menu名を呼ばれた。
晩秋の霧掛かった山道に差し掛かり、足元から顔を上げたところだった。
呼ぶ声も久しぶりすぎて、一拍反応が遅れた。
多分、私は変な顔をしたのだと思う。
珍しくお前が笑んでいたから。
++ 回 帰 曲 線 ++
全くもって、お前は前触れも無くやってくる。
本当に驚いた。
数年ぶりじゃあないだろうか。
私は見ての通りだ。お前はまあ、変わらず息災なのだろう。聞くほうおかしい。少しずつ気配が薄れ、いつの間にか声を聞くことも無くなったから、てっきり本当の向こう側へ行ったのだと思っていた。
今もこうして目には映らないが、お前のことはちゃんと見えているよ。ゆっくり話したいけれど、残念ながらこれから行くところがあるんだ。そこまで道々話しながら歩くとしようか。
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なあ、お前と生きたのはほんの三年にも満たぬ間だったか。あれから何倍もの月日が流れていったけれど。
あの頃戦場で、互いの背中をぴたりと合わせて刀を振るいあっていた時よりも、日の下を駆けていたときよりも、
目に見えぬお前の方が、浮立つ様にはっきりと感じられるのは何故なのだろうな。
音でなく胸で話すようになって、漸く私はお前が見えてきたということなのだろうか。何時だったか、いつもするようにお前と話しこんでいると道々すれ違う人におかしな目で見られていたっけ。
私一人が誰もいないところをじっと見ながら百面相しているのだから、そりゃあ傍から見れば十分すぎるほど不審だよな。
だが変に見られることが酷く不思議に思えたくらい、お前はそこにいてくれた。もう長いことそんな風にしていたけれど
正直言って生きている頃のお前のことは、嫌いだった。
怖かった。
今更だろうけれど、もう時効だから言ってもよかろう。
二人になったときなど本当にどうしようかといつも思っていたよ。
私にはお前が突然切り込んでくる不用意な抜き身のように思えて、その間合いに近づきたくなかった。
お前には毛頭そんなつもりはなかったのだろう。
伊賀で過ごすうちに分かったけれど、それでも苦痛を嫌う私はお前といるのが苦手だった。共に旅もしたし、いつも顔を合わせてはいた。
同じように里を焼かれたけれど、それでも私の中にあった膿んだ傷にお前は似ていた。
魔道が閉じ、安土の城が炎に飲まれてから、私は一人で歩くようになった。
そしていつからか、またお前の声を聞くようになって一体どれだけ経つだろう。
もうすっかり目に見えないのが当たり前になってしまった。
可笑しなことだが、お前が命を失って、二度と会えないはずの向こうへ行ってしまってからの方がよく話したな。
中身は相変わらずのお説教だったり、忠告だったり、果ては口論になったりするのだけれど、不思議なことだ。
何をあんなに構えていたのかと思うほど、歩み寄るのはあっけなかった。
今まで随分と勿体無いことをしたと思ったけれど、深い後悔は無い。我々は続いてしまった。
ずっと一人旅ではあったけれど、一度も一人ではなかったし、寂しいと思うことも忘れていた。けれども、お前は時々、ほんの僅かだけれども、眉をひそめて私を見ていたことがあったろう。
最期の望みすら叶えない私に随分と呆れていたのだろうな。
命を擦り切るようで見ていられないと、もう辞めろと、何度諌め窘められたか。お前の言葉はどれもよく覚えている。
逃れた妖魔の最後の一匹まで狩ると言うが。けれども。
それをどうして知りえるのだ。
どの妖魔が最後だ。
どこにいる。
数は。後どれだけ。
確証は。
コレが最後だと、誰が、わかるものかそうだな。その通りだ。
枷を掛けるな、他の生き方があるだろうと言っては、振り上げる腕を制し、前に走ろうとする肩をつかんでくれてた。
