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愚者の夜
 

作者注:
・左近が、一言で言って壊れています。
・原作のイメージと隔絶している可能性が高いです。
それでも許せる、という方だけご覧下さい。お願いします。
 
 
 

 湿り気を多分に含んだ風が鳳来洞の中へと吹き込んできた。
 外では五月の雨が降っている。暗灰色の雲がぶ厚く空を覆い、まだ日中であるにもかかわらず外は暗かった。
 この雨はもう数日も降り続き、雨の臭いも既になじんだものになって余程意識しなければ嗅覚に捕らえられることがない。
 ただ、空気だけが重かった。
「左近……」
 綾女が呻いた。
 男の前で男装の娘は立ちつくしていた。座ったままの男からすれば見上げる形になる娘の顔色は、いま紙より白い。
 湿度の高さとは裏腹のひからびた声で綾女が続けた。
「お主、気が触れたか?」
 男は口の端を持ち上げて言った。
「そうかもしれんな」
 綾女の頬が紅潮した。からかわれたと思ったのだろう。
 自分を睨みつけてくる鋭い視線を受けて、左近はいったん閉ざした口を再び開いた。
「俺は確かに正気ではないかもしれぬ。
 だが、狂人の本気というやつはたちが悪いということだ」
 綾女の顔が再び血の気を失った。
 赤くなったり青くなったり忙しいことだと、左近は奇妙にしみじみと思う。
「左近、お主……」
「お前にとっては」
 綾女の言葉を男は遮った。作り笑いを浮かべて語る。
「お前にとっては、まともな人間の冗談であった方が余程幸いだったろうが、あいにく俺はまともでもなければ冗談を言っているわけでもない。
 ──綾女」
 男は笑みを消した。
「選ぶのはお前だ。嫌ならいやと言えばいい」
 女の瞳に怒りの色が浮かんだ。だが、その顔色は先ほどのように紅潮することはなく、青ざめたままだった。
 綾女の背後で、雨は降り続いている。
 

