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誘い(いざない)第五話
 

里にいた頃、男に尋ねた事がある。
『何で、姉ちゃんなんだ?』
男は言った。
『理屈では分からぬな・・忍びの身で、かように此処で会う約束を交わす事自体、既に正気の沙汰ではないのだから・・だが、会ってしまったのだよ、運命の女というものに・・』
『運命の女?』
『ああ、運命を共にできる女、こいつのためであれば、どんな修羅も厭(いと)わず生きていける、そんな女だ』
『そんなの分かるのか!?』
『ああ、会えば分かる。その出会い自体、既に宿命づけられたものであるからな・・・』
『ふ――ん』
幼い子供の気の無い返事に苦笑しつつ、男はくしゃくしゃと子供の頭をその大きな手で無造作に撫でた。
――その愛の行き着く先には、哀しい結末しか待っていなかったけれど・・・
 

【胡蝶の夢の果て・・・】
綾女と左近は、重ね合わせた温もりを、どちらからとも無くゆっくりと離した。
そして目を開けると、お互いが相手の瞳を覗き込み、お互いのそれに自分の姿が映る事を確認する。
左近の瞳に綾女が
綾女の瞳に左近が
これ以上に生きている確かな証が存在するだろうか?
「お主がそれほどまでに臆病だったとは、今まで知るよしも無かったな・・・そこまで俺の事を気遣ってくれていたとは、光栄の至りだ・・・」
左近がこの場の雰囲気をぶち壊すかのように、いつもの口調で綾女を冷やかす。
その言い様に綾女はむっとしながら、
「・・今度からは止めておくか!?」
と、恨みを込めた声で返し、軽く相手を往なしたつもりでいたが――
――!?
次に、自分の身を襲った予期せぬ現象に狼狽した。
溢れ出る涙――止められない!?
先ほどの左近の何気ない言葉に、綾女は自分でも驚くほどに深く傷ついていた。
左近が静かに息を引き取った時、これで左近とは今生で会う事も無いのだなと、妙に静かな気持ちで、左近の亡骸を見詰めていた自分を思い出した。
想像以上の損失感で、綾女は自分の心を麻痺させてしまっていたのだ。
後にその気持ちを、当の本人から茶化される事になろうとは夢にも思っていなかった。
そんな綾女に、左近がすまないと耳元で囁く。綾女が首を横に振る。
涙もろいのだなと、左近が言えば、綾女はお前が知らなかっただけだと、怒った風に答えを返す。
綾女の言葉が続く。
「幼い頃は兄の後ろばかり付いて回って、何かあるとすぐ泣いて兄に縋(すが)ったものだった・・・さすがに大きくなると、そんな事はしなくなったけれど・・いつも私の前には兄がいて、安心してその後ろを唯付いて行けば良かった・・・その兄がいなくなり、この身を男の形(なり)で窶(やつ)してみせたけれども、所詮自分自身は偽れぬものだな・・・だがな左近――」
見詰めるその瞳が、左近の心を射抜く。
「今泣いているのは・・お前のせいだ!」
「俺のせい・・か?」
左近も真顔に戻り、静かに同じ言葉を繰り返す。左近の中で箍(たが)の外れる音がした。
その間も綾女の口は、まだ語り尽くせぬと言わんばかりに、なおも開かれる。
「私は一人でも大丈夫だと思っていたのだ・・宿命に従い、そして散る・・それが自分の一生だと思っていた・・・なのにお前が、一人では寂しいと、一人きりでは生きていけぬと、私に気付かせたのだろうが!」
咽(むせ)び泣く綾女の中で、誰かが叫んでいた。
吐き出してしまえ! 吐き出して楽になってしまえばいい――と
溢れ出る思い、止められない叫び、こなごなになってしまいそうな心――
誰かの手で――止められる人間など、左近をおいて他にいるはずも無いのに――自分が壊れてしまう前に、この暴走を止めて欲しかった。
綾女は泣き濡れた瞳を閉じた。現実から少しでも目を逸らすために・・・
悲しい選択であった。
「――?」
その綾女の右瞼の上に、静かに、温かなものが不意に落ちてきた。
そしてそれは優しく、綾女の乱れた心ごと吸い取るかのように、涙の粒を吸い取っていった。
同じように左の瞼にも優しさが落とされる。
その繊細な触れ方は、左近の心そのものであった。
頬を風が掠めていく・・・
一瞬触れたかと思えば、風は気紛れに離れ、離れた後も付かず離れずの距離で気遣う様子を見せていた。
綾女がくすぐったさに小声で笑い声を立て、首を竦(すく)めると、風はまた戯れて暖かな空気を綾女の心に送り、荒みそうな心を癒すのであった。
「さこ・・」
綾女の言葉は、湿った感触と共に風に縫い止められてしまった。
それは初め優しく、次第に熱を帯び始め、綾女は入り口から言葉も吐息も吐くことを許されなくなり、慣れない行為に綾女は、次第に苦しげに眉を顰(ひそ)めだした。
やっと許され一つ息を吐くと、左近の声が耳元で囁かれた。
「・・・泣くお前を抱く気は無かったのだが・・止められそうに・・ない」
それは男を断言した声――掠れて少し上ずった声に男の気配を感じ取り、綾女の背筋にぞくりとするものが走った。
閉じていた瞳を薄く開け、瞳で左近に懇願する。
自分を解放して欲しいと、今は止めて欲しいと――
だが目を合わせた瞬間、その懇願は遅かったと気付かされる。
切なげに自分を見る左近の整った顔を間近に見て、綾女はくらりと、幻術にかけられたような眩暈を味わう。
再度交わされた口元の約束は、更なる呪縛を求め、離れる事は二度と許さないとばかりに深く、綾女の心をこじ開けて入ってきた。
己を隠す事も偽る事も許されない。
奥の奥までさらけ出され、心を蹂躙されていくようであった。
「さ・・こん・ゆるせ・・・もう・・」
温もりという諸刃の凶器に脅されて、綾女は口角から切なげな悲鳴をあげる。
それが更に男の劣情を刺激するとも知らずに、ピンで翅を貼り付けられた美しい蝶はもがき続ける。
やがて抗い疲れた哀れな蝶は、いつしか自分からその無慈悲な征服者に波長を合わす事を覚えるのだ。
最初左近の厚い胸板を押し返そうとしていた綾女の手が、ゆっくりと力を緩め、左近の脇をくぐって、そのたくましい体躯を腕で抱きしめるように動いた――
 

