menu水浅葱
川を渡る風が柳の枝葉を揺らす。
枝葉が擦れあうたびにさわさわと優しい音がする。
綾女は柳の幹に背をあずけて遠くを眺めていた。
川面が光を反射してきらきらと輝いている。
「春……か」
こうしていると乱世であることが嘘のようだ。
人の世がいかに移り変わろうと、季節は順当に巡りやってくる。
――!?
ふいに柳の一枝が頬を掠めた。
傍らを振り返り、それが風の悪戯のせいだと気付く。
綾女は柳の緑に手を差し出すと、その一枝を引き寄せた。
萌黄色をした幼い葉の一枚に唇を寄せる。
愛しさを誰かに伝えるように。
ふわりと前髪が翻った。
伏せていた瞼がそっと上がる。
「……来たのか」
柳の枝葉をそっと手放す。
それを風がさらっていく。
「……少し昔のことを思い出していた」
あれからどれだけの月日が流れただろう。人の世は急速に統一に向かって歩みつつある。あと少しすれば戦国の覇者がはっきりとするだろう。しかし、そんなことに関心はない。自分は今までどおり旅を続けていくだけであった。この戦いを知る最後のひとりとして、この戦いを終わらせるため。
結わえた髪が風になびく。ほつれ髪をかき上げて風の行方を追う。風は過ぎていくものだ。時間と同じように。そう、二度と戻ることはない。風の中に立ち尽くして思う。自分はどこへ行こうとしているのか、それとも――。
無明の荒野に風の声を聞く。傍らに馴染みの者の気配を感じながら旅を続ける。自分が語る相手は帰らぬ「過去」だ。それを相手が許すかどうか、答えはない。
「あの頃はお互いに若かったな」
喉の奥に笑いを溜めて綾女は独りごちる。他人にはわからない、綾女だけの時間。そうすることで綾女は生きてこられた。
唇に指をもっていく。あのときの感触を知らず知らずのうちに辿っている。いつからかついてしまった癖であった。
『な、なにを!? 血迷ったか、左近!』
それまで許婚にさえ許したこととない唇であった。不可侵の領域に他人が初めて入り込む。そのことにどれだけの恐怖を覚えただろう。どれだけの後ろめたさを感じただろう。
はっきりと自覚する。自分が紛れもなく女であるということ。心を持つひとりの人間であるということ。それを認識させた当人を恨んだこともあった。
「あのとき、わたしもそうだったが、おぬしはおぬしで焦っていたのか?」
綾女は自分の決意が崩れることを恐れた。やっとで見つけた、生きる理由であった。妖刀にまつわる伝承、自分達の宿命、それにすがることで生きていることを許された気がした。
左近はどうだっただろう。本人に問うたことはなかったが、自分を問い詰めるように言った彼の双眸に苛立ちの陰はなかっただろうか。
常に結果は無残なもので、自分達の力の至らなさに歯噛みする。もっと自分達に力があったなら、この妖刀の力を完全に引き出せていたなら、結果はもっと違っていたのではないか? そう思って、拳を握り締めたのは自分だけではなかったはずだ。
――もっと力が欲しい。
もしかして一番に力を欲していたのは左近ではなかったか。今なら彼の心境を理解できる気がする。良きにつけ、悪しきにつけ、迷いのない一念が妖刀の力を解放する。妖刀の力を揮う同胞を、どんな気持ちで彼は見つめていただろう。
「なに? そんな昔のことは忘れてしまったと言うか」
風が耳元をくすぐる。
綾女は首をすくめてくすくすと笑った。
「都合が悪くなるとすぐ逃げる。おぬしの悪い癖だな」
年月を経て理解する。真正面から相手と向き合えなかったのは自分も同じであった、と。相手の瞳に自分の姿が映ることを恐れたのはお互いであった、と。
命も投げ出す覚悟でいた。それが運命というなら、殉ずることも厭うていなかった。宿命を、死ぬことすら否定した左近とは正反対の姿勢だった。そんなふたりが折り合えるはずもなく、綾女はひとり冬の鳳来洞をあとにした。
『綾女、もう一度考えてみろ。何のために戦っているのかを、な』
入り口へと向かった綾女に背後から左近の言葉が投げかけられた。綾女は一言も言葉を返せないまま、左近の言葉を振り切るようにして出てきた。
「わたしは気付いていなかった。いや、考えないようにしていたのだと思う」
戦いに没頭することで、刹那全てを忘れられる。とうに心は悲鳴を上げていた。その心をねじ伏せるようにして、ただひたすら突っ走ってきた。
『俺は宿命のために生きてきたつもりはない。まして死ぬためでもな』
