menu雛の宴(ひいなのうたげ)1(香我美姫異聞)
闇に笑む者あり。
其はこの地に禍(わざわい)をもたらす者なり。
人の世に戦乱を呼び、血と屍で大地を覆い尽くす者なり。(異端抄より)
永禄二年――。
当時、駿河、遠江、三河の三カ国を治めていた今川は、足利源氏の末流で、関東管領上杉家とも姻戚関係にあり、古くから『海道一の弓取り』の家と称されていた。
歴代の当主達は武勇の誉れ高く、戦国武将としての力量を遺憾なく発揮する一方で、風流を解する才覚も持ち合わせ、現当主・今川義元も京の雅をこよなく愛した事から、近年その領国には京の文化が流れ込み、首府・駿府はさながら小京都の賑わいを見せていた。
その頃、帝の御座する都はというと、応仁の大乱以降も度重なる戦乱のため復興のめどが立たぬまま荒廃を続け、貴族達は荘園からの収入も滞りがちな事から家財道具を切り売りしてやっと日々の糧を得ているような惨状にあった。
ここ駿府城下でも、戦の難を逃れ京より下向してきた公家達が、逼迫(ひっぱく)した台所事情から、やむなく自分達の持ち物を手放す機会があり、そういった公家達の品々は、一部裕福な商家へも流れるに至っていた。その年の立春も過ぎた頃の事。
「旦那様」
「どうかしましたか?」
歳若い手代の言葉に、部屋の中から落ち着いた年配の男の声で返答があった。
手代は廊下の外で畏まったまま、事の用件を主に告げる。
「前月、茶会の席でお話のありました三条様との御約束の品、ただ今到着いたしましたが、いかが致しましょうか?」
その言葉に、部屋の中で人の立ち上がる気配があった。
ほどなくして障子がスス――っと音もなく開けられる。
「ようやく届きましたか。いつ届く事かとやきもきしていましたよ」
そこに姿を現したのはこの駿河屋の主・庄五郎であった。
彼はこの時代需要の高いものの一つである毛皮の商いに目をつけ、その知力と胆力により、今では今川家とも直接取引に応じる大きな商家へと己の店を発展させてきた男である。
これまで苦労を重ねたせいか、歳のワリに髪には白髪が目立ち、顔にもかなりの皺を刻む。
顔立ち、物腰はいたって穏やか。
だが、その双眸は先の先まで物事を読み通すような鋭さがあり、どうしてどうしてその才覚には侮れないものがあった。
その彼が珍しく相好を崩して言う。
「荷はここへ運んでください。壊れ物ですから大切に扱うのですよ。それから・・香ヶ美に・・娘にここへ来るよう家内に伝えてください」
「畏まりました」
主人の命を受けて店の者が部屋を後にすると、暫くして部屋の畳の上には紫紺の風呂敷に包まれた荷が横一列に整然と並べられた。
「ととさま・・」
そこへ赤い着物を着たおかっぱ頭の少女が、手に毬を持ってちょこんと姿を現し、庄五郎の方を見た。
「ごようじって――」
少女の瞳に父親の前に置かれた品々が映る。
途端、
「い・・いやああ――ッ」
幼い少女は悲鳴を上げて、手にしていた毬を板の間に落とした。
「どうしました香ヶ美?」
父親が怪訝顔で娘に尋ねる。
娘は首を横に振ってイヤイヤするばかり、声さえ出せぬ怯えようを見せていた。
「何をそんなに怯えているのですか? あなたもこちらにきて一緒に見なさい。これはととさまがあなたのために、名のあるお公家様からわざわざ譲り受けたものなのですよ」
目の前に置かれた品々は、父親が五歳になる愛娘のために、三条家ゆかりの者から大金を積んでまで買い上げたもの、せめてこの手で娘の手に直接渡してやりたいのが親心であった。
だが、当の娘は父親からの誘いに応じる気配は一向になく、ただ蒼ざめた顔で廊下の間に立ちつくすばかり。
しまいにはその零れんばかりの大きな瞳に、涙まで浮かべる始末であった。
――この子は少し人様の子とは違ってますからね・・
いよいよ持って父親の溜息は深くなる。
少女は、白磁器のような白い肌、黒々と濡れたようなつぶらな瞳、ぽってりと紅を差したようなちいさな口・・と、この歳にして既に、人目を引くような美しい容貌をしていたが、生まれつき霊感が強く、他にも特異な力を持っていて、そのせいか、どちらかといえば引っ込み思案な少女であった。
――どうしたものでしょうか・・
思案に暮れながらも父親は、せめて・・と、その包みを解きにかかった。
上品な紫紺の風呂敷の中から、大・中・小三つの白木の箱が取り出される。
大・中二つの箱については、十字にかけられた紫紺の組み紐を解くだけで、その中身は簡単に取り出せた。
大きい箱には、鏡、長持ち、絹布団、箪笥、琴、碁盤、貝合わせといった雛遊びに使われる塗りの雛道具が、中くらいの箱には、同じように雛遊びに使われる雛衣――つまり雛人形に着せるための衣装が入っていて、そのどれもが古式ゆかしく品があり、手にとる者の眼を楽しませる。
「ほら、香ヶ美、見てごらんなさい。素晴らしい出来栄えでしょう。 これらは皆、都の姫様達が使う本物なのですよ。今からはあなたが使うのです。どうですか?」
そう言いながら父親は、残された小さな箱の方に手を伸ばした。
「うん? これはまた仰々(ぎょうぎょう)しいですね」
最後に残された小さな箱。
その中にこそ、人形が入っているはずなのだが、この箱にだけは何故か何枚も張り紙がなされ、厳重に封がされている。
張り紙の多さに父親は閉口しつつも、さすがは由緒ある公家の持ち物だけの事はあると一人で納得し、その張り紙の一枚一枚を丁寧に剥がしにかかった。
その小さな箱を見るや、香ヶ美が怯えを更に強くする。
「いや・・ととさま・・」
その怯えようは尋常ではないのだが、豪華な雛道具の数々に目を奪われた父親に、恐れ戦(おのの)く娘の姿が気付けるはずもなかった
「開けないで・・おねがい・・」
震えるように紡がれる幼い少女の声。
だが、その願い空しく、糊付けされた張り紙は全て剥がされ、白木の箱は父親の手によって簡単に開けられてしまう。
「!」
そこで香ヶ美の意識は途切れた。――深夜。
香ヶ美はふと、異様な息苦しさに目を覚ました。
「・・・?」
上半身を起こそうとしたが、体は硬直して少しも身動きができなかった。
自分の両側から両親の安らかな寝息が聞こえてくる。
(かかさま! ととさま!)