岩の隙間からこぼれる光を避けるようにして、二つの影が佇む。
相手の存在を確かめるように、抱く腕に力を込めてはみるのだけれど、昨夜ほどに一つになれない現実がある。
男の器、女の器、それぞれに満たされた命は、決して同じ杯に注がれる事は無いのだと、頭の片隅で理解している。
抱き合えばお互いを分かち合える――
それを信じられる程に心は純粋ではなく、そんな甘い夢に酔える程、心に余裕を持ちあわせていない二人であった。
 

【水面の月――綾女】
でき得る事なら、このまま流されてしまいたい・・・
その魂を乞い、その体に魂魄を誘った――そう、あの時から自分は既に狂っている。
恋という幻想に・・・愛という妄想に・・・
それがどうした!? 躊躇(ためら)うくらいなら、いっそ本当に狂ってしまえばいい!
人は身の内に、心という自分の意志ではままなら無い生き物を飼っているのだ。
心には、理屈と言う人間の思い上がりは通用しない。
この狂おしい思い・・――いっそ愛という名の紅蓮の炎でこの身を焼き尽くし、二人して比翼の鳥となって生まれ変われたならと思う事は罪なのだろうか?
できもしない事を考えてしまう――
――やはり狂っているな
らしくも無く綾女は苦笑する。
 

