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誘い(いざない)第三話
≪閑話 その壱≫
吉野の里の昼下がり、そよぐ風もさわやかで、枝葉のこすれあう音を子守唄に、ついついうたた寝の一つもしたくなる。
「ふあ――――ぁ」
森の大きな樫の木の根元から、その間の抜けた声は聞こえてきた。
真っ赤な舌に、鋭い牙、大きく裂けたその口を思い切り開けて、のんびり欠伸なぞしているのはどこの誰?
「あんちゃん、番代わろか?」
「ああ、もうそんな時刻か」
そんなのんびりとした会話を交わしているのは、犬神の兄弟。
そう、左近とあやめを吉野まで運んだ狼達である。
今は姿かたちを通常の大きさの狼へと変えているが、本来は決まった姿を持たない妖かしである。
この二匹はここ三日三晩、交代で寝ずの番をしている。
比之木の婆に頼まれたからであるが、これが退屈で退屈で仕方がない。
「あんちゃ―――ん」
そこにもう一匹同じ顔をした狼が現れた。
「お前、三狼太。よお、ここが分かったな」
二番目の兄が尾を振りながら、後から来た弟を出迎える。
上から一狼太、二狼太、三狼太。吉野生まれの難波育ち、犬神三兄弟である。
「比之木の婆が・・・木霊の姉さんに・・・言付けてくれたから・・・すぐに分かったわ」
息せき切って走ってきたのだろう、話す言葉も途切れがちである。
「そんで、変わった事はあらへんのか?」
二狼太が三狼太にちょっかいを出しながら、兄の方を振り返って問い掛ける。
一狼太は首を横に振って、
「なーんも。強烈な結界が張ってあるから、鳥の一羽もこの上飛ばへんで」
大げさに溜息をついて見せた。
二「そうか?」
一「せや」
二「つまらんのー」
そう言うと二匹はお互い顔を見合わせて、また溜息をついた。
「ところであんちゃん達。ここに連れてきた姉さん、えらい別嬪さんやて、ここへ来るまでの道で天狗どんに聞いたんやけど、ほんまか?」
三狼太がわくわくした声で兄達に尋ねる。
「そや、鄙には稀な――って感じやったな」
一狼太が思い返しながら大きく頷く。
「片割れの兄さんも、水の滴るええ男やったけどな・・・」
忘れてはいけないとばかりに、二狼太がやけくそ気味にぼそっと言う。
「そうか?」
上の兄に末っ子が確認を取ると、
「そうやったかも・・な」
苦虫をつぶしたような顔をして兄は言った。
数秒の間、三匹はお互い顔を見合わせて押し黙る。
「まあ、似合いということや」
気を取り直して大きい兄が言い直す。
「そう言う事や」
二狼太も兄をとりなし加勢する。
「あはは・・・」
「あは・・・」
「はははは・・・」
最後は三匹の笑い声が三重奏となり、吉野の山々にこだました。
その笑いに少々空しさが含まれているような気もするが、まあ本編には関係ないことなので捨て置く事としよう。
――今日も吉野の里はのどかである。
≪閑話休題≫
テンチを『天地』と書くと、天と地が個々のものとなってしまう。
テンチを『転定』と書くと、転じると定めるの二つで一つのものとなる。
神とは『上(カミ)』のない『上(カミ)』であり、転定(テンチ)にして一神。
その理の中にあって、『男女』をヒトと読む。男と女二つにして一つ。男女にして一神。
渦巻き、巴をなし、一つの玉を作る――
洞窟の奥深く、真言を唱える声が聞こえる。
綾女がここにこもってからはや三日が経とうとしていた。
水も食料も口にせず、不眠不休で祈っていても体が大丈夫なのは、妖刀の力に支えられているためだろうが、逆に精神力は妖力に蝕まれつつあった。
そのため幾分声は小さくなり、疲労の影が見られるが、凛と通る声はさすがに忍びの生まれ、綾女の精神力の強さを表していた。
