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琥珀の時(誘い後日譚)其の壱―≪御那己さま≫22
 

「大丈夫か?」
女の傍に駆け寄ると、綾女は覗き込むようにして女に尋ねた。
左近はその二人を守るようにして立ち、『禍蛇』の雷撃の行方を警戒している。
女の息はかなり乱れていた。
女の呼吸に合わせて胸郭は激しく上下し、喉元でヒュウヒュウと気流が悲鳴を上げている。女は綾女の腕に支えられその場に立つと、血で汚れた頤(おとがい)をクイッと上げ、再度『禍蛇』の姿をその両瞳に映した。
そして、口元の血を拭おうともせず、綾女の腕を振り払うかのように、歩き出した。
「この体で何を気だ?」
綾女の腕が女の体を押し止める。
「お願い・・行かせて・・」
苦しい息の下から、女がうめくように呟いた。
女の乞うような眼差しが、綾女の方を振り返る。
綾女は初めて見る女の表情に、戸惑いを覚えた。
「止めとけ」
そんな二人の間に、割って入った声があった。
二人ほぼ同時に、声のした方を振り返る。
「今のあんたに何ができるっていうんだ?」
雨の中ずぶ濡れになって立つ若竹であった。
――!?
若竹の額が青白く光り、雨に濡れて張り付いた前髪のあわいから、蓮の花の形をした文様が浮かび上がっていた。
「そ・・れは!?」
女の表情に驚愕が走る。
その文様に似た痣を、女は見知っていた。
――竹丸・・!
忘れもせぬ、我が子の額に生まれながらあった痣。
「あんたは来るな・・」
若竹はそんな女の反応を無視して、言葉を続けた。
額に現れた文様に呼応するかのように、若竹の全身から『十六夜の力』が陽炎のように揺らめいて立ち昇る。
「そのために俺は此処にいるんだ・・」
この戦いがどれだけ覚悟を必要とするものか、『禍蛇』と同じ力を持つ若竹が、一番に承知していた。
――だからと言って、簡単に諦められるか!
若竹には『禍蛇』に向きあう理由があった。
強い決意を込めて、若竹の視線は真っ直ぐ空へと向けられる。
その姿に女は遠い過去の記憶を呼び覚ました。
そう、あれは――

天正十年二月、持舟城での戦い。
夫・柿崎小六は、その戦いの渦中にいた。
――われ等が時を稼ぎまする! 各々方は早く、ここから落ち延びなされい!
そう言って柿崎は城内に残っていた婦女子を逃がし終えると、自らは火のまわり始めた城内へと再び戻っていった――と、後になって女には伝えられた。
柿崎は、己の心情にどこまでも正直で、一度こうと心を決めると、他人も驚くほどの強い意志の力で、それを成そうと努力する人であった。
その実直さが、古参の家臣から疎まれ、孤立しがちであった君主・武田勝頼の心に叶い、柿崎は勝頼を陰から支える存在にまでなっていた。
だが、柿崎はそんな立場におごる事無く、持舟城への出立を自ら申し出たのであった。
その戦で柿崎は討死した。
柿崎は、武田家臣の中でも、弓の名手で知られていた。
だが、その腕前を自分から披露する事は無かった。
――弓とは所詮殺しの道具だ。
そう言って柿崎は、御前試合さえ固辞していた。
戦場とは、人を殺めなければ、自分が殺められる立場にすりかわるところである。
柿崎は戦から帰ると、どんなに疲れていても、すぐに潔斎に入った。
そして、仏に向かって手を合わせ、殺めた命を惜しみ、悼んだ。
在りし日、
――わしはお前が笑うてくれていればよい。
と、柿崎ははにかみながら言った。
児(やや)ができたと告げると、我が事のように喜んでくれた。
そんな優しい人であった。
――お前と腹の子はわしが必ず守る。
そう言い残し、柿崎は戦に出ていった。
その時夫が見せた表情を、今も女は忘れられずにいる。

