裏を過ぎる。
敵の刃の、その真中で。時に自身が消耗し、膝を地に着き、その首を血に飢えた凶刃に晒そうとも。
彼女が払う犠牲と引き換えに蒼い光は消し去る。目の前にある敵だけを。
・・・いつだって本当の望みは果たされない。「和をもたらす、とは笑える話だ。この刀のあるところ、逆に余分な血が流されている。」
その上にだ、と憂鬱そうに左近は言い捨てた。
・・・本来ならば流さなくても済むはずの血を流して、何になるというのだろうか。
「目先の戦いに溺れてどうする? ここで命落として一体何が残るというんだ?」
「ならば、溺れなきゃよか。生き残ればよか。」
声を張り上げるように龍馬は言い切った。
その声音の力強さに、思わず左近は言葉を失う。
「ワシじゃてこの伊賀に対して信長が何を企んどるかは判らん。おんしがこの戦いを無駄というのも分からん訳じゃなか。じゃがな。」
そこで、一つ息を吐き、龍馬はぐっと声音を落とした。
「渦中に在る事で始めて見えるもんもある。ワシはそう信じちょるけん。」
「その中に在る事で・・・か。」
呟く左近に、龍馬は「今日はもう飲みすぎじゃ」と声をかけ、ゆらりと立ち上がった。僅かに覚束無い足取りで座敷を出るその直前。障子を開けながら振り返る。
「左近・・・今日のような話、綾之介殿や伊賀の衆には控えちょけ。戦いの是非を問えん状況の者に今の話は酷じゃけん。」
「俺だって話す相手は選ぶさ。・・・今日は飲み過ぎたし、話し過ぎたようだ。気に障ったのなら忘れてくれ。」
鼻で笑って、その場にそのまま左近が横になる。それを見た龍馬は苦笑を覗かせて部屋を出た。
「誰もがお主ほど強くはなれないさ・・・流れに飲み込まれたら見えるものも見えなくなる・・・。止める事も叶わなくなる。」
龍馬の足音が歩み去るのを聞きながら、誰に言うとも無い左近の独り言が、消えかけた明かりに揺らぐ室内に暗く響いた。◆
そう、この時はまだ余裕があったのかも知れない。
無益な戦いが始まりつつあることを知りながら、どこかで抜け出せると信じていた部分があるのかも知れない。
自分が何に巻き込まれているのか。それすら、恐らくは悟ってはいなかったのだと気づかされたのは、遥か後になっての事だった。天正九年 夏。
伊賀の地で、何かが崩れようとしている。<To be Countinue>