menu花と風と1(琥珀の時外伝)
厳寒期を終えようとしている阿須波道では、相変わらずの底冷えする気候と、峠に降り積もった雪とに行く手を阻まれ、滅多にこの時季この道を往来する者はいない。
だが、どの時代においても商魂逞しい商人は存在していたし、戦ともなれば戦火を逃れ諸国を渡り歩く難民は後を絶たなかったから、冬期でも近江に、またはその逆、伊勢に急ぎ向かう者が峠を越える。
その際、冬の間に腰の辺りまで降り積もった雪を掻き分けて、標も無い道を唯黙々と歩いていかなければならない。
伊勢国坂之下と近江国土山との間に跨る峠――それが此処鈴鹿峠、その名は箱根と並ぶ難所として知られていた。
その難所を近江に向けて白い息を吐きながら懸命に歩いていく二人連れがいた。
この際詳細は省こう。暖のため表には獣の毛皮を半纏風に縫製したものを羽織り、頭には菅笠、旅装束の左近と綾女である。
二人の違いは所持している太刀の種類にあった。
片方は太刀を斜交(はすか)いに背負い、片方は小太刀を腰の後ろに帯びている。
「おい」
「ああ・・」
二人の間で短い会話が交わされる。説明の必要も無い。
見たままの光景――峠道で旅人が度々出合う盗賊の類が、今、一人の旅人を襲っていた。
服装から推測するに旅人は香具師。それに対して盗賊は五人――いずれも刀を手にした体躯のいい頑強な男達である。
まるで猫が鼠をいたぶるような調子で、盗賊は一人の香具師を追い回している。
香具師も細身で身軽なためか、雪の中ほうほうの体(てい)で逃げ惑っている。
だが多勢に無勢、香具師の身が野党の手に掛かり、切り伏せられるのも時間の問題であった。
刀身がぎらつく。
今まさにその切っ先が香具師の背を捉えようとした時、
ガキィ――ン
鋼と鋼とがぶつかり合う軋音が雪野原に響き渡った。
「多勢に無勢・・武士崩れとはいえ、男気の欠片も持ち合わせておらんとは、いささか興醒めだな・・」
凶刃を受け止めたのは左近。
なんと左の前腕部分で盗賊の繰り出した渾身の一撃を難なく受け止めている。
手甲の部分に金属を仕込んであるので怪我はない。
その気迫だけで大の男がびくりと戦(おのの)き、相手の腕に当てた刃先を慌てて引く。
左近が大丈夫かと雪の上に倒れていた香具師の体を助け起こし、その身を後ろ手に庇う。
邪魔者は、見れば女かと見紛うばかりの優男、獲物を取り上げられて盗賊達はいきり立った。
「でや――っ」
多人数に勇を得て、お頭以外の四人が一斉に刀を振りかざし左近に飛び掛かる。
左近はやれやれと言いたげに嘆息すると、間合いを詰めた相手にギンと鋭い眼光を放ち、鞘から瞬時に刀を抜いて、右に左にそれを振るった。
動体視力に長けた者であれば、その刀の流れに雄雄しく翼を羽ばたかせる鷲を髣髴させたかもしれない。
優美にして力に満ちたその太刀筋――ただし、その剣は今回、血しぶきを目的として振るわれた訳ではなかった。
斬られたはずの男達は、純白の雪の上に倒れ伏し、それぞれ打たれた所を抑えながら悶絶している。全て峰打ちで片付けられていた。
それを見て怖気づくかと思いきや、逆に盗賊の頭は顔を真っ赤にして憤怒した。
余りにも不甲斐無い子分達の様に――この場合相手が悪すぎただけなのだが――、屈辱感の方が勝ってしまい、力量の差を認めるという現実を忘れてしまったのかもしれない。
刀を大上段に構え、怒号と共に、頭は左近に迫ってきた。
その間に割って入った人影――
上段から迫り来る太刀を、体を左に捌(さば)きながら受け流し、素早く懐に飛び込んで喉元に煌くものを繰り出す――その刹那、
