menu雛の宴(ひいなのうたげ)3(香我美姫異聞)
「これはまた、えらく派手にやられましたね」
その時、それまで何の気配もなかった背後から、いきなり人の声がかかった。
「だれ!?」
と、香ヶ美が叫んだ瞬間、道場内の板という板が、轟音を上げて一気に吹き飛ぶ。
「手荒いお出迎えですね。これでは話を切り出す暇もありません」
そう言いながら、もうもうと砂塵が巻き上がる中を、光を浴びて姿を現したのは、武士のいでたちをした一人の見目麗しい青年であった。
その容貌から、歳はまだ十五、六といったところ。
その頭髪は元服をまだ済ませていないのか、月代を剃っていない状態である。
ざわっ
香ヶ美の黒髪が生き物のように総毛立った。
そして、まるで水の中で揺らめく水藻のように、黒髪はゆらりゆらりと意志を持って、空をたゆたいだす。
と、同時に、香ヶ美の周囲で板切れが、フワリと宙に音もなく浮かんだ。
「無駄です」
その言葉を証明するかのように、フワリと一旦宙に浮いた板切れは、男の穏やかな視線に会うと、今度は逆に床の上へ派手な音を立てて散らばった。
「私にはあなたのような力は通用ません」
「・・お前・・何者だ?」
香ヶ美が男の顔をめ睨(ね)めつけて、その形の良い眉を微かに寄せる。
その顔からはあどけなさが消え、毒々しいまでの妖気がその全身から立ち昇った。
「なかなかに美しい気ですね」
男が呑気にそんな事を呟く。
「何者だと聞いておる!」
香ヶ美は苛立ち、咆えるように叫んだ。
「まあ、そう慌てずに」
男は苦笑しつつ、その答えを香ヶ美に返す。
「私が何者か・・私自身にも分かりません。この力は既に生まれついてより持っていたものですし、それこそ気紛れに生じた能力なのでしょう。でも、だからこそこうして、あのお方のために、あなたのような特別な力を持った人間を集める事ができる・・」
「あのお方?」
「気になりますか?」
男がチラリと香ヶ美の様子を窺った。
男の態度に怒りを浸透させた香ヶ美は、
「いい加減、その思わせぶりな態度は止めろ! でなければ、この場で、お前の事を八つ裂きにしてくれる!」
と怒鳴る。
それに対し男は、
「それは困りましたね」
と、悪びれた様子も見せず、しれっ、と、とぼけるようにうそぶいた。
ギリッ
香ヶ美が奥歯を強くこすり合わる
その虹彩が次第に赤く変色しはじめた。
「では、本題に入るといたしましょうか」
そこで男が急に態度を改めた。
「お前・・」
目の前に立つ男は、穏やかさの中に、甘く痺れるような、それでいて確実に相手を死へとジワジワと至らしめる毒のような雰囲気を纏(まと)って、香ヶ美の事を見詰めている。
「失礼ながら、あなたの事は最初から拝見させていただきました」
「最初から?」
「はい」
最初からというのは、香ヶ美達親子がこの寺を訪れた時からを指して言う。
勿論、その中には、あの血の惨劇の場面も含まれている。
――こいつは・・
香ヶ美は怒りの矛先を収めかねながらも、一抹の驚きを禁じ得ず、この男そのものに興味を持ち始める。
普通の人間であれば、あのような光景を目の当たりにして、これほどまでに平然とはしていられないものである。
それを、この男はいけしゃあしゃあと、香ヶ美相手に戯言まで言ってのけた。
――面白い!