この若竹と名乗る少年の横顔に、女は出立前の夫の姿を見ていた。
不意に女の眼差しが優しく和む。
「なッ!?」
若竹の思考が一瞬止まった。
気が付けば女の腕の中。
「ありがとう・・」
戸惑う若竹の耳元で、女の感謝の言葉が囁(ささや)かれた。
「それでも――」
更に綴(つづ)られる女の思い。
「どうしても・・捨てられない・・思いもある・・」
女の心を支え続けた、たった一つの存在――吾子(我が子)。
ふくいくとした頬・・つぶらな瞳・・あどけなく笑う小さな口元・・そして、その額には蓮の花を模した赤痣・・
悲しいかな、躯(むくろ)にさえもその思いを映して、女は在りし日の面影を鮮やかに再現する事ができた。
――これも巡り合わせか・・
時、ここに至って、十六夜の子供達の一人に、我が子と同じ文様を見出す――運命の皮肉。だが、女は、その運命に感謝さえしていた。
女はソッと若竹の体を自分から離すと、呆然と立ちすくむ若竹をその場に残し、『禍蛇』のいる方角に向き直った。
女の周囲で風が生まれる。
「待てよ!」
ハッと我に返り、若竹が女に向かって叫んだ。
「そうやってあんたは、現実を否定するのか!」
その言葉に、女が若竹の方をゆっくりと振り返った。
軌跡を残すかのように、黒髪が美しい円を描いていて流れる。
次の瞬間、
――!
若竹は、少し悲しげな、それでいて何かを心に決めて、その意志に従おうとする、女の眼差しと出会った。
「あんた・・まさか!?」
女は否定も肯定も返さないままに、ただ穏やかに微笑んだ。
若竹が弾かれたように、何かを言いかける。
だが――
「綾女・・そろそろ潮時だ」
その機会は永遠に失われた。
『禍蛇』の動きを警戒していた左近が、押し殺した声で、急を告げたのだ。
左近は、右掌に召喚した妖刀を握って、上空を睨みつけていた。
ほぼ同時に三人――綾女、女、若竹も、左近の視線の先を追って上空を見上げる。
空では『禍蛇』が狂ったように唸り声を上げ、闇にその白銀の体を閃かせていた。
『禍蛇』が咆哮を上げるたび、上空では赤い稲光が走り、森のそこかしこに雷が落ちる。
雷光、轟音、その繰り返しが、森の木々をなぎ倒し、森の地を深く抉(えぐ)り、本来豊かな緑の地であるべき森を、火の海の中へと埋没させていく。
まさに生きて炎獄を見るような光景が、森のあちらこちらで展開していた。
森を焼く火は確実に包囲の輪を狭め、綾女達から逃げ場を奪う。
逃げるか! 戦うか! 二者択一の場面に四人は遭遇していた。
「何か打つ手はないのか・・」
綾女が『禍蛇』を見上げながら、苦しげに呟く。
雨に濡れ、体に張り付く衣装が、いつもより重たく感じられた。
折れた肋骨が軋みを上げ、一度風穴を開けた左胸が、疼くように痛む。
度重なる妖力の放出は、綾女の生命力を限界まで搾り取っていた。
気を抜けば、張り詰めた心の糸までも切れてしまう。
人としての心を宿し、なおかつこの場で立っていられる・・それさえも奇跡に近い状況で、綾女はこの場に立っている。
――どちらかが消滅するまで、やり合うしかないのか?
そんなやり切れない思いが、綾女の疲れに追い討ちをかけていた。
杜辺神が『禍蛇』となった経緯には、女の存在が深く関与しているため、『禍蛇』本人にはほとんど責任はない。
『禍蛇』を早くこの暴走から解放してやりたい・・というのが綾女の正直な気持ちであった。
しかも、『禍蛇』の暴走が、富士の地下に眠る岩シヨウ(=マグマ)を揺り動かすという。
ならば、此処で『禍蛇』の暴走を食い止める必要があった。
――よくて相討ち・・いや、今のままでは、『禍蛇』が生き残る確率の方が高い・・