「やめろ! 綾之介!」
左近の厳しい制止の声が飛んだ。
その声と共に、影の繰り出した小太刀の先が、ピタリと頭の喉元で止められる。
小太刀の先が皮膚を突き破る寸前の距離にあった。
一瞬何事が起きたのか分からなかった頭であるが、喉元に突きつけら得た物が自分の命を
奪う凶器であった事に気付くと、額から滝のような冷や汗を流した。
見ればまだ少年とも見紛う華奢な体つきの剣客。
だがその殺気にただならぬものを感じ、頭は思わず凶器を当てられた喉元を鳴らす。
「た、助けてくれっ!」
大の男が自分より華奢な者を相手に情けない声を振り絞り、助命を乞う。
「放してやれ・・」
左近の二度目の言葉に、その者は小さく舌打ちし、しぶしぶ手の物を鞘に収めた
「・・命拾いしたな」
殺気を秘めた、凄絶な色香が仄かに漂う。
何の事はない、その剣客こそ左近と旅を共にする綾女その人であった。
何故かその瞳が暗く淀んでいる。
「命惜しくば、早々に去れ!」
左近の一括に無法者達は後ずさり、まだ思うとおりに動かない体を引きずりつつ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「そなたもこの先気を付けて行かれよ。後の道は下りばかりが続く。大儀もなかろう・・ただし今見た我々の事、一切他言無用に願いたい。我等も先を急ぐ身なれば、これ以上の面倒は御免被(こうむ)りたい」
残された香具師に、釘を刺す事も左近は忘れていない。
香具師は丁寧に礼を述べると、書に何かを認(したた)め、二言三言小声で左近に囁き、要らぬと断る左近の袂に何かを無理やり差し入れ、坂之下宿向けて峠を下っていった。
怪訝顔でそれを見送る左近――だがすぐに相方の事が気に掛かり、綾女の方を振り返る。
そこには明らか不満顔の綾女が佇んでいた。
左近が深く嘆息する。
「綾女いい加減にしろ! あのような雑魚を本気で相手して、どうするというのだ!? 我等の素性が、何処でどう噂になるやも知れぬと――」
「放っておけばあの者達、また人を襲う。面白半分に人の命を奪う。それくらいなら、あのまま引導を渡してやれば良かったのだ!」
綾女は左近の話を聞いているのかいないのか、まともに顔も上げないまま、吐き捨てるように言葉を放つ。
その態度に左近の右眉がつり上がる。
ずかずかと歩きづらい雪の上を綾女の方へと迫ってきた。
綾女が気配を感じ、訝しげに顔を上げる。
パシッッ・・
左近の張り手が綾女の左頬に飛んだ。
「どうかしているぞ、此処の所のお前は!!」
左近が本気で心配している。怒りもその一点に凝縮されているのだ。
それでもなお当の綾女は、打たれて向いた方に顔を背けながら、左近に反抗する。
「大きな世話だ! 私の保護者ぶるな!」
その言い草に、さすがの左近も堪忍袋の緒を切る。
「それなら、これ以上何も言わん! 勝手にするがいい!!」
そして、ふてている綾女を置いて、さっさと自分は雪道を歩き出してしまった。
綾女が慌てて顔を上げ、その姿を目で追う。後ろ姿が綾女を拒絶しているように見えた。
呆然とその後姿を見送りながら、綾女の頬を何故か涙が伝う。
――分からない・・自分でもどうしていいのか分からないのだ! 左近・・・
左近は振り返らない。そして知らない――切なげに自分を見詰めている、綾女の孤独を秘めた憂いの瞳を・・・日もとっぷり暮れた頃近江国石部に着いた。
二人は荒れ果てた寺の庫裏に勝手に上がりこみ、火を起こして、囲炉裏の火を間にして向かい合う形で座っていた。