 ここまでのすべては左近の予想どおりだった。むしろ、計画どおりと呼んだ方が正しいかもしれない。
 おそらく、この先も自らの予測から大きく外れるような反応が綾女から返ってくることはないだろうと、男は考えた。
 左近は綾女に言ったのだ。
『どうしても自分に戦えと言うのなら、引き換えに一夜をともに過ごせ』。
 この最低の申し出と、それに続くであろう最悪の行為を男は思い描く。すべてが予想の範囲内で進むなら、己が何を失い何を得るのか、男はわかっているつもりだった。
 わかっていて、左近はその取引を口にした。
 綾女が息を吸い込んだ。湿った空気は今の彼女にとってひどく苦いかもしれない。
「『選ぶのは私』だと? あんな条件を出されて私に断れると思っているのか!」
 むしろ悲鳴に近い叫びを、左近はどこか遠くの声のように聞いていた。
「この戦いにはこの世の命運がかかっているのだぞ。私に断れると本気で思っているのか!?」
 思っているはずがなかった。綾女にこの話を断れないことは百も承知だ。
「断る気がないというならば、おとなしく覚悟することだな」
 綾女の声どころか自分自身の心さえ遠くのものに感じながら、男は言葉を発した。
 女はいったん息を詰め、やがて、呻いた。
「……卑怯者」
 左近は思わず笑った。
 極めて適切な表現だった。少なくとも、男にはそう思えた。
 男のやり方は、確かに卑怯だった。これは絶対に断れるはずもない条件での『取引』だ。
 それでも、左近にとて言い分がないわけではない。
 男は言った。
「卑怯とは言うが等分の交換だとは思わぬか? 俺は命を差し出す。その代わりにお前は──」
 男は手を顎に添えて考える振りをした。
「むしろ、俺の方がまだ不利益をこうむっている気がするほどか」
「誰も死ねとは言っておらぬ!!」
 綾女の声が岩壁に反射する。
 左近は視線を上げると、立ったままの彼女をまっすぐに見上げた。
「お前は本気でそう信じているのか? この戦いの後も生き残ると?」
 びくりと女が肩を揺らした。そのまま固まり、口ごもる。
 男はこの反応こそが彼女の答えなのだろうと思った。
「死ぬことがわかっていながら、お前は何故戦う?」
「死ぬと決まったわけではないと言っている。
 伝承が真であれば、三振りの刀が揃いさえすれば」
「それが『さだめだから』か」
 男は思わず苦い息を吐き出した。
「そんな怪しげなものに自分の命を賭けられるものか?」
「お主は考え違いをしている」
 綾女が眉をひそめた。
「私はさだめに命を賭けようとしているわけではない。この世を救うためと思うからこそ戦うのだ」
「大層な話だ」
 男が軽く笑うと、綾女はまなじりをつり上げた。
「ならば、お主は何になら命を賭けられるというのだ!」
「何を今さら」
 愚問だなと、男はひどいことを考えた。だが確かに、女の問いは愚問に近かったように思う。男は言葉を続けた。
「あんな条件を持ちかけた俺に、それを聞くのか?」
 綾女がぐっと息を詰めた。
 男は言う。
「今の問いの答え、お前はすでに知っているはずだぞ」
 綾女は顔をゆがめた。
「理解できぬ」
 綾女の言葉が男の中で自嘲の衝動を呼び覚ました。左近にとっても自分の言動は正気で理解できる範疇を超えている。綾女がわからないのも無理のないことだと思った。
 笑った男を綾女は誤解したようだった。女は再び、不快感もあらわに問いを放った。
「何がおかしい?」
「いいや。何も」
 だが綾女、と左近は言葉を繋いだ。
「そろそろ交渉に入りたいものだな。話をいつまで逸らしたところで逃げ道はないぞ」
 男の言葉が図星を刺したのだろう。綾女は立ちすくんだ。
 その隙に追い打ちを掛けるように左近は言葉を重ねた。
「何も心までよこせと言っているわけではない。お前にとっても悪い話ではなかろう」
 綾女は二の腕を握りしめ、顔を背けた。その手が小さく震えていた。
 こんな彼女を、未だかつて男は見たことがない。
(もし、俺が正気なら……)
 男は思った。
(もし俺が正気であれば、ここで思いとどまるのかもしれんな)
 だが、男にはやめるつもりがなかった。自分は正気ではないという言葉を言い訳にして。
「どれだけ壁を見つめたところで答えは出まい」
 綾女は肩をふるわせて、男に目を戻した。
「本気なのか?」
 尋ねる声も震えていた。
 わざとらしいほどに左近ははっきりと溜息をつく。
「正気ではないかもしれん。だが本気だ。何度言わせれば気がすむ?」
「どうしても、か?」
「次の戦いに俺が必要ないというのなら、何も無理をすることはない」
「お主はそうして私の覚悟を試す気なのか?」
 は、と男は思わず声に出して笑った。
「愚かなことを。俺がお前の覚悟を試したところで、なんになる?」
「それは私の台詞だ。こんなことを私に求めて、お主にとってどれほどの意味があるというのだ!」
 泣き出す寸前の声で綾女が叫んだ。

 ──この行為にどれほどの意味があるというのか。
(例え語ったところで、綾女には理解できまいな)
 男は自分の手に視線を落とし、思った。
 仮にこれが、純粋な欲望のままに関係を求めた結果なら、まだ綾女にも理解できるかもしれない。
 一夜限りのこととはいえ、関係を持った女を護るためなら戦う気にもなると言えば、多少は筋が通って聞こえるのかもしれない。
 もしも彼女に対する想いを告げたなら、それが綾女にとってはわずかな救いになるのかもしれない。
 今のままでは、自分の行いは綾女にとってただ許し難いだけのものになるだろうと男は思う。このまま、ただ条件を突きつけ、取引という言葉で押し通すなら、事がすべてすんだ後に彼女が抱くのは、深い傷と憎しみだけに違いない。
 そのとき、綾女は左近を一生許さないだろう。
 そうと知っていても男に思いとどまるつもりはなかったが。

