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鬼灯(ほおずき)第四話
 

【姉と弟】
里での暮らしが嫌であったわけではない。
幼い頃は物事をあれこれ思う事も無かったし、日々の苦しい鍛錬も慣れてしまえばどうということはなく、その緊張感を楽しむ余裕すらあった。
歳の近しい仲間が大勢いた。自分たちの成長を見守る大人たちがいた。
でもあの里で、あの出来事があった後でも自分が暮らしていられたのは何故かと聞かれたら、自分はこう答えていただろう。
何より自分を案じてくれる人が傍にいてくれたからだ、と。
 

「左近、いつまで寝ているの? いい加減・・・・・・あら?」
朝。綾乃が板戸を開けると、既にとこはきちんと折り畳まれ、そこに寝ていたはずの左近の姿はなかった。
綾乃は訝しげに眉をひそめた後でハッと気付き、天井隅に視線を走らせた。
「遅い! 姉ちゃん」
ギ――ン
刃噛音が高く鳴り響いた。
小さな影が隠形を解き、天井隅からいきなり綾乃に襲いかかってきたのだ。影は左近であった。体格差から力負けする可能性を差し引いても、不意をつき落下に勢いを得た左近のほうに明らかに勝機はあった。
しかし綾乃も普通の娘ではない。あわやというところで懐から短刀を取り出し、相手からの白刃を鞘ごと短刀で真一文字に受け止めた。
鞘は割れ、その下から白刃が姿を現す。図らずも交わった刃と刃が軋みを上げ、力の拮抗が生じた。一度切り結んだ後、反動を利用して左近は後ろに退る。が、すぐまた地を蹴って間合いを詰め、あっと言う間に綾乃の喉元に短刀の切っ先を突きつけた。
その間、ほんの一瞬き。左近が姉の顔を見上げる。
「得物を放してくれる? 姉ちゃん」
綾乃はにんまりと笑う弟の顔を眼の端で確認すると一つ息を吐き、手にしていた短刀を床に落とした。
「俺の勝ち」
左近は床に転がった姉の短刀を拾い上げると、切っ先を喉元から退けて、鼻の下を得意げに人差し指で擦った。
「でもね――」
綾乃が低く呟く。
「最後まで気は抜かないっ」
次の瞬間、左近の手首はハシッと掴まれ、手前に引かれた。左近の体が前にのめり、視界から綾乃の姿が消える。ふわりと天地が返り、左近は鮮やかに投げ飛ばされていた。
「痛って――ッ」
しこたま背を床に打ちつけて、左近は叫びを上げる。
眼を開けて見上げれば綾乃の姿があり、その示指と中指が今にも左近の両眼を抉らんとする距離で止まっていた。
ゴクリと左近の喉が鳴る。
「形勢逆転よ」
「卑怯だぞ! 姉ちゃん」
「忍びに卑怯という文字はありません」
「ちぇっ」
この状況で地団太を踏んでも始まらない。左近は渋々自分の負けを認め、綾乃はそんな弟の姿を見てクスッと小さく笑った。
「ああ、もう、姉ちゃんにはかなわないや」
「何を言っているの。これくらいで負けを認めているようじゃ、先が思いやられるわ」
そう言うと綾乃は左近の額をペシッと叩いた。
「痛ッ」
たいした力で叩いてはいない。大袈裟な左近の言いように綾乃はついつい笑いを漏らす。
綾乃はこの歳の離れた弟が可愛くてならなかった。しかしそれをあからさまにすることはない。暖かな眼差しでその成長を見守りつつも、厳しく左近に接しているのであった。
この先忍びとして自分は大成することは無い。それを認めているからこそ綾乃は思う。
左近、もっともっと強くなりなさい、と。
自分はともかく、弟は一人前の忍びに育ってもらわなければならない。そうでなければ、この里での自分たちの居場所がない。この先生きていける保証もないのであった。
左近は負けたことが余程口惜しかったか見えて、まだ渋面でいる。勝った負けたで感情を露にしていられるうちは可愛いものである。この先――それを思うと姉の表情は微かに沈んだ。
 