即断を迫られながら、綾女は途方に暮れる。
相方の左近も、余力はほとんど残っていない状態であった。
血止めしたとはいえ、その左肩に重症を負っている。
綾女同様、妖刀の力も放ち続けていた。
唯一、左近が綾女に勝る点と言えば、体力が綾女のそれを上回るという事くらいのものである。
だが、戦いの最中(さなか)も、この男は綾女の動きを視野に入れ、必要に応じて助勢する事を忘れてはない。
それができるだけの力量と、度量を兼ね備えた人間であった。
自然、その動きは綾女の倍をいき、もしかしたら綾女よりも、その体に疲労を蓄積させているかもしれなかった。
外観上それを感じさせないのも、この男の特徴である。
ギャオオオオオ・・
また、『禍蛇』の口から、激昂が迸(ほとば)った。
『禍蛇』は『御那己さま』の思念の支配から、ほぼ完全に解き放たれている。
精神を支配する思念が薄れ、混乱し、狂気の抜け殻だけとなってしまった『破壊の根源』が、その長い胴体をうねらせ、攻撃の態勢に入った。
空全体を明るく彩る光。
降りしきる雨。
逃げるところなど何処にも無い。
まさにその時、
ヒュォォォ・・
突如地上に乱気流が生じた。
「止めろおおおおおお!」
風の狭間で若竹の叫び声が上がる。
綾女が気流の流れから視界を庇いつつ、何事かと若竹の方を振り返った。
黒髪が無数の蛇の如き動きを見せて風に靡(なび)き、見ようとする方角の視界を邪魔する。
吹き荒れる風と雨の中で、若竹は空の一点を凝視したまま、硬直していた。
そして、綾女も気付く。
傍らから女の姿が忽然と消えた事に。
――後を頼みます・・
それが若竹の聞いた、女の最後の言葉であった。
若竹は女を引き止めようと、必死になって右手を伸ばした。
だが、その手は、女を取り巻く風に阻まれ、空しく空を握り締めただけであった。
暴走する『禍蛇』に女を認識する心はない。
『禍蛇』が女を見つけ、大きくアギトを開いた。
攻撃の第一波。
それを紙一重でかわし、女は浮遊する『結界球』へと手を伸ばす。
『結界球』の中には、女の赤子が白い包に包まれて、永久(とこしえ)の眠りについていた。
最後に何を大切とするか――それは人それぞれの思いによって違ってくる。
女が最後に選んだもの。
女にとって一番大切なもの。
――もう・・寂しくない・・
女は『結界球』を両手で持つと、それを大事そうに胸の中に抱き締め、再度唸り声を上げて迫ってきた『禍蛇』の姿を正面に見据えた。
雷光。
「い・や・・だ・・」
若竹の両拳がワナワナと震える。
雷鳴。
「行かないで・・く・れ」
若竹のうめくような声はかき消されてしまう。
「行くなああああああああああ!」
この身も心も張り裂けろとばかりに発された絶叫。
次の瞬間、『禍蛇』の目の前で、女の胸の内にある『結界球』が破裂し、眩い光を放った。
閃光の中に『禍蛇』の姿がくっきりと浮かび上がり、その動きが一瞬制止して見えた。
は は う え !
音無き言の葉。
魂の叫び。
言霊に空気がうち震える。
地が共鳴を起こす。
深く、深く、地を貫き、地底奥深くに眠る、この地を統べる者の耳へと、その声は届けられる。
猛り狂う破壊の化身――『禍蛇』。
真の意味で、『禍蛇』を解放できる者がいるとすれば、それは彼(彼女)等の主だけであった。
無垢なる者の守り手・・白き力の御使い・・邪を払う峻厳な霊力を持つ者・・幾多の呼び名を持つその主を、人々は通常こう呼んでいた。
富士の姫神――と。
 
 

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