「左近?」
 綾女の声に男は我に返った。
 手元から彼女の顔へ再び視線を上げると、綾女は柳眉を寄せて男を覗き込んでいた。その表情に先ほどまでのような怒りは薄く、彼女はむしろ何かを訝っているようだった。
「左近。もう一度聞く。お主はどうしてこんなことを言い出す気になった。
 何かわけがあるのだろう?」
 綾女の黒い瞳に浮かんだ輝きの深さに、左近は一瞬呑まれそうになった。
 思わず、洗いざらい語ってしまいたいという男の中で衝動がわき上がった。その瞳を見つめていると、語れば許されるのではないかというあり得ない想いまで胸をよぎる。
「綾女……」
 男は、口をついて出そうになった言葉をすんでの所で押しとどめた。わずかに首を振り、無理矢理言葉を繋ぐ。
「お前には、わからん」
 綾女は眉をひそめた。
「なに?」
「お前にはわからぬ。そもそも、聞いたところでどうなる。そのワケとやらを聞けば、お前は俺を受け入れられるとでも言うのか?」
「それは……」
「仮にどんな理由があったとしても、お前は俺を許せはすまい?」
 綾女は押し黙った。
 男は詰めていた息を吐き出した。
「心までよこせと言っているわけではないと、俺は言ったであろう? 理解して欲しいわけでも、許しを求めているわけでもない」
(むしろ……)
 男は考える。
(むしろ、綾女が死ぬまで俺を許さぬというなら、それこそが俺の望みだろう)
 男の予定どおりにすべてが運べば、綾女が男を忘れることはないだろう。
 綾女の記憶に、例え憎むべき相手としてであっても、彼は男として刻まれる。
 だからこそ左近はこの暴挙を自分で止められない。
 こんなことをせずともおとなしく安土に向えば綾女が自分を忘れるはずがないことは、左近にもわかっていた。さだめのためというならいざ知らず、綾女のためであれば自分の命を惜しむ理由もなかった。綾女を死なせるつもりなど、左近にあろうはずがない。
 本来なら、初めから魔神復活を阻止するのに取引など必要ないのだ。
 けれど、左近には自らが綾女にとってのただの仲間で終わることが耐えられなかった。他の者と同列に置かれることにも、穏やかに振り返られるだけの存在になることにも耐えられなかった。
 男が彼女を特別に思う、そのかけらほどでも良いから、自分に特別な想いを向けて欲しいと、男は心から望んでしまった。特別であれば、それが憎しみでも良かった。
 どれほど望んだところで愛してもらうのは容易くないのだ。けれど憎まれることなら、それほど難しくない。そう思ったのだ。
 