それから五年の月日が流れた。
ある日、そぼ降る雨の中を左近が帰ってきた。
「・・・・・・ただいま」
「お帰りなさい。今日は遅かったわね」
その日の左近はどことなくいつもと様子が違った。水を汲み置きしてある大瓶のところまで行くと、柄杓で水を汲んでそれを一気に呷り、口元を袖で拭って――瓶の前に立ったままで身じろぎ一つしなくなった。
「左近?」
闇の帳が下りてからだいぶ時は経つ。雨のためか、初夏にしては少々肌寒い夜であった。
囲炉裏には火が入れられ、その真上の自在鍵には夕餉の材料の入った鉄鍋がかけられていた。それを綾乃は木しゃもでかき混ぜる。その手をふと止めて綾野が尋ねた。
「どうしたの? 左近」
左近はずぶ濡れであった。立った場所はぐっしょりと濡れて、地に模様を広げていた。
「さ・・・・・・」
「小楢〈こなら〉が・・・・・・死んだんだ」
前髪を梳き上げ、それを左近は鷲掴んだ。身をこちらに向かって返し、壁に背を預ける形でズズズと崩れるようにして座り込んだ。
「ちくしょ・・・ぉ」
拳でガンと土壁を叩きつける。
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!」
一発二発とそれは続く。
「左近っ」
「何でだよ! どうしてなんだよ! どうしてこんなにしてまで俺たちは此処にいるんだよ! どうして俺たちは此処でしか生きていけないんだよ! なあ! 姉ちゃん!」
「それは――」
綾乃は口篭もり、言葉を止め、眼差しを伏せた。
「左近、そのままでは風邪をひいてしまいます。火の傍へおいでなさい」
「はぐらかさずに答えてくれよ。姉ちゃん!」
コンと一つ鍋の縁を木しゃくが叩く。
「左近、聞こえませんでしたか? 此処へいらっしゃい」
いつにない姉の強い口調に左近は気圧された。もとより姉には逆らったことがない。渋々その場から立ち上がると、左近は上り端へと近づいた。
「濡れた着物を脱いで、コレに着替えなさい」
綾乃が差し出したのは、今日仕立て上がったばかりの小袖であった。
この里は自給自足を旨としている。今、左近に渡した小袖の生地も、綾乃が機で織ったものであった。この姉弟が頭領の屋敷の離れで生活することになってから何年かの月日が流れている。綾乃は屋敷の雑用をこなす傍らで、機を織ったり、畑仕事をしたりしていた。
歳を大きくして忍びとなった者の成長はたかが知れている。やはり延び盛り、幼い頃からの鍛錬による成長に勝るものはない。弟はこの里で育った。此処で生まれ育った者と変わらぬ成長を見せていた。
それに綾乃は安堵を見出す。
しかし――。感情を殺すことにまだ不慣れな弟は、ときにとても無防備になる。それに危惧を抱きつつ、同時に綾乃は冷や汗の噴き出る思いを味わっていた。
命の安堵と引き換えに売り渡したものは・・・・・・ということに思いが至ると。
左近は憮然とした表情で着替え終わると、対峙する感じで囲炉裏端に腰を落とした。
「はい」
綾乃は鍋の中身を木しゃもでひとまぜすると、それを椀によそって左近に差し出した。しかしその椀を左近は受け取ろうとしなかった。
「どうしたの? お腹空いているでしょ?」
「いらない」
「どうして・・・・・」
「そんな気分じゃないんだ!」
バン!
突然綾乃が床を激しく掌で叩いた。
「食べなさい!」
「姉・・・ちゃん?」
「どんなことがあっても、食べるときは食べないといけないの」
激したわけではない。それが証拠にその表情は苦しげに歪んでいた。一見怒っているようでいて、今にも泣いてしまいそうな、そんな表情。理由は知らない。でも自分の吐いた言葉が、とった態度が、姉を傷つけた。それだけははっきりと左近にも分かった。
「・・・・・・分かったよ。食べればいいんだろ」
姉の渡す椀を不承不承受け取り、左近は掻き込むようにしてそれを口の中に流し込んだ。
中身は穀類と名のつくものをふやかし、雑草で量を誤魔化したような粥であった。
それを立て続けに三杯食し、
「・・・・・・ごちそうさま」
と言って合掌すると、左近は箸と椀とを床の上に置いた。
「もういいの?」
「うん」
その言葉の後で綾乃は自分のぶんの椀をよそった。いつもそうだ。綾乃は左近が食べ終わったのを確認してから自分のぶんを食べだす。咀嚼を必要としないものさえ奥歯でゆっくりと噛み締め、嚥下していた。そのため綾乃はいつも食事に時間がかかっていた。
何故? さすがにこの歳ともなると、弟もそれを訝しがる。いつかしら姉の心を察するようになって・・・・・・だからもう少し食べたくても、姉のために左近は食べるのを控えるようになった。後で水でもたらふく飲んでおこう――と思う。
「さっきはごめん。姉ちゃん」
「いいのよ。小楢・・・・・・亡くなったのね。いい子だったのに・・・・・・」
「俺が――」
「ん?」
「俺が殺したんだ」
姉が瞠目する。しかしその眼差しはすぐ痛ましさに細められ、面差しは俯いた。
「そう・・・・・・だったの」
小楢は一言で言えばお節介な奴だった。他人のことなど放っておけばいいのに、それができない気のいい奴だった。でもそれは忍びの何に役立つ? 逆に邪魔なだけともいえた。蔑むものがいる。厭うものがいる。でも救われるものもいたのは確かだ。
暖かさに飢えていた。蹴落とし合う中にだって感情はある。仲間意識がある。それを何故壊そうとする?
 