その心のありように共感を覚えた香ヶ美は、
ニヤリ・・
と、意味深な笑みを浮かべた。
「では、お前はアタシの姿をどう見た?」
「なかなか美しかったですよ。血の海に立つあなたが炎に映えて」
男はゆるゆると、その感想を述べる。
その答えに満足を覚えたのだろうか、香ヶ美はフッと視線を和ませて、こんな質問を返してきた。
「なら、お前は私を飽きさせぬ自信はあるか? 毎日を面白おかしゅう過ごさせると?」
香ヶ美の問いに、男の瞳がキラリと光った。
「我が主の元へおいでいただければ、必ずや主があなたの期待に応えてくださいますでしょう。それだけはお約束できます」
「それだけの力を持つ者なのか?」
香ヶ美の質問は執拗に続けられる。
男は別段嫌がる風も見せず、丁寧に香ヶ美の質問に応じた。
「今はまだ時機尚早につき、そのお力を発揮されてはおられません。けれども、いずれかは、天下を目指し、この乱世を血で染め上げていかれるお方・・」
男がそこで、香ヶ美にある提案を持ちかける。
「あなたが、その先行きを導くというのはどうでしょう? 闇の巫女姫」
その言葉に香ヶ美の食指が動いた。
「闇の巫女姫・・ね」
香ヶ美が低くその名を呟く。
そして、
「ふふ・・なかなか面白い趣向ね」
と、口調をまた少女のものに戻して、楽しげに声を上げた。
「気に入っていただけましたか?」
「ええ」
香ヶ美が口元に袂を添えて嬉しそうに笑う。
「それでは、ご一緒いただけますね?」
男の念押しに、香ヶ美は男の傍まで駆け寄り、零れんばかりの瞳をくりくりとさせながら、男の顔を仰ぎ見た。
「ふふふ・・その前にあなたの名前を聞かせてもらっていいかしら?」
「これは失礼しました」
男はフッと表情を和らげ、
「私の名は森 蘭丸」
自分の名と、
「清洲城主・織田信長様に仕える者です」
身分を明かした。
「ふ〜ん 清洲の殿様ね。それなら、ここ駿河とは敵対する仲じゃない。そんな身分で、わざわざここまで出向いてくれたんだ」
香ヶ美がさも感心したと言わんばかりに、『蘭丸』と名乗った男の姿を上から下へとしげしげと眺め、その周りをチョコチョコと小股で歩く。
その様子に苦笑しつつも、
「はい、そうです」
と、蘭丸は短く返事を返した。
香ヶ美がピタリと、蘭丸の前でその歩を止める。
そして、甲を上にして右手をスッと上げると、
「じゃあ、蘭丸。清洲までの案内、頼んだわよ」
と、ニコリと笑った。
蘭丸を見上げるその二つの瞳は、まだ見ぬ未来の『宴』を想像してか、妖しく濡れて光っている。
蘭丸はその香ヶ美の瞳に出くわすと、こちらもそれに負けず劣らずの蠱惑的な微笑を浮かべ、
「お任せを、我らが姫巫女」
と、香ヶ美の手を取り、恭(うやうや)しく頭を垂れた。数日後――
その日は朝から名残の雪花がチラチラと舞い落ちてきそうな、そんな底冷えのする曇り空の日であった。
昼日中だと言うのに城内はほの暗く、なんとも陰鬱な空気が城内に漂っていた。
ここ清洲城内には、不用意に人が立近寄らない一角がある。
この城の主・織田上総介信長の住まう部屋の周辺だ。
もし、何かの拍子に信長の機嫌を損ねようものなら、その者の命はない、とこの城の者は皆、承知している。
実際にこれまで信長の怒りに触れ、何人もの人間が死ぬ憂き目にあっていた。
そのいい例として、信長の守役であった平手政秀の諌死(かんし)が挙げられる。
政秀の死は表面では、信長の素行の悪さを嘆き、その責を痛感して、切腹して果てた事になっている。
だが、本当のところは、信長の秘密に深く関わりすぎたため、消されてしまったのでは、との、もっぱらの噂である。
これまで信長の傍に侍(はべ)り、無事だった者と言えば、『蘭丸』と称する小姓だけである事も周知の事実であった。
だが、この『蘭丸』に実際に会った者は、ほとんどいない。
実際に会っていたとして、その時点でその人間の記憶はすっぽり抜けている。
また、人はそれに疑問さえ思っていない。
『蘭丸』とはそんな、不可思議な存在であった。
ピチュン チュン
小鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてくる。
今日も信長は蘭丸一人を傍に侍(はべ)り、縁側の戸を開け放って、外を眺めていた。