声を張り上げたいのに、舌そのものが喉の奥に張り付いてしまったかのように、声すら出せないでいる。
香ヶ美は息苦しさと心細さから両眼を涙で潤ませながら、そろそろと視線を雪見障子の方に転じてみた。
この少女特有の感覚で、そちらを振り返ってはいけない事は分かっていたが、まるで吸い寄せられるかのように、視線を廊下の方へと向けていく。
障子越しに淡い月明かりが部屋の中へと射し込んでいた。
そこに佇む一つの影。
「ひッ・・!」
香ヶ美の喉から、引きつれた声にならぬ悲鳴が漏れる。
目を背けたいのだが、不可思議な力によって瞬きさえもままならない。
少女は恐怖に戦きながら、その影をじっと見ていた。
影は女のもの。
長い髪が流れる滝の如く様相で肩から腰、更にその足元まで伸び、その頭上には冠らしき形が見て取れた。
その影がキシリ・・と足音は一つも立てずに、衣擦れの音だけを残しつつ、ゆっくりと移動を始める。
コトッ、と小さな音がして、障子がほんの少し、開いた。
途端、影は消え失せる。
すっ・・と何かの入ってくる気配があった。
畳の上を衣擦れの音がこちらに向かって近づいてくる。
そして、いきなり仰向けに寝ていた香ヶ美の胸の上に、ずしり・・と重みがかかった。
「くる・・し」
その重さに耐えかねて、香ヶ美は思わず声を漏らす。
父親の部屋で微かに感じたアノ嫌な感じ・・それが今、はっきりとした形をとって自分の上に乗っていた。
「あ・・」
それは身の丈八寸ほどの人形。
父親が自分のためにわざわざ手に入れてくれた雛人形であった。
この当時の人形は目も鼻も口も無いのが普通だ。
だが、香ヶ美には見えた。
人形の背後にいる異形のもの。
それが、ぽっかりと空洞になった目で香ヶ美の事を見下ろしていた。
月明かりで白む部屋の中で、そこの空間だけがどす黒く闇色に滲(にじ)み、邪悪な気が無数の蛇のように蠢(うごめ)いて、なにやら香ヶ美を見詰めながらニヤニヤと笑っているようにさえ見える。
――あなた・・綺麗ね・・
その時、人形がはっきりとした意志を持って、香ヶ美の意識に直接言葉を語りかけてきた。
――アタシ・・綺麗なものって大好きなの・・
それは、まるで爬虫類が獲物を前にして舌なめずりしているような感触でもって語られる。
――綺麗なものをズタズタに引き裂く瞬間の・・うふふふ・・あの感触・・あの断末魔・・忘れられないのよねぇ・・
その甘やかな口調の中に、底知れぬ悪意を感じた香ヶ美は、上下の歯をガチガチと震わせながら、恐怖の余り泣き叫ぶ事さえもできず、ただただ涙をその双眸から流し続けた。
――でも・・
そこで相手の口調が少し変わる。
――あなたは見逃してあげる・・
心底楽しそうな声。
まるで、楽しい遊びを思いついた子供のようなはしゃいだ声が、幼い香ヶ美の脳裏に響く。
――ホントあなた綺麗だもの・・だから・・
そこで突然言葉が途切れた。
と、同時に、ス――っと香ヶ美の首筋に、生暖かい風が入り込んできた。
「なに・・す・る・・の」
香ヶ美がうめくように声を上げる。
「くく・・」
すぐ耳元で誰かが笑った。
その声が、主人に対し物をねだる猫の泣き声のような甘ったるさで、幼い香ヶ美に囁いた。
「だから、この体、アタシにちょうだい・・」
それは、思念の時とは似ても似つかぬ醜い声。
しわがれた、非常に不快をあおる、甲高い声であった。