「このままでは堂々巡りのようだな」
 呟き、男が動いた。
 左近は立ち上がると一歩綾女に近づいた。
 近づかれた方ははっと息を呑んで近づかれた倍の距離をうしろに下がった。
 左近は足を止めた。
「逃げる気か?」
 綾女の足も止まった。
 綾女の背後に見える外では、雨足が弱まりつつあった。
「いい具合に雨もやみそうだ。いっそ、このまま帰るか?」
「それは、出来ぬ。わかっているだろう」
 綾女の視線は彼女自身の足元に縫い付けられていた。
「ならば、いっそ無理に犯された方がましか?」
 ギョッとしたように綾女がさらに半歩引く。
 その綾女の腕を男は捉えた。掴んだ手を強く引く。
 蒼白な面もちで綾女が左近を見上げた。黒い瞳が見開かれたまま凍りついている。
 男は目を細めた。
「どうする? お前がおとなしくしていればそれなりの扱いはするが?」
 言った直後に、綾女が男の腕をふりほどいた。左近の頬を容赦のない平手打ちが見舞う。
「貴様はっ」
 綾女が怒鳴りつける。
「貴様はただ私を辱めたいのか!?」
 綾女は怒りを持て余すように拳を握りしめた。荒れた息で肩が上下した。
 左近は彼女から目を逸らし、はたかれた頬を手の甲でぬぐった。爪がかすったらしく、ぬぐった手にはわずかに血の痕がにじんだ。
 左近は息を吐き出した。
「気がすんだか?」
 自身でも冷たいと思うほどに乾いた口調で男は言った。綾女は機先を制されたのか、握った拳をわずかに開いただけで、言葉を失ったようにただ男を見上げていた。
 男は血のついた手を見つめた。
「それとも、これをお前の答えと思っていいのか?」
 綾女の顔色が変わった。
「左近、それは……」
「俺に次の戦いに来る必要はないと、お前は言うのだな?」
「ち……」
 違う、と言いかけたのだろう。綾女が口を覆った。
 その言葉をいま発してしまえば、その先について来るものがいったい何なのかを彼女は確かにわかっていた。
 男は無言で綾女の反応を待った。
 どれだけ待ったところで、彼女が逃げ出すおそれはないのだ。最後に自分の手の中に落ちてくるのなら、途中でどれほど抗われても構いはしない。
 雨の音だけが鳳来洞の中に満ちる。
 空気はどこか白々しかった。
「私が、お主の要求をのんだら、必ず戦いに来ると誓うか?」
 長い沈黙の果てに、綾女が尋ねた。
 左近は降り続く雨から視線を綾女へ戻した。
「誓おう」
「必ず、か?」
 男は抑えきれずに自嘲を洩らした。信用のないこと甚だしい。
「ああ、必ずだ。
 ……もっとも妖刀を目覚めさせておらぬ俺が役に立つかはわからぬがな」
「それは、致し方ない」
 視線を伏せて答えた綾女の表情に、左近の中で揺らぐものがあった。
 先程までの動揺が嘘のように綾女の表情はただ静かだった。瞳に浮かぶ光も静かだ。
 その静けさは拒絶するのではなく、心に蓋をしたのともどこか違って見えた。
 綾女は覚悟したのだ、と、男はわけもなく悟った。
 男を憎むわけでもなく、抗うわけでもなく、諦めるわけでもなく、すべてを受け入れようとしている。綾女の静けさに、男はそれを感じた。
 ぞくりと、寒気に似た感触が男の体内を走った。
 綾女がいったいどんな思いの果てにそんな覚悟に至ったのか、男には想像もつかない。
 だが、少なくともこんな反応は男の予想の中にはなかった。そのことが黒い靄となって彼の胸に湧く。
 左近は、綾女の目を見つめながら半ば義務感に駆られるように指を伸ばした。
 彼女の髪を結う紐に触れる。触れて、指が躊躇う。
 女は微動だにしない。
 彼女の瞳が揺らがない分だけ、男は自分が揺れていることを実感する。
「尊い犠牲だな」
 男はそう悪びれて、綾女の髪を解いた。
 女にそこまで覚悟させたのは他ならぬ左近だったろう。
 ここまで来て、今さら正気に立ち返ったように怯む自分が左近にはひどく愚かしく思えた。
 

 男は自問する。
 俺は何を得ようとした?
 男は自答する。
 綾女に忘れられないことを。男として記憶されることを。例え憎しみでも良いから、特別に思われることを。
 その結果として左近が失うものは愛される可能性だったろう。
 男の真の望みが綾女に愛されることだったとしても、それを望む資格はもうない。
 綾女がおのれを愛してくれる可能性は低すぎる気がして、男にとって資格を捨てることは諦めがつくものだった。胸がまったく痛まないわけではないとしても代わりに得られる物を思えば諦めても惜しくはない。
 けれど、躰の稜線をなぞる指先が冷えた。
 綾女の心は受け入れてしまうと、男は思った。
 決して傷が消えないように、やわらかな皮膚に深く突き入れたはずの刃が、受け入れられてしまう。どんな鋭い刃物でも、突き入れた先が肌ではなく水面なら抉ることなど出来ない。
 水はただ刃をのみ込んで、沈めて、葬ってしまうだろう。
 その時はただ、こうして肌に印を刻めた喜びだけが甘い記憶になりそうだった。
「綾女、お前は、こんな俺を憎むか?」
 乱れる息の下で男は問いかける。綾女が、つむっていた目を薄く開いた。
「なぜ、だ? 私が、お主を憎む理由など、あるまい」
 答えて、綾女は顔をしかめると再び目を閉ざした。
 男はそれ以上問いかける言葉を持たなかった。
 