安土で見た月を思い出す――丸―い、丸―い、欠け一つ無い満月であった。
――自分は左近と同じ月を見上げているのだろうか?
ふと不安になる。
――水面の月影に、唯翻弄されているだけかもしれないな・・・
そして少し寂しげに、綾女は微笑んだ。
 

ゆらゆらと水面に映った月が揺れる
愛を知ると人は臆病になる? 心震わす水鏡
どれだけ愛すれば 足りるだろう
どれだけ愛されれば 満たされるだろう
月に満ち引きする 男と女の心模様
肌と肌を重ね合わせた この一瞬だけが信じられる
愛しさで目隠しし 切なさで爪を立て
どこまで行けば 永遠は見つかるのか
せめてこの刹那 うたかたの夢に酔いしれて
今は唯 この腕の中 眠りたい――・・
 

【水面の月――左近】
左近は綾女の華奢な肩を抱きすくめながら、内心苦笑していた。
どれだけ心と体を熱くしようとも、どこかに必ず冷めた部分を残している左近であった。
それは昔からの癖のようなもので今更どうする事もできないのだが、何も今の状況まで分析しなくていいのにと自分でも思う。
だが時としてそれが役立つ時がある。特に相手が綾女の場合――
綾女は一陣の風である。
繋ぎ止めようとしても、この腕の中からするりと抜けていってしまうのが当たり前、そんな相手にいちいち真剣に愛を語っていたなら、左近は唯の道化者でしかなくなってしまう。
それなら、はぐらかせるだけはぐらかし、焦らせるだけ焦らして、向こうからこちらを振り向くように仕向ければよいのだ。
今この腕の中でまどろんでいても、明日には綾女は飛び立っていこうとするだろう・・・
自分は一夜の借宿でしかないのだ。
綾女――その真摯な眼差し、一途で真っ直ぐな気性、自分の身も省みず突き進む前向きな姿勢、そして見え隠れする優しさ、脆さ――女らしさ
初めは、何故かこの者を見ると苛立った。
途中でその感情が嫉妬なのだと気付き、われながら心が狭いなと呆れた。
この者は自分に無いものを持っていたのだ。
正確に言えば、自分がとうに無くしたものを、自分の中に閉じ込めてしまった心を、いとも容易(たやす)く自分の前で無防備に見せた。
――あれはかつての自分・・・唯一の肉親を亡くし、泣いた・・・いや俺は人前で泣くなぞ、ついぞした事は無いな・・・
日向の里は徹底した実力社会、肉親の情より力の有無を試される厳しい世界であった。
そこが香澄、葉ヶ塊の里と少し様子を異なる。
自分を育ててくれた若い頭領――里一番の手練、無双流の使い手である――も、ひたすら厳しくて、目に見える優しさなどくれた事は一度たりとて無かった。
当然泣く事など許されるはずも無い。生き延びる事、すなわち強くなる事であった。
――感傷に浸りすぎているな・・・
自分自身を言葉で蔑み、時々呼び出してしまう心の闇を振り払おうとする。
本当は泣いた事はあるのだ。自覚に無いというだけで、唯一度だけ――
里の危機を知り、駆けつけた時には既に焼け落ちていたかつての里――それを目の当たりにし、感慨は無いのに何故か涙が流れた。
一瞬その時の自分と、綾女の姿とが重なり合う。
相手が男であれば、左近は捨て置いただろう。
良くて話を聞くだけだったはずだ。荷担するなど考えてもみない。
仇討ちなど、左近から見れば、無駄に命をすり減らすだけの代物であった。
だが出会ったのは綾女だった――だから、思いがけず守ってやりたくなった。
綾女はそんな左近の気持ちに気付きもしなかっただろう。
気付いていたとしても、むやみに守られる事も、納得のいかない命令も、綾女には苦痛でしかなかったから、その手を払いのけてでも綾女は飛び出して行っただろう。
それが綾女、綾女らしさ。
だから自分は、綾女が自由に空を舞うのを見守るしかないのだ。
広い空に羽を広げて悠々と飛ぶ綾女の姿は、見ていても楽しいものがある。
例えその翼が自分のものでなかったとしても、時々腕の中に憩いに来る綾女は、唯愛しいだけの存在であった。
――だが俺も男だ
震える肩がそこにあれば、左近(じぶん)を思って流してくれる涙を見れば、自分の腕の中に愛しい者を囲いたくなるのが男というものではないだろうか?
 かごめ かごめ 籠の中の鳥は――
あれは、愛しさゆえに愛する者を閉じ込めて殺してしまった、哀れな男の物語・・・男もまた女の怨念によってその命を落とす――
愚かな、あまりにも愚かな、それゆえ哀しく切ない男女の仲がそこに見える。
――ふっ、俺も狂うのか、お前に・・・
左近は自嘲の笑みを溜息の中に隠した。
今は唯、この腕の中から鳥が飛び立たない事を祈るしかなかった。
 