この三日の間に何回この真言を唱えているのだろう。
その何回目かに綾女はぴたりと言葉を止めて、目を静かに開いた。
印を結んでいた指もゆるりと解く。
するとそれに呼応するように、洞窟内で渦巻いていた青い光の焔も少しずつ沈下し、淡い光の粒に姿を変え、辺りを緩やかに漂いだした。
その中綾女は、糸の切れた人形のように、いきなり意識を失い、地面に崩れるようにして倒れこんだ。
その全身は汗にまみれ、この三日間の行の壮絶さを物語っていた。
だがその口元が微笑んでいるように見えるのは何故だろう。
綾女は祈りながら左近と共にいたのだ。妖刀の力が二人の意識を繋(つな)げていた。
言葉を交わしたわけではない。ただお互いの魂を傍に感じただけの事。
それでも綾女は幸せであった――
暫くして綾女はふっと意識を取り戻した。頭が重たい。喉が渇く。
だが、そんな事よりも確かめたい事があった。
綾女は熱に浮かれた人間のように、ふらふらと立ち上がり、何かを求めて歩き始めた。
「左近・・・左近・・・左近・・・」
綾女は唯、唯その名を呼び、その姿を探した。
仄かな光の中で、その者を見つけた時の綾女の表情を、どう形容したら言いのだろう。
綾女の思いは声にならず、唯溢れる雫となり、その頬を伝った。
女が男のために流す涙――そんなものがこの世に存在するのだと、初めて知ったのは、いつの事だっただろう。
女を捨て、命を捨てる覚悟を決めた時、涙も捨てたはずだった。それでも時に涙は流れた。
一人生き残ってしまった事への懺悔(ざんげ)の涙。
自分のために儚く散ってしまった花への手向けの涙。
滅び行くものをこの手で救えず、握り締めた拳の上に落とした涙。
そして、お互いに胸の内を語るうち、自然と流れ出た涙――
いく通りの涙が存在しただろうか。喜怒哀楽、自分は生きてきた、今も生きている。
その軌跡を涙が綴っている。その軌跡の中にこの者は居た。
自分が忍びである前に、人間であり、唯の女であると気付かせる存在だった。
――そうだ、私は女だ。
綾女は左近の傍まで行くと、その右傍らに両膝をついて座り込んだ。
左近に触れようと右手を伸ばしかけ、ふとその手を止める。
武具を着けた己が手――それは自分が忍びである証であった。
今、こんなものが自分に必要なのだろうか?
綾女は無意識に答えを出し、己の手でそれらを解き、はずし、捨てた。
後に残ったのは、忍び装束を着た己自身だけ・・・
青白い光が二人の周りを静かにたゆたい、蛍が飛び交うように舞っていた。
二人きりの時間を邪魔するものは何も無い。
綾女は左近の額にかかっていた前髪を右手ですっと掻き分けて、その下の額をあらわにした。確か左近は額から血を流していたはずだった。
綾女は実際見てはいないが、左近は隠行の喜兵次と刃を交わした時、すれ違いざま眉間を割られて傷を負っていた。
その傷がすでに癒えて、三日月形の瘢痕になっている。
通常すぐ血が止まる事はあっても、このような速さで傷が完治する事は無い。
綾女は小首を傾げると、血で染まった上衣の上から、左近の左脇腹に手を当てた。
血は布地にどす黒い染みだけを残してすでに乾ききり、それ以上新たな出血の兆しは無かった。
綾女は釈然としないものを感じ、躊躇(ためら)わずに左近の上衣の帯を解いた。
上衣の前身ごろをはだけ、その下に着込んでいた鎖帷子の止め具をはずす。
ジャラッという鎖の音と共に、左近の鍛え上げられた上半身が青白い光の下に現れた。
鎖帷子に手を当てると、その左前身ごろと後ろ身ごろとに穴が開いていた。
それだけで、いかに喜兵次との白兵戦が壮絶であったか容易に想像できた。
普通ここで左近の左脇腹には、背から腹にかけて槍の貫通した跡――左近に多量の血を流させ、結果的に死に至らしめる原因となった傷があるはずだった。