今日の鍛錬はいつもと様子が違った。童衆の中から十歳前後の者たちだけが選られ、いかめしい顔をした歴々の指導者たちの前に並ばされたのだ。
童衆を教える夕香の父が子供たちに告げた。
各々の武器に毒を塗れと。
実戦だと思って互いに戦うべしと。
この里に来て初めての出来事であった。
――な・・・にッ
身が強張った。血の気がひいた。
しかしこれはこれまでもこの里で行われてきた「淘汰」の方法であった。
これまで仲間であった者と刃を交わす。生き残りをかけた戦いが此処から始まった。
そして左近はその競争に勝った。
自分の足元にほんの数刻前まで仲間であった者の姿が転がっていた。とどめが刺せない。
相手は小楢だった。
『誰・・・・・・だ?』
苦しい息の下、小楢が問うた。既に視力は無い。気配でのみ人の存在を察知している。
『俺だ』
『左近・・・・・・か』
そう言うと小楢は笑った。
『へへ・・・・・・負けちまったな』
左近はどう返事をすればいいのか分からなかった。とどめが刺せないのならこのまま捨て置けばいい。自分が苦無いに塗った毒はこの仲間の命を徐々に蝕み、いつかはその命の灯火を消すだろう。そういう種類の毒であった。
――しかし・・・・・・でも・・・・・・どうしようもない・・・・・・だが・・・・・・。
心の葛藤が続いた。そのとき小楢が言葉を紡いだ。
――何をこいつは言うのだろう?
唇が印した言葉。
オレヲ殺セ、と。
その言葉にたじろいだ。一気に血の気がひいていった。膝が可笑しいくらい笑う。
『何言って・・・・・・』
『お前だって・・・・・・分かって・・・る・・・だろ』
助からない。知っている。このままでは苦しみを長引かせるばかりだ。一思いに。そう分かってる。分かり切っている。でも手が出せない。こいつのことは煩くは感じても、嫌いではなかった。躊躇する。
気配で感じたのだろう。小楢は笑った。しょうがねえ奴といった風に。
『お前・・・・・・優しすぎッ』
――来る!
告げたのは忍びとしての勘。次の瞬間、反射的にその腕を押さえ込み、急所を穿っていた。
吐血。絶命。呆気ない最期だった。簡単に人は死ぬ。
『う・・・うああああああッ」
刺し貫いた仲間の身。心臓を一突き。その感触を掌に残したままで、苦無いから手を放した。初めて人を殺したのだった。
胎の底から込み上げてくるものがあり、嘔吐した。吐くものをなくした後も、嘔気は収まらなかった。
曇天からにわかに振り出した雨が血糊を洗う。
膝から崩れ、泥だらけなった地面に手をついて、怒りたいのか、笑いたいのか。
時間が過ぎても呆然とし、死体と成り果てた仲間の横に左近は座っていた。
『なあ・・・・・・苦しかったか?』
死体が答えるはずが無い。
命の終りと共に、体の暖かみは消えていく。冷たい雨はそれに拍車をかける。
『終ったんだな・・・・・・お前・・・・・・』
そこに座っているのは人形だったか。
だいぶ時間が経ったのち苦無いを抜いた。容易に抜けなかった。肉が金属の凶器に食い込み、それを放そうとしなかった。
腰に帯びた短刀を使ってそれを抜く。苦無いにこびりついた血糊を、酷く冷静な顔をして袂で拭う。ただ眼だけが何を映しているのか、死んだときのように虚ろで酷く淀んでいた。
 