左近の中に残っている最期の記憶――安土の月。
満たされた心で見上げたそれは、気持ちのいい丸い月であった。
――お前にも見えたか? 綾女・・・
すぐ傍にいながら確かめずにはいられない。
――水面に映る月を掬(すく)い上げるような気分だな
左近は綾女の髪に触れながら、絶ち難い思いに、瞳の光を揺らすのであった。
 

ゆらゆらと水面に映った月が揺れる
お前の心は何処にある? 心を映す水鏡
どれだけ愛すれば 此処へ来る
どれだけ愛されれば 羽を休める
月に満ち引きする 男と女の心模様
肌と肌を重ね合わせた この一瞬こそが真実の欠片
千の囁きも 万の誓いも
この逢瀬の前 色褪せて消えていく
うたかたの夢になぞ くれてやる心は無い
いっそ目覚めてなお 残る痕跡(あと)を
お前の上に 刻み付けたい――・・
 

【お約束!?】
――!?
――!
綾女と左近は二人同時に怪しい気配を感じ取り、ぱっと二手に分かれてその場を飛び退った
ビシッ!!
鋭い音と共に飛び散る砂礫――二人が飛びのいた後の地面に、何かの走った跡がくっきりと残っている。
「鎌風!?」
綾女が叫ぶ。
鎌風とは、信越地方の山野でよく起こる切り裂きの現象の事で、俗に鎌鼬(かまいたち)と言われている。
何かの拍子に不意に皮肉が裂けて切傷を生ずるのだが、傷の割に出血が少ないのが特徴である。
それが旋風の巻き起こす現象である事は既に香澄の里では知られていて、里の者は鎌風と呼んでいた。
香澄忍群の技には風にまつわるものが多いのも、こういった地方独特の風土が影響を与えているせいもある。
ピシッ パシッ 
二人の周囲を空気が乾いた音を立てて掠めていく。
風が空を切るたび空気と摩擦を起こし、軋轢音を発しているのだった。 
そしてそれは、二人が鎌風に意識を奪われていた時に起こった。
パッシィィィィ―――ン・・・
小気味良い音と共に放電現象が起こり、その牙が左近を襲ったのだった。
「さこぉぉぉぉぉぉ――ん・・・」
綾女の絶叫が洞窟内に響き渡る。
前のめりに崩れていく左近の後を追って、綾女は前へ飛び出す。
すんでの所でその体を抱きとめると、その安否を気遣いながら、綾女は激しい怒りを込めて闇を睨みつけ、襲ってくる者に対し声を荒げて叫んだ。
「貴様ら、許さん!」
すると何故か渦巻いていたはずの気流がぴたりと止まり、拍子抜けするくらい辺りは静かになった。
――?
綾女は辺りを警戒しながら、左近の耳元でその名を鋭く小声で呼んでみた。
だが左近は意識を失ったまま、ピクリとも動かない。
そして気付く新しい事実――左近は意識を無くしてはいたが、生きていた!
その息遣いは規則的に行われ、頚動脈に触れれば、とくんとくんとその脈動が伝わってくる。
――では先ほどの襲撃は何だったのか・・・?
綾女の頭は混乱した。すると闇から現れた者達がいた。
綾女ははっとし、右腕を真っ直ぐ水平に伸ばすと、その掌から青い光を放つ妖刀を取り出し、しっかりその手の内に握り締めた。
すると相手が突然話し掛けてきた。
「ちょ、ちょっと待ってえな。いきなしそれは無いやろ!?」
思わず綾女は妖刀を落としそうになる。
現れたのは二匹の狼――それが何故か難波の言葉でしゃべり掛けてきたのだ。
拍子抜けするとはこの事である。