 
 

 雨がやんだ。
 数日ぶりに青空が広がり、鳳来洞の暗さになじんだ男の目には朝日がしみた。
 綾女は既に身繕いを整えようとしている。
 男が肌に刻んだ印も、今はもうすべてが高い襟の下に隠れてしまった。
 そうして何事もなかったかのように、彼女はこの地を去ろうとしていた。
 左近はその背に呼びかけた。
「体の具合はいいのか?」
 髪を結う手を止めることなく綾女が答える。
「ああ。どうということはない」
「そうか」
 髪を結い上げる手つきの良さを男は言葉もなく見つめた。
 綾女は、一刻も早くここから去りたいと思っているのだろうか。そんな疑問が男の胸に湧く。
 もし、彼女にとってここにいることが耐え難いのなら、そう思うほどに傷ついてくれたなら、自分にとって救いかもしれない。男はそう、度し難いことを思った。
 髪を結い終わった綾女がいつものように草色の外套をまとった。ひるがえった裾が小さな風を起こす。
 左近が彼女と出逢ったときから身につけていたものだった。少なくとも、同じような品をあの日も綾女はまとっていたろう。
 こんな事になるなど、あの時の誰に想像できたろうか。男は、あまりにも遠くへ来てしまった気がした。
「綾女」
 綾女が肩越しに男を振り返った。 表情は逆光に遮られて男の目には見えなかった。
「なんだ?」
「お前は俺を憎むのか?」
 綾女はわずかに黙した。
「あれは、取引だったのだろう?」
「そうだな」
「ならば私にお主を憎む理由などあるまい」
「そうか」
「次は、左近。お主が勤めを果たす番だぞ」
 男はやや乱れた髪をかき上げて、笑った。
「もし俺が安土に行かなんだら、その時こそお前は俺を許さぬだろうな」
 綾女が息を詰めるのが男にはわかった。低い声を彼女は洩らした。
「お主はそんな男だったのか?」
 髪をすく手を止めて、左近は女を見上げた。
 表情を陰の中に隠して綾女は言う。
「お主とて、私に憎まれることを望んでいるわけではなかろう」
 左近は手を下ろた。
(憎まれることを望んでいるわけではなかろう?)
 瞼を閉じて、その言葉を反芻する。
 小さなつぶやきが思わず口をついて出た。
「だからこそ、お前にはわからぬと言ったのだ、俺は」
「左近?」
 綾女がわずかに首をかたむけた。
「何か言ったか? 聞こえなかったが」
「いや」
 男は短く首を振った。吐き出した息に言葉を乗せる。
「冗談だと言っただけだ。安土へは行く。それがお前の望みだろう?」
「……」
「冗談だ」
 自分の額を見下ろす綾女の視線の力が弱まるのを左近は感じた。綾女は顔を横に向けて呆れたように呟いた。
「お主の冗談は笑えぬな」
 まあいいと独りごちて、彼女は緑の裾を翻す。
 男に背を向け、言った。
「安土で待つ」
 男は女の後ろ姿を目に焼き付けた。
 

 その姿を思い出しては、男は思った。
 あの後、綾女はどこかで泣いたのだろうかと。
 けれど彼女が己の身に起きたことを嘆いて涙することがあったのか、男には最後まで知るすべがなかった。
 そして、やがて訪れる男の喪失によって流される涙にどんな想いが秘められていたのかも、左近には永久にわからない。
 
 

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