menu夢が呼ぶ
ピシャ――ン・・
闇に響きわたる水の音。
輪・・輪・・輪・・
広がる。伝わる。気配。
――誰かいる・・
予感。
道無き森。闇の森。
気ばかりがせく。
視界を遮る雑木。
走る。ただひたすらに。
足元でぬめる泥土。
いきなり森が開けた。
沼。赤き月を水面に映した沼。
沼の中央に浮島があった。
誰かいる。
女。
黒髪に縁取られた顔。見覚えがあった。
――!
叫べどその名は喉で張り付き、声にならない。
女が顔を上げた。
女と視線があった途端、女の表情が強張った。
「左近、どうして・・それより何故ここが!?」
「知らぬ。いつの間にかここにいた。それより綾女、そこで何をしている?」
「・・・・見てのとおりだ」
見れば女の足に黒い蔦が絡みつき、女の動きを封じている。
「何故ソノ蔦を切らぬ。容易い事だろう」
「この蔦は普通の蔦ではない。絡みつけば二度と離れぬ・・そんな闇の蔦だ」
「ならばお前の『小太刀』で切ればよかろう」
「ここに『御神刀』はない。ここでは私はただの無力な人間なのだ。この世界で自分を偽る事はできない」
いつの間にか沼が血の色に染まっていた。
左近は押し黙り、続いて一歩池の中に足を踏み入れた。
「な、何を!? まさか・・来るな! 左近!」
「何故?」
「この沼は冥府に通じている。引きずり込まれれば、無事では済まないぞ!」
男は躊躇無くまた一歩を踏み出した。
「来るなと言っているのに・・聞こえぬのか! 左近!」
「俺がお前を逃がす――とでも?」
「え?」
「ここでは己を偽れぬ――そう言ったのはお前自身だろ? 俺はお前をそこから連れ出す。嫌だとお前がごねても俺は止めない。そう決めているのだ」
女の表情が恐怖で引きつる。
「止めろ・・止めてくれ・・私は・・私はここから出てはいけないのだ!」
「何故?」
「私のこの両手は、血で汚れきっている。その証拠に、洗っても洗ってもこの血は落ちない。お前はこれだけの人間を殺めたのだと、お前はもう昔の自分に戻れないのだと、命をつなげる女にはなれぬのだと、この場所が私に囁いてくる」
「血の汚れなど・・最初から存在しない」
「お前に見えないだけだ!」
「・・・・そうだろうな。お前にそれを見せているのは、お前自身の罪の意識だ」
男の体は腰の辺りまで沼地に沈み始めていた。
男の周囲に闇色の藻が集まってきている。
よく見ればそれは藻ではなく、亡者達の苦しみもがく両手であった。
「駄目だ! お前まで・・お前まで巻き込まれてしまう!」
「・・・お前のそんな姿を見るくらいなら、そんなお前を置いていくくらいなら、いっそこの沼地に沈んでしまった方がましだ」
女は男の告白に衝撃を受け、思わずその下肢に力を込めた。
最初腰が浮いた。続いて足が持ち上がる。
蔦を引きちぎりながら、女は沼のほとりへと歩いていく。
「お前は誰なのだ? 何のためにお前なのだ? 綾女――それがお前の真の名なのであろう?」
男が首筋まで泥に浸かりながら、なおも女に語りかける。
「もういい! 分かったから! 左近! お前まで私を置いていくな!」
女は沼に入り込むと、必死になって男の傍まで行こうともがいた。
だが、絡みつく藻が行く手を阻み、思うように上体を前へと進めてはくれなかった。
男が一瞬微笑んだように見えた。
「左近! 嫌だ! 行くな・・行くな・・行くな――ッ!」
そこで意識は途切れた。同じ時刻、離れた場所で、一人の男と女が、束の間の眠りの中に、同じ夢を見た。
男は目覚めた瞬間、僧の一言を思い出した。
――もう何度も仕掛けておるやもしれぬ・・
男は無言で立ち上がると、近くの滝壷まで行き、全くの裸身になって、その飛沫の中へと姿を消した。女は目覚めた瞬間、ある男の一言を思い出した。
――お前は何のために戦っているのだ?
女は軽く頭を横に振ると、鋭い眼光を山向こうで輝く天守の方へと向けた。二人が再びあい見えたのは、妖星が天駆け天を二分する年の鳴神月、天照らす大神が闇に食われ、奇しき星が天空の王と成りし夜であった。
男が疾風となって闇を駆ける。
女が紅色の襷(たすき)で衣装をからげる。――お前達の答えはどこに?
夢が二人を呼んだ。