「お前達・・何者だ?」
府に落ちない顔をしながら、綾女が二匹に問い掛ける。
「良くぞ聞いてくれました! 難波の二狼太とは私の事で〜す。比之木の婆にえらい目に会わされましたが、無事吉野に戻ってこられました〜」
一匹が陽気に答えれば、片方は畏(かしこ)まって
「同じく一狼太です。綾女殿には初めてお目にかかります」
と、丁寧に答えて返した。
綾女の頭は益々混乱した。
狐に化かされるとは、もとい狼に化かされる(?)とはこの事か!?
綾女はだんだんと腹が立ってきた。
ちゃきっともう一度妖刀を構えなおすと、二匹をじろりと睨みつける。
「貴様ら・・左近に何をした・・・」
地の底から響いてくるような声であった。
二匹は蛇に睨まれた蛙のように身を竦ませ、それでも健気に一狼太が代表して、綾女の問いに答えた。
「魂魄を返したばかりの体で、無茶はいけないのですよ・・体の波長に魂を少しずつ慣らしていかないとね・・だから少し乱暴なやり方になりましたが、左近殿には眠って頂きました」
「すると命に別状は無いのだな?」
「はい」
綾女はその返事を聞いて安堵し、これまで詰めていた息を大きく吐いた。
「――で、お前達、他にも用があったのではないのか?」
二匹が顔を見合わせて頷き合うと、二狼太(?)が綾女の方を向いて答えた。
「着る物に困っているんやないかと思って、急いで桜の精叩き起こして縫わせた服持ってきたんや」
春の女神・佐保姫が身にまとうという花霞の衣は、この吉野の桜の精によって織られているという。それはそれは見事な衣装を織り上げるらしい。
今は青葉の季節、桜の精は休眠している。そこへ突然舞い込んだ仕事だ。
桜の精にとっては、えらく迷惑な話であっただろう。
仕立てられた着物は、綾女たちに合わせて地味な物であったが、丁寧に縫われた上物だった。その衣装を手渡され、綾女は素直に感謝する。
一狼太と二狼太の二匹は、綾女に着替えを預けると、挨拶もそこそこに、その場を後にした。
 

帰り際、急に思い出したかのように一郎太が綾女に告げた。
「さっきの雷は少し強すぎたかもしれません・・記憶の一部に支障をきたすかも・・・」
綾女はそれを聞き絶句し、次の二の句が告げられなかった。
本当は一狼太、知っていてわざとやったと思える節もある。
美味しい思いはさせるものか――必死で吉野に駆け戻った犬神達の執念の勝利か!?
ほんとに馬に蹴られても唯では起きない子達である。
 

二匹が去った後、綾女は何気なく傍らに置かれた包みに目をやる。
一つの包みには綾女の、もう一つには左近の衣装が入っていた。
男物の方の包みを開けてみて、一番上にあった白い晒しを何気なく手にして広げてみる。
途端に綾女の顔が朱に染まった。
さて、その頃出口を目指して洞窟内を走っていた一狼太と二狼太――その後を追うようにやってきた大音響に巻き込まれ、心臓が飛び出すかという程の思いをさせられた。
お互い顔を見合わせて、あれは何だったのかと首を捻(ひね)る。
どう考えても綾女の声。
「こ、これを・・私の手で着せろというのか――――っ!!」
綾女哀れなり――兄がいたから知らぬとは言わないだろうが、うら若き乙女にこれは無いでしょう!? これも試練!? そんな馬鹿な!! ねぇ〜
 