「俺たちって、いったい何?」
「その答えは私たちでは出せないわ」
「どうして?」
「私たちはこの里に生きる者だから」
「忍びだから?」
「それが宿命なの」
「宿命って何さ!」
「今を生きていられるのは、数馬様に拾っていただけたおかげ。この里に来た以上、私たちに自由はないの」
分かり過ぎている事実。
炎の中に小枝が数本投げ入れられた。
粗朶に炎が絡まり、たちまちのうちに赤々と火は勢いを増した。
姉弟の面差しが炎に浮かび上がる。
頭領は長老たちと別棟で会合を開いている。今、此処にいるのは姉弟二人だけであった。
「生きて、生きて、生き抜いて、生き残ってこそ、やっとその意味が掴めるの」
そのために犠牲にしたものがある。
綾乃は苦味をもった残りの言葉を胸の内で呟いた。
「姉ちゃん?」
不安を覚えて左近が姉を呼んだ。
「・・・・・・何でもないわ」
――そのために心を殺しても、命を明日へ繋げていく。
そう綾乃は心に誓ってきた。小さな命を腕に抱えて、自分から親という存在を切り捨てて、ようやく手に入れた居場所であった。簡単に死ぬわけにいかない。生き抜くことこそ宿命への抗い。それを自分たち姉弟に与えた天への復讐。
――そのためなら傀儡にもなる。
左近は不安げに姉の表情を見詰めた。
 

心持たぬ傀儡。
その生にどれだけの価値を見出せるだろう。
左近は一度だけ声を押し殺して泣く姉の姿を見た。
それから暫くしてから、左近が見たことも無い表情を姉は浮かべるようになった。
 

問うたことがある。
『何で姉ちゃんなんだ?』
『さあな。理屈ではない。忍びの身でかような約束を交わす事自体、既に正気の沙汰ではないのだ。だが、会ってしまったのだよ、運命の女というものに』
『運命の女?』
『ああ、運命を共にできる女、こいつのためであればどんな修羅も厭わず生きていける、そんな女だ』
『そんなの、分かるものなのか?』
『ああ、会えば分かる。その出会い自体、既に宿命づけられたものであるからな』
『ふ――ん』
今なら分かる。だが、あのときは、その意味をまだ理解できなかった。
幼い子供の気の無い返事に苦笑しつつ、答えをくれた男は左近の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
暖かな大きな手であった。あの感触を今も左近は忘れていない。
 

糸車が音をたてて回る。
カラカラカラカラ――・・・。
 
 

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