成すべき事は既に終わっているじゃないか、せめて望むように、平凡に命を全うすればいい。
ああ、そうだとも。
お前の言う事は、私が心底思ってることだ。願っていることだ。
この青い枷は、握り締めた右手をそっと緩めるだけで熔ける柔らかな鋼なのだと、言われる前から分かっていたさ。では何故だとお前は言うのだろう。簡単だ。藁で作った注連縄を我々は切ることが出来ない。これと同じだ。
私は青い禁足地で、思うさま踊り続けることを選んだ。刀を奉じる巫女のように。
外側にいるお前には、さぞ歯がゆく思えるのだろう。
一歩踏み出すだけで、世の中はどこまでも遠く、果てしなく。
沢山の命に溢れているのだから。
そこへ連れて行くことがお前の願ったことだもの。生ある私より「生きて」いるお前は、本当に見事だと思ったよ。
だからその手を振りほどくとき、私は何時も笑った。
なるべくさりげなく、笑むように駆けていたろう。
既に終わったという「成すべき事」は、お前が嫌った「さだめ」じゃないのかと。
お前がくれた命だけれど、生きていくのは私なのだと笑ってみせたろう。私は最後の妖魔を狩り出す者。
妖刀の輝きを治める者。
村を、人を、兄を、奪い去っていった、蒼い光を葬る者だ。変わらないと笑っているか。きっと愚か者よと口の端で笑っているな。
仕方の無いやつだとあきらめているのだろう。
分かるさ、お前のことなどお見通しなのだから。
何も私ばかりが一方的に筒抜けてる訳ではないのだぞ。
さあ、そろそろ到着だ。脇に目印の小川が見えてきた。
川向こうは道も無い原野だけれど、あれを越えていくことになりそうだ。
さっきから随分と霧が深くなってきたが、お前とはここで一度別れよう。用というのは他でもない、ついに最後の一匹が姿を現し始めたのだ。
次第に濃くなる気配は間違いない。
もう幾許の猶予も無いが、どうやらいい時間に着いたようだ。
今この時に。いや、こんな時だからこそか。
しばらくぶりにお前に逢えて嬉しかったよ。
もう随分と声を聞かなかったから、私の中のお前は消えてしまったのだと思ってたけれど。
足元も見えない霧の中にいて、お前は胸痛むほどに、こんなにも鮮やかだった。
想像もしてなかった。
本当に二度と会えないと思っていたから。きっと私は、今、酷く幸福だ。
ああ。
その手を取ることが出来なくて、すまない。
「またな」と軽く手を上げた背を見たと思った。
いつか在りし日に見送った時の背中だった。
遠ざかる気配を感じながら、私は真っ直ぐに眼前に広がる白濁の海へと飛び込んだ。
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さわさわさわ。
近くで草を薙いで渡る風の音が聞こえる。
閉じていた目を静かに開けば、闇に馴染んだしめった土の香りが戻ってきた。
細い月光が雲に遮られる。深山の奥深く。
背を覆うように草が茂る廃墟はかつて戦禍を受けた集落の名残だ。
人影は、己一つのみ。朽ちた縁の下に身をかばうようにうつぶせて転がっている。夜露にきんと冷え澄た空気は先刻と何も変わらず、霧など出ているはずもない。
夕暮れ前に這うようにしてここへ辿り着いてはみたが、どうやら大分気を失っていたらしい。身体は意識を失った時より一層ひどく軋みを上げている。骨から引き剥がされた筋が泣く声だろうか。
銅鑼のような脈を打つこめかみと臓腑を焼く熱に、どうしようもなく喉が震えているのが分かる。生きていると実感するのは何故かいつもこんな時だ。
耐え難い苦痛が命の在りどころを告げている。
浅い呼吸を繰り返す口元がわずかに笑みの形を成した。ど、うや。ら、ま、にあった。よ、だな、