【そして・・・】
気持ちのいい朝、旅立ちを迎えて――
犬神達姿を現す。既に打ち解けた口調を使う。
一「姉さん、おはようさん。ええ朝やなー。うちらも付いて行く事にしたんや。よろしゅうな」
二「兄さんがなんか悪さしよったら、うちらすぐ飛んできますから」
一「こら二狼太、それは野暮って言うもんや」
二「野暮?」
一「そうそう」
綾女慌てふためく。
「なっ、ばっ、何を言う!」
左近頭を振りながら洞窟から出てくる。どうも体は本調子で無いらしい。
「うん? 綾女どうかしたのか?」
「お前には関係ない!」
犬神達頭を寄せ合い小声で話す。
一「あちゃー、この兄さん全然覚えてないんや」(わざとらしく)
二「もったいなー」(大きく頷く)
左近耳聡く聞きとがめる。
「ほう、綾女、今の話にどんな意味が含まれているのか、俺には詳しく話してもらえないのか? ん?」
「ば、ばかっ、知るか!この死にぞこないっ」
綾女自爆状態。
「おい、それは無いだろう。お前が生かしてくれたのではないのか!?」
「今は後悔している!」
「後悔・・・だと? それはつれないぞ」
「戯言はここまでだ。私は先に行く。お前はもう来なくていい!」
綾女顔を背け、赤い顔を覗き込まれないようにしながら、すたすたと歩き始める。
「お、おい、綾女、綾女――っ・・全くあの頑なさは、相変わらずだな・・元を正せばお前達のせいだぞ、この疫病神が!」
左近溜息をつく。半分冗談、半分本気で怒っている。
二「あ〜、あんなこと言っているよ、あの兄さん」
一「ええやんか、うちらはあの姉さんが気に入って、付いて行く事にしたんやから」
二「せやな」
一「せや」
一「そんじゃ、まあ、そういうことで、うちらもお先〜 ご機嫌さん」
二「ほな」
それまで兄達の会話を黙って聞いていた三狼太が、慌てて兄達の後を追う。
途中一度立ち止まると、くるりと左近の方を見て――
「兄さん、何かよー分からんけど気張り〜や・・・お――い、あんちゃん達―― 待って〜な」
左近嵐のような難波言葉の応酬に付いていけず、一人呆然と見送る。
「なんなのだ、あの者達は? まあ、よかろう・・・惚れた弱みだ、今回は勘弁してやるか・・・どうせ旅は続くのだ、その道すがら、おいおい聞かせてもらうさ・・・それにしても綾女、お前、少し明るくなったのではないか? 何か吹っ切れたような・・・」
知らぬが仏とも言う。綾女と左近、二人の関係は振り出しに戻ってしまった。
左近は、相変わらず守りを解いてくれない綾女に前途多難を予感し、やれやれといった仕草で首を横に振ったが、今一度生を手にし、相見えたことに嬉しさを隠し切れない。
これからも左近の溜息は尽きないだろうが、それも至福のうちと思えるから不思議だ。
他人から見れば滑稽な姿なのかもしれないが、かけがえの無い者を持った人間に、その言葉は通用しない。
――俺の命はお前のものだ
そう心の中で呟き、綾女の向かった方角へと、左近も足を向けた。
女の足ならすぐに追いつけるだろう。
綾女が本気で左近を置いていくつもりが無ければだが・・・
 

この先永遠とも思える旅路の中で、二人と三匹がどのようなことに遭遇したか――それを語るのは別の機会としよう。
いずれにしろ、歴史に現れないところで、彼等は今も生きている。
依然影忍という宿命を背負い、それでもいつか自分達の命が尽き、人としてあの時に戻れる日を数えながら、次の妖星の到来を待っている。
長き時を二人、手を携えて
人の世のどこかにいる彼等に、幸多からん事を――
 
 

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