左近の言葉は綾女の心に突き刺さり、ずっと綾女を苛んだ。
『綾之介どの、どがいした?』
龍馬に呼びかけられて、綾女は我に返ったときがある。鳳来洞での経緯はいっさい龍馬に話していなかった、心ここにあらずといった綾女の様子を見て、龍馬が心配したのは当然のことであった。
『あいつは負けることが怖いのだ』
『何を、いまさら』
いつも結果は後手に回っていた。それでも自分たちには挑むしか道は残されていなかった。どれだけの犠牲の上に、どれだけの人々の思いを受け継いで自分たちは生かされてきたのか。それを思えば戦いに赴かずにはいられない。
――迷うているときではない。自分達はやりとげなければならない。
不気味に静まり返った安土城下にいて、綾女は敵の牙城を見上げた。
――大丈夫だ。わたしは戦える。
そう呟かなければ戦えない自分がいた。
「自分が何を望んでいるのか。それに気付いてしまえば、きっと一歩も動けなくなってしまう。それでは何のために長らえた命なのか。自分の存在価値すら見出せないまま終わってしまう。わたしは自分の中に存在する矛盾を認めるわけにはいかなかった」
だから綾女は左近の言葉を忘れようとした。その存在すら記憶の片隅へと追いやり、切り捨てようとまでした。
「しかし、そうするほどにおぬしはわたしの思考を支配した。頼みにするつもりなどさらさらなかったのに、ふいに訪れる空白の時間におぬしのことが思い出された」
あのまま何事もなく鳳来洞で別れていたなら、あれほどまでに心乱されることはなかっただろう。自分は使命を全うするだけのことであり、相手に望めぬ期待を寄せることはなかったと思う。しかし、あのときを境にして何かが変わった。
『ともかく、左近のことがあてにできぬ以上、我らだけで信長の首を取るしかあるまい』
そう龍馬に告げていながら、そこにいない男に思いを馳せるようになった。
――おぬしは背を向けていられるのか?
冷たく突き放すようでいて、他人の動向をよく見ている。簡単に馴れ合おうとはしないが、さりげなく他人を助勢する。左近とは、そういう男だった。
――左近、おぬしこそ何のために戦ってきたのだ? 何のためにここまできたのだ?
無意識のうちに彼のことを求めていた。それほどに左近の存在は綾女の中で大きくなっていた。
決戦の夜。
『左近…っ』
『何をしている。こやつは俺が引き受けた。先に行け、綾之介』
本人を目の当たりしてどれだけの安堵を覚えただろう。
『すまぬ……』
発した声が不覚にも震えた。
男の姿が涙にかすんで見えた。
「…………おぬしには本当に感謝している」
彼に問うてみたいことは沢山あった。伊賀でのこと、鳳来洞でのこと、そして安土までどうして来てくれたのか、など。だが、問うたところで答えてはくれないだろう。詮無いことと微苦笑を浮かべ、遠くへと視線をやってしまうことだろう。遥か自分の手の届かないところへと、戻ることのない過去へと、彼自身もまた帰っていく。
「…………わたしも早々に終わらせぬとな」
さらさらと淀みなく川は流れていく。時間も同じようなものであった。何が残り、何が消えていくのか。そんなことにかまうことなく、綾女ひとりを置き去りにして時間は往きすぎていく。
綾女は腰から小太刀を抜き取ると、それを手にして眺めた。長い歳月をともにしてきた得物であった。愛着を感じることはなく、手のほうが勝手に馴染んでしまっている。
鞘を払う。しみひとつない白刃が日差しを浴びて輝く。妖魔との戦いを重ねるたび、妖刀は冴えを増しているようであった。まるで妖魔の血を浴びて嬉々としているかのようである。
――いつかは自分も餌食となるだろう。
それは予感であった。そうでなくても少しずつ体が蝕まれているような気がする。現に今も胸に重苦しさを感じていた。たぶん先は長くない。
ぐっと喉元にこみ上げるものがあって、綾女は咳き込んだ。口元を覆っていた手を広げる。その手に鮮血が飛び散っていた。
「もうすぐだ。もうすぐゆく。……それまでだ、左近」
風が綾女の周囲を取り巻いた。優しい気配がした。綾女は瞼を閉じて風に身をゆだねた。
「…………この先はどこへと続いているのだろう」
目の前に広がるのはのどかな春の景色。
まるで夢の続きを見ているようだった。
目を細めて景色を眺めながら綾女は呟いた。
「できれば、……おぬしと同じ風になりたい」
――いつか……。
――きっと……。