ここにきて意識を手放したのは不覚以外の何者でもなかったが、まだ手遅れにはなっていないようだ。有り難い。
それどころか思わぬ形で彼と会えた。誰のお陰か知らないが、なかなか上等の計らいだった。もう一度目を閉じ、今度はゆっくりと深く呼吸する。丹田に気を送り体を律するためだ。
十分に気が満ちるのを待って、地に膝を付いたままじりじりと表に這い出て上体を起こした。
突っ伏す身体を支えて最小の動作で小太刀の鞘を払う。
馴染んだはずの小太刀の波動に弾け飛びそうになるのを両手で支え、そのままゆっくりと柄を逆手に持ち直した。育ちきった成虫が蛹を破る気配がする。
これが本当の、最後だ。
己が狩るべき最後の妖魔のことは随分前から知っていた。
こうと決めたときからの必然だった。
妖魔の血穢によって、じわじわと侵食され続けてきた身体。
人ならざる者に変容していく症状は以前から出ていたが、多分、今日が限界だ。
この世の最後の一匹ではないけれど、私が倒すべき最後の一匹はこいつでしかあり得ない。
お前も知っていたんだよな。引き返せと、以前繰り返し言ってたのはそういうことなのだろう。
お前はいつも正しかった。
一度も言うことを聞いたためしはなかったけれど、私はその正しさを目印にしながら己の道を歩んでいたよ。
踏み迷った暗闇で見上げる星は、どれもこれもお前の言葉と私の願いでできていた。
掴めない、けれども、愛しい光を、どれほど必要としてきただろう。里とお前に貰った命が私の誇りだった。おまえ自身は私の矜持だった。
あの日から、だからこうして歩いてこれた兄上、父上、大好きだった里の皆。私が出会った人たち。
私を生み育て、今またこの地へ導いてくれたことを深く感謝します。
きっと、私はあなた方のところへ行くことはできないでしょう。
そして左近。
お前と歩くのもここまでだ。
今まで随分と遠回りをさせてしまってすまなかった。これでようやくお前も元の道に戻れるな。
きっと向こうでは姉君や陣平が迎えてくれるだろう。
私のことは案ずるな。心配事はもう何もない。だから真っ直ぐに今の道を行け。最期に会いにきてくれて本当に嬉しかったよ。
初めて妖刀に触れた時から終焉は多分こうじゃないかと思っていた。
鬼退治をするのは同じ鬼だ。
そして破魔の神気を絶やすのは縁深い女の血だと、そんなのは子供でも知っている。――妖魔の血液を浴びた続けた年月には、この幕引きこそふさわしい。
だから ごめんな。
息を吸い、小さく、しかし裂帛の気合で己が腹めがけて小太刀を突き立てた。
痛みより速く、妖刀から迸る閃光が視界を焼く。
弾けるような力の本流に飲まれる一瞬。青白い稲妻が数度天地を渡り、轟音と共に高く土柱が上がった。
そうして。
余韻を宿した風がひょうと啼きながら木々の間を通りすぎてゆく。
夜を席巻した光の渦は、たちまちのうちに闇に飲まれて消え去った。
虫の声が遠慮がちに響きはじめる頃、うっすらと廃墟に月光が差し込んで淡い影を作る。
いつもと変わらぬ静謐の中。伸びた影の中には深く抉れた大きな窪が出来ていた。
そこにはボロボロに錆びた刃物が一つ、土くれに埋もれるようにして窪みの真ん中に突き刺さっていた。
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その昔、奥信濃の山深くには、雨後に丸い鏡のような池ができる場所があった。
地元の言い伝えで、かつて刀を祭る一族の隠れ里があったと云うそこは、めったに知るものも無く、
苔むした礎石が木々の根っこに埋もれながら、なんとか顔を出していたらしい。
(一説にこの遺構は織豊時代まで遡るのではないかということだった)だが近年になって山が削られ、一帯はダムに沈んだ。
当時をしのぶよすがはもう無い。
Fin.