蘭丸はその信長の背後に控えながら、主人の様子を逐一目で追っている。
「蘭丸、お前、駿府の町で面白いものを拾ってきたそうだな」
視線を庭の方に残したまま、唐突に信長が蘭丸に話しかけてきた。
「さすがは殿。もうご存知でしたか」
「ああ、昨夜鵺(ぬえ)より報告があった」
「なれば、目通りを願いたい者がおるのですが、よろしゅうございますか?」
「構わぬが、例の者か?」
「はい」
「ならば、通せ」
「御意」
主の許しを得て、蘭丸がその者の名を呼んだ。
すると、控えの間より通じる襖が開き、白い水干に緋の袴といった巫女装束を着た一人の少女が姿を現した。
少女は板の間に正座すると、手をついてその場に畏まる。
「お初にお目にかかります。『夜叉の香我美』でございます」
「そちが例の『香我美』か・・苦しゅうない。面を上げよ」
信長より目通りを許されると、『夜叉の香我美』と名乗る少女がその顔をゆっくりと上げた。
その動きにあわせて、少女の黒髪がサラサラと肩を滑っていく。
「ほう、なかなか・・」
香我美の容姿を見て、信長が微かに眉を動かした。
その瞳には感嘆の色が浮かんでいる。
だが、そこで信長は、ニヤリと意味ありげな笑みを浮かべ、
「確かに、その容姿だけでも一見の価値はあるな・・だが、わしは役立たずは好かぬ。ここへ来たからには、それなりの役には立ってくれるのだろうな?」
と、尋ねてきた。
それに対し香我美は、
「どうぞお望みのままに」
と、はっきりした声で信長に答えて返す。
更には、
「香我美は殿のお役に立つためだけにここへ参りました。そうでもなければ、なんでおめおめ己の恥を晒しに、清洲まで参りましょうか。今後も殿のご期待に添えますよう、精進いたしますので、どうぞ香我美を存分にお使いください」
と、付け加えた。
信長はその口上に対して、小娘が小賢しい、とでも言いたげに、フンと小馬鹿にしたような態度をとったが、香我美の、歳に似合わぬ、そのはっきりとした物言いを気に入ったのであろう。
「して、お前の力とは何だ?」
と、重ねて香我美に尋ねてきた。
「先見を少々・・あと、人形(ひとがた)操りと呪詛全般を行えます」
香我美は信長の問いに対して、静かに事実を述べる。
「先見の力だと!?」
その答えに信長が思わぬ興味を示した。
「そうか・・先見の力か・・くくく・・それは重畳(ちょうじょう)・・」
信長は一人含み笑いを漏らしながら、香我美の方を振り返ると、
「ならばその力、わしのために存分に揮うがいい!」
と、その力の行使を下知した。
香我美はその場に平伏しつつ、
「仰せのままに」
と、静かに答える。
そして、下げた頭の陰で、その黒い瞳の中に深紅の瞳孔を揺らし、妖しく艶やかに微笑していた。そして、その年の五月十九日。
石氷をなげうつような大驟雨(だいしゅうう)の中、信長は軍勢二千五百余を率いて、今川義元の本陣を眼下に見下ろす太子ヶ根の丘陵に立っていた。
未の刻(午後二時)。
雨の止んだのを見計らい、信長は今川義元の本陣に向けて一斉攻撃の下知を放った。
世に言う、『田楽狭間の戦い』の始まりである。
これより時を遡(さかのぼ)る事、辰の刻(午前八時)、熱田の宮で信長が戦勝祈願文を社前に奉ったところ、社の奥の方から物の具や馬のくつわの音がした、と伝えられている。
一方義元の方は、安部川にさしかかった時、直載という出家の亡霊が現れたとも、駿府出立の後、駿河の総社・浅間大明神の使いの白狐が、社の前で死んでいたとも、伝えられる。
これらは全て、吉凶にまつわる後世のつくり話かもしれない。
だが、この戦いの最中にも、この世のものとは思えぬ光景が繰り広げられたという。
斬っても斬っても立ち上がり、こちらに向かって襲いかかってくる屍の兵士達。
それを相手する今川勢は、恐怖に血走った目でそれらを見詰め、事切れるその瞬間まで、手にした刀を振り回しながら、絶叫していたとの話である。
かくして義元の首は、しとど雨に濡れた桶狭間の土くれの上に落ち、戦いは信長の圧倒的勝利で終わった。
今川の大軍を相手に、鮮やかな奇襲劇で勝利を勝ち取ったという信長。
その信長の陰に、闇の巫女姫・夜叉の香我美姫の姿があった事は言うまでもない。ふふふ・・
今日も闇で誰かが微笑む。