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眠れぬ森の(クリムゾンより)

 
 パシャ

 都心の夜景が見下ろせるスカイラウンジ。
 いきなりグラスの水を浴びせられ、男は驚きの表情を見せた。

「さよなら、自惚れ屋さん」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ、きみっ」

 ありがちな大人の恋愛劇。その幕を女から引いてやる。

――嘘つきなのは私も同じ。

 ピンヒールが大理石の上に音を刻んでいく。未練は微塵も感じられない。

――私も利用したのだ。心の隙間を埋めるために。ひとりでいなくてすむように。

 愛している。お前だけだ。妻とは別れる。――そんな言葉を何度寝物語に聞いたことか。
 別れるはずがない。別居中だという妻は前社長(現会長)の娘だった。野心家の男が地位も名誉も捨てて自分と一緒になるはずがない。
 関係を持ったのはちょっとしたきっかけから。関係が続いたのもたまたまのこと。誰かに心の空洞を埋めて欲しくて、縋ったすえの茶番だった。
 心など最初から存在していない。あったのは刹那の快楽と慰め。そして実際、何も残らなかった。

 アナタハ、ドコ?

 師走に入って街のイルミネーションは華やかさを増した。その明かりの中を約束のある男女が肩を寄せ合い歩いていく。

――馬鹿だな。

 ふっと笑みがこぼれた。
 他人で溢れた街の中を誰かの姿を探して視線をさまよわせる。

 性懲リモナク、誰カヲ待ッテイル。

 サンタクロースを信じていたのは十歳にも満たない頃のこと。
 それが今も夢見ていた。夢以上に儚い何かを期待して、ずっと待っていた。
 
 

 噂の伝達速度とは恐ろしいものだ。一日と経たないうちに自分は渦中の人となっていた。
 それも仕方のないことだろう。例のお嬢様が直接会社に乗り込んできたのだから。
 おかげでコネもなしに実力で入った会社も自主退職扱いである。

“ホントに大丈夫なの?”
“ん、平気。覚悟していたことだから”
“だからって、あなただけクビにするなんて卑怯よ”
“いいのよ。私には執着するものもないし。一からやり直すのも悪くないわ”
“ん、もう、じれったい。自分のことなのよ。もっと本気で怒りなさい”

 そんな自分のことを心配してくれる同僚もいる。今日電話をくれたのは、同じ課で親しくしていた女性からであった。
 しかし、今更どうでもいい。……――煩わしい、それが本音だった。

 ソファーに背を預ける。
 ガラステーブルが視界に入った。
 ひとりぶんのチケットがその上に載っている