++ 真昼の月 ++
当時の私は、私の中に霞のように漂うモノの名を知りませんでした。
名が無いとは則ち存在しないこと。
ですからソレは触れることなく気づかれることなく
しかし次第に濃度を増しながらずっとそこに在り続けていました。
取り返しが付かないものほど失って初めて気が付くというけれど
私ときたらそのことすら解らないでいました。
今思えば何という傲慢でしょう。
しかし私が傲慢なら、彼もまた非常に傲慢な人でした。
ひどく自己完結した人でした。
最後まで何も言わず、責めることもなく。
何もかも一人で背負いきって
最後に笑って逝きました。
あの時。
一言でも口にしていれば、胸中のモノが不意に姿を成し
色が、手触りが、感じられたのかもしれません。
彼の手をとれば心臓から送り出される血液の暖かさで
霧は晴れるように思えました。
でもそれはどうしてもできないことでした。
ただ傍らで座っている事が私の出来る精一杯の事だったからです。
琵琶湖を渡っておだやかに湿った夜風が吹いていたのを今も覚えています。
彼が上がる呼吸を努めて静寂に保とうとしているのがわかりました。
気遣うな、と全身で語っているのが聞こえます。
私は駆け寄る足を止めました。
少し離れたところで膝をつくと、彼は震える喉を気力で制しながら
懐かしい調子で軽口をいって笑ってみせるのです。
動けなかった。
これ以上近づくことは冒涜に値する
そう、思いました。
「お主の説教は後でゆっくり聞かせてもらうさ」
多分、上手く言えていたと思います。
奥歯と拳で耐えきった笑顔でした。
…こんな処でも忍びであることは役立つのです。
本当のところはどうだったかというと
何かがごっそりと抜け落ちてしまう予感におびえた心臓が
やけに耳元で鳴っていました。
ガタガタと震えそうな体と引き替え、頭の中は真っ白な状態でした。
最期の時がすぐそこまで来ている
秒単位で迫ってくる死の足音をお互いに聞きながら
私たちは核心に至らない言葉だけが散っていく様を眺めていました。
時間は、本当に無かったのです。
彼はわずかに残った命で言葉を紡ぎ出していました。
一言口にする度に残された生が削られていくのが見えました。
「もう話さないでくれ」
そう言うのは容易いことのように思われるでしょう。
しかし私はその時間すら無意識に惜しんでいましたし、彼もそれを望んではいませんでした。
なぜなら、私たちは「死」が何者か、良く知っていました。
沈黙なら今後、いくらでも、永遠に続きます。
私たちの間に直ちに永遠の沈黙が訪れることは覆せない事実でした。
どんなに否定したくても、彼から流れ出た血液は地に吸い込まれる一方なのです。
「見ろよ、綾女」
それまで苦しげだった彼の瞳が天空の一カ所をとらえて笑みを浮かべています。
つられて仰ぐと、雲のない空に浮かぶ満月。
突き抜けるような夏の夜空に、それはぽっかりとありました。
「静かだな」
吸い込まれるような穏やかな声。
振り向いた時はもう
手遅れでした。
見送りすら許されない別れに声を上げて泣きましたが
聞き届けられようはずがありません。
私の前にはただ美しい体がひとつ、横たわっているだけなのです。
最後の最後までひどい男でした。
あんなに泣くことは今後一生、ないでしょう。
…それでも彼の、
最期の瞬間さえ介入を拒むそれが、精一杯の想いだったのではないかと。
随分と後になった今、確信を持って思えます。
いいえそうではなく、あの時も。
きっとその前からも私にはわかっていたのです。
彼のこと。そしてこの胸にあるモノの事。
あのころの自分は十分にわかっていたのだと今になって初めてわかるのです。
ただ私はあの時、言葉を、
自分の中にあるモノの名を知りませんでした。
あの時は名を付けることすら叶わなかったけれど
それはいつでも心の真ん中に在るものでした。
言葉という枷に余り、時代を超えて私に満ちる、この霞にも似た、何か。
今でも名のないこの想いに
しかし名を付けて形を与えようとはもう、思いません。
形なき水。
姿なき風。
それらに抱かれて私は
今、生きているのだから……。
いとおしさは、すべて、この胸の中に
青空にある月のように…。
-Fin-