だがその傷も肌に血痕を残したまま、すでに塞がっていた。
綾女は怪訝そうな顔をしてそれを見ていたが、これが真言の効用であるという考えにたどり着くと、安堵の笑みを浮かべた。
大きな傷跡に綾女は優しく手を触れる。とりあえず傷は治っている。その事実に満足した。
綾女はそのままゆっくり前屈みになり、左近の厚い胸板に己が右耳を当ててみた。
胸に押し当てた耳で、左近の胸の鼓動を確認しようとした。
だが何も聞こえてこない。傷は癒えているのに、魂はまだこの体に戻っていなかった。
綾女は比之木の言葉を思い出した。
――その身を持って魂返しの呪を施さねばならぬ・・・
綾女は左近の胸から頭を離し、上体を起こすと、左近の顔を眺めた。
今にもその瞼を上げて、その瞳で綾女を見詰め返すのではないかと思えるほど、左近の顔は安らかであった。
綾女は覚悟を決めると、自分の上衣の帯に手をかけて、それを解きにかかった。
しゅるっ――帯が衣をこすり、乾いた音を立てる。
程なくして、綾女の素の姿が、仄かな明かりの中に白く浮かび上がった。
脱いだ上衣をもう一度肩に羽織り、前を合わせて左近に近づく。
多少の羞恥はある。だが今の綾女は、綾女であって綾女でないのかもしれない。
ただ心の命じるままに、自分の望むままに綾女は動いた。
綾女は左近の右傍らに腰を落とす。左近の顔を覗き込み、一つ息を吸った。
綾女の唇に『死返玉(まかるがえしのたま)』の力が宿る。
綾女の『呼気』が『息吹』を生み左近のそれへと注がれる。
『息吹』は『生気(いき)』となり左近という人間の器を満たしていく。
それは人間の気の流れに沿って全身を駆け巡り、左近の体に命を芽吹かせる。
それは精を持って生をもたらす聖なる儀式。
――ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここ・のたり・・・
綾女の口から呪がこぼれた。
もう一度同じようにして綾女は『生気』を吹き込む。
幾度も角度を変えて交わされる儚い約束――イキテ イキテイテ。
月の雫を含ませるように、相手に口移しでそれを少しずつ分け与えていく。
そうする事で、何かが残されていくのだろうか?
今のこの瞬間は、夜が明ければ朝露と同じように、消えていってしまうだろう。
お互いの存在を、繋ぎ止めた魂の中で確かめ合い、睦み合う――綾女はこの刹那を大切にしたいと思った。
綾女の唇からもたらされる『生気』は、左近にいつかの夏の草いきれを思い出させていた。
まだ男女の境も無く、野を駆け回った幼少時代――
日向の里で何の疑問も持たずに、修行に明け暮れた時代――
影忍であることに疑問を持ち、里を出奔した日の事――
その間に焼き払われてしまった日向の里――
その後の虚ろな日々――
そして、抜き身の剣のような危うさを秘めたあの瞳と出会った――
記憶の断片が左近の人となりを作り上げていく。
綾女もまたそんな左近の記憶と共鳴し、白昼夢の中を彷徨っていた。
綾女の虚ろな瞳には、飛び交う青い光が、蛍に見えた。
脳裏に浮かんだ幼い頃の情景――
日も暮れたというのに、一人の少女が川沿いの小道を息せき切って走ってきた。
体の上下の揺れにあわせ、肩に触れるか触れないか辺りで切りそろえられた禿髪が、愛らしく揺れる。
『うわぁ、綺麗!』
少女は突然立ち止まり、大きな瞳を輝かせて、嬌声を上げた。
年の頃は四、五歳。親に内緒でこんな所に来たのだろう。
目的は水辺に集い、群れ飛ぶ蛍を見る事。
ちょうど今時期蛍が羽化し、たくさん飛び交う事を兄の話から聞いて知っていた。
初めは見ているだけのつもりが、飛び交う蛍があまりにも綺麗なので欲しくなった。