左近が囲炉裏に掛けてある鍋の蓋を取って、中身をかき混ぜる。
鍋の中には、なけなしの材料を突っ込んだ味噌雑炊がぐつぐつと音を立てて煮えていた。
夕餉を準備したのは左近であった。
一人旅が多かったせいか、それとも生来のものか、左近は意外とまめな所がある。
綾女はというと、此方は心此処にあらずといった感じで、食事する事さえ忘れているような状態である。
綾女は火から少し離れた所で、柱を背に膝を抱え込んで座っていた。
踊る火を目で追いながら、その実、瞳に何も映していない。
二人は峠の頃から、お互い一言も口を利いていない。
だが二人で旅を続けている以上、いつまでも黙っている事など不可能な訳で、先に言葉を口にしたのは左近の方であった。
「食うか・・」
たった一言、それだけ――
「要らぬ」
綾女の方も一言そう答えただけで、後はふいっとそっぽを向いて、また黙り込んでしまった。
「・・そうか」
左近は溜息と共に言葉を漏らす。
自分だけ夕餉を済ませると、左近は残りに蓋をして囲炉裏から下ろし、板の間の隅に鍋を置いた。
そして、やおら立ち上がると、自分の太刀を持って外に出て行こうとする。
「何処へ行くのだ? こんな日暮に・・・」
綾女が気配に気付き、不思議そうに左近を仰ぎ見る。
左近もその声に綾女の方を振り返るが、黙って綾女の顔を見詰めるばかりである。
――?
左近の瞳が火の揺らめきを映し、一瞬苦悶の表情を浮かべた。
「お前には・・関係ない」
そう一言言い置くと、黙って戸を開けて、左近は出て行ってしまった。
木戸が大きな音を立てて閉められる。
何もかもをその中に置き去りにするように・・・未練を振り切るかのように・・・
一人残された綾女は呆然とする。
結局その夜は一人まんじりともせず過ごし、綾女はようやく明け方に近づきた頃、浅い眠りに落ちた――
戸の開けられる音がし、寝付き始めていた綾女がふと目を覚ます。
左近が帰ってきたようだった。綾女は心なしかほっとする。
だがそれも束の間、左近が自分の傍を通り過ぎる際、綾女はその衣に芳しい女の残り香を嗅ぎ取った。
全身に戦慄が走る――絶望とも怒りとも形容できるどす黒い黒炎が逆巻き、ちろちろとその炎の舌先が心を舐(ねぶ)ってくる。
――仕方ない・・でも許せない・・
この気持ちは何を意味するのか?
――醜い心の歪
綾女は寝た振りを続けながら、更に瞼を硬く閉じる。
脳裏に浮かんだ二文字を心で呟きたくはなかった
――浅ましきは我が身かな・・・
そんな一小節が浮かんだ。
そんな折、左近が億劫そうに板の間に足を投げ出して座り、柱に体を凭せ掛けて何かを口ずさみだした。
「射干玉(ぬばたま)の夜(よ)・・紐解き放(さ)けて・・・かき抱(むだ)き・・寝(ぬ)れど飽(あ)かぬを・・何(な)どか吾(あ)がせむ・・・山の辺(べ)の・・若かへるでの・・もみつまで・・寝もと吾(わ)は思(も)ふ・・汝(な)は何(あ)どか思(も)ふ・・・※」
左近にしては珍しい、当時の流行歌であった。
誰かの事を思って、口ずさんだ歌なのだろうか?
釈然としない心地のまま、綾女は体を火照らせた。
――自分は知っている・・この疼きを
綾女は今ほど、自分の身が女である事を恨めしく思った事はなかった――※ 注釈:夜の紐を解き放ち、掻き抱いて共寝をするけれども、何度契っても足りないのを、一体私はどうしたらいいのだろう。山の辺りの若かえでが、青い葉を深紅に色付かせるまで、お前と共に寝ていたいと私は思うのだが、お前はどう思っているのか――東歌より一部引用。史実にありません。