少女は紅葉のような手を精一杯伸ばして、蛍の群れを追いかけるが、その手を蛍はするりするりと難なくかわしていく。
少女は泣きたくなって目尻に涙を浮かべたが、それを着物の袖で乱暴にごしごしと拭うと、きっ、と蛍たちを睨みつけて、今度はゆっくり音を立てずに草むらに忍び寄った。
細長いすすきの葉の裏に一匹の蛍が止まり、仄かな光を瞬かせている。
少女はそっと両手を伸ばし、素早くその蛍を両の掌で囲い、捕まえた。
自分の手の中で淡く光る蛍――少女は喜び、はしゃぎながら、夢中でもと来た道を駆け戻った。
その途中、少女は自分を探しに来たらしい十二、三歳くらいの少年と顔を合わす。
『兄上、兄上、見てください』
少女は兄を見つけると、ぱっと駆け寄り、嬉しそうな顔して手の中のものを見せた。
それを見て兄は首を横に振る。
一言二言、少年が妹に声を掛けると、妹は大粒の涙を浮かべて、頭を横に激しく振った。
――あれは小さい頃の自分・・・
淡くチラチラと光る蛍はあまりにも美しくて・・・自分のものにしたくて・・・
けれど、それは夜明けと共に儚くなってしまった――
その時綾女は泣いた。
自分の手の中で動かなくなってしまった命を思い・・・
それを殺して仕舞った自分を思い・・・
思えば、自分はあの頃と、あまり変わりが無いのかもしれない。
ここにも愛しい命が存在する。綾女は瞼を閉じ、思いを込めてその者に触れた。
視覚を無くせば、思いだけが外に溢れる。
触れたものの温かさに安堵し、その息遣いを耳元で聞きながら、まどろみたくなる。
「あ・・や・・め・・」
不意に耳元で名を呼ばれ、綾女は、はっと我に返った。
思わず顔を上げ、間直で左近を見る。左近はまだ覚醒していなかった。
だがよく見ると、引き結ばれていた口元が僅かに開き、微かだがそこから吐息が漏れている事が分かった。
綾女は泣きたくなった。この時をどれほど心待ちにしていた事か!
「左近、お主はずるいぞ・・・今これからの事を話していたはずなのに、一人私を置いて逝こうとした・・・聞いているか左近、私は金輪際近しい人間を失したくないのだ・・・もう私を泣かせるな・・・」
涙に言葉を詰まらせながら、それでも泣き笑いし、恨み言をわざと述べてやる。
返答は無いが、今は左近が生きているという事実だけで心は満たされた。
――左近・・・
綾女は左近の上半身を両腕で抱き起こすと、はだけたまま袖だけを残していた左近の上衣と鎖帷子を、それぞれ肩から抜いた。
音の無い空間に、乾いた衣擦れの音と、続いてガチャリと重い金属を地面に落とす音が響いた。
鎖帷子は、見た目よりかなりの重さを持っている。
綾女はやっとの思いで、重い金属の衣を左近の体の下から引きずり出し、自分達の傍らに置いた。それは、あくまでも左近の体を金属で傷つけないための配慮であった。
はらり――そうしているうちに、綾女の肩からも忍びの装束が滑り落ち、地面に仮初の褥を作り上げる。
綾女の丸みを帯びた肩が、青い光に照らされ、白く透き通るように輝く。
かき上げられ一つに結わえられた豊かな黒髪、乱れてほつれた後ろ髪、思わず見詰めてしまいそうな細い項(うなじ)、鍛えられてなお華奢(きゃしゃ)な印象を残す首から肩にかけての稜線――
まだどこか熟れ切れていない青さを残しつつ、それでも男心を刺激せずにはいられない、そんなしなやかな肢体を持った極上の一品――
これまでは忍び装束にそれを包み隠し、あえて危険な場所へと赴いた。
死に場所を求めて・・・ただそれだけを願って・・・
だが、そこに如何ほどの価値が見出せるというのだろう。
忍びとはいえ人間。心さえも閉じ込めて、多くの者が戦いの中に散っていった。
望みも願いもあっただろうに、今生きている自分たちが、それを吐き出さずして、亡くなった者達への供養ができるというのか?
綾女は左近の頭を自分の右肩にそっと凭(もた)せ掛け、両の腕をその背の方に回した。
直に触れ合う素肌からはその鼓動と温もりが、右頬に寄せられた口元からは安らかな吐息が、現実味を帯びて伝わってくる。
綾女は望んだ、左近と生きることを――そして今、それを手にしている。
両の腕を広げた中に、左近の魂を抱きしめている。綾女は左近の温もりが愛しかった。
刹那にして永遠に感じられる時間――
規則的に伝わる生命の拍動――
規則的に息づく生命の息吹――
その余韻に体を任せて、幾ばくの時間が流れただろう。
綾女は薄らと目を開けて、ふと地面の上に転がっている小さな木切れに目に留めた。
それは左近の上衣をはいだ時、懐から落ちた、高さ三寸ほどの小さな木彫りの人形であった。
ふくよかな顔に慈愛の笑みを浮かべた道祖神――それは一刀彫で、荒々しく彫りこまれた素人の手による作品であった。
綾女はそれを右手で拾い上げ、ふっと笑みを浮かべた。見たことのある人形であった。
記憶がそう遠くない昔に舞い戻る――
天正十年、冬のうちでも極寒期に当たるこの時季に、綾女は雪深い飛騨の山間、鳳来洞に左近を説得するため訪れていた。
話は平行線をたどり、あまつさえ痛い所を突かれ、言葉に窮した綾女に事もあろうに左近は――!
あの時洞窟の隅で見かけたのが、これと同じ道祖神だった。
実際どうしてこんなものが此処にあるのか、尋ねたわけでは無かったし、聞ける状況でも無かったが、それらは左近の手によって作られたものだと直感的に分かった。
――あの時と同じこれを、後生大事に持ち歩いていたのか・・・
左近が何を思い、これらを彫っていたのか綾女は知らない。
左近には左近の境遇があり、左近も自分の事で悩んでいた。
悩みつつも、以前の自分と同じように、いやそれ以上に純粋に、影忍としての宿命を真剣に受け止め、その事のみに生きようとする綾女を見て、痛々しさから左近は、思わずきつい言葉を投げかけた。
綾女もまた香澄のすべてを突然託され、その責を全うするのに精一杯の状態であった。
左近の言う事は綾女を混乱させるだけであり、その本心は綾女の心になかなか届かなかった。
お互いがお互いを気遣いながら、会えば二人、傷つけ合う言葉ばかり口にしていたような気もする。
あの時は、否定の言葉を紡ぐしかなかった。
言葉の裏に隠された憂いも、優しさも、真実も、触れてはいけない禁足地にあったから、戦いの最中(さなか)に生きる者として、せめて気付かない振りをするしかなかった。
綾女はじっとその人形を見詰めた。
いつも左近と共にあったそれは、自分に何を教えようとしているのだろう。
綾女は一つ溜息をつくと、人形を傍らの地面にことりと音を立てて置いた。
そして左近の体を脱がせた衣服の上へ、ゆっくりと戻し、地面に仰向けに寝かせた。
何気なく左近の左手に目線を落とす。左近の指先に残る無数の切り傷。
それが何か、最初綾女は分からなかった。伊賀の里にいた頃には無かった傷であった。
一思案した後、その傷の意味が分かり、綾女はくすりと思わず笑った。
「左近、お主意外と不器用なのだな」
そして一度笑いだすと、その笑いは止まらなくなってしまった。
多少左近に悪いので、声を押し殺していたが、押し殺す傍から笑い声が漏れる。
その傷は左近が慣れない刃物を使った際できたものであった。
ひとしきり笑った後で綾女は、瞳に穏やかな光を湛えながら、左近の左手に自分の右手を重ねた。
そして、その手をゆっくりと持ち上げ、自分の右掌と合わせてみた。
自分より一回り大きい手、男性特有の節のある指。
左近の指は、自分が知る異性の中で、兄の指に一番よく似ていた。
厳(いか)ついというよりは、繊細といった方がよく似合う指をしている。
綾女はその手に残る無数の傷を、自分の指でなぞり、やがてその傷の一つに唇を寄せ、花の跡を散らせた。
その行為は単に、自分の存在を左近に直接印したかっただけなのかもしれないが、ちょっとした悪戯心のなせる業でもあった。
最初はそれで良かった。だが、触れた唇から微熱が生まれた。
いつしかその熱は全身を犯し、綾女の心を妖しく揺らし始めた。
左近の傷を癒したいという慈愛の心の反対で、左近が自分を忘れる事の無いよう、その傷を更にえぐり、無垢な肌には爪を立て、より深く自分を刻みつけたいという誘惑に駆られる。
「左近――」
綾女はこれ以上ないほど優しげな声で、今なお眠り続ける愛しい者の名を呼び、瞼をそっと閉じて、左近の手に――両の掌で大切に包み込んだ左の手の甲に、頬を摺り寄せた。
呼んでも答えられない者に、恨み言を言うのも可笑しいだろう。
ならば――
綾女は薄目を開けて、自分が触れている手から指の一本を選び、最初はそれに口づけた。そして無邪気な笑みを浮かべると、
かりっ
その指の先を甘く噛んでみせた。
その所作は、既に一人前の女のそれであった。
女は既に少女の頃から、女の片鱗を覗かせる。
幼い頃、鳳仙花の花で自分の爪を紅く染めて遊んだ。
誰が誰のお嫁さんになるか、女の子同士で囁きあい、お互いに指差して無邪気にからかい合った。
そんな自由は自分達には無いのだと、少し大きくなった頃知ったが、それでもあの日の前夜までは、人並みの女の幸せが残されていたように思う。
その夢も悪夢の訪れと共にずたずたに引き裂かれ、自分の手には妖刀と避けて通れない宿命だけが残された。
月日が流れ、自分が誰かのために紅を引き、爪を茜色に染める日がこようとは夢にも思っていなかった。
それが現実になりつつある。
綾女の指が左近の命の琴線を爪弾き始める。
綾女は一つ甘やかな吐息を吐くと、左近の耳元に顔を寄せて、何かを囁きかけた。
その声は本当に微かであったため、その傍を掠めた風だけがその言葉を聞いていた。
――遠い日の夢の欠片を風が運んでくる。
『女はね、好いた男のためだけに紅を引くの。それは、私をお前色に染めて欲しいという意味があるのよ』
母亡き後、父の後妻に入った女性が、綾女だけにそんなことを教えてくれた。
綾女は、歳若い継母が鏡台の前で身づくろいするのを見ながら、不思議そうに首を傾げてその話を聞いていた。
彼女の言うことは難しすぎて、子供だった自分には半分も理解できなかったけれど、はにかみながら話す継母の姿は、子供心にとても綺麗だと思った。
今ならその言葉の意味も理解できる――
風の囁きを聞きながら、艶やかに蝶が舞う。
羽化を果たし、真実の姿を取り戻した蝶は、そのしなやかな四肢を伸ばし、無垢な翅を広げて、空間を自在に飛んだ。
待ち受けていたのは未知の世界。
突然宿った狂おしい思いは、その魂を捕らえ、蝶の翅を紅色に染め替えた。
甘やかな危険を孕んだ罠が待ち受ける――
研ぎ澄まされる感覚
占められていく心
落ちていく予感
蝶は小さな悲鳴を上げて、その翅を振るわせた。
そして知る。
人を乞う心を、確かな命の迸(ほとばし)りを・・・
東の空が白み始めるまでには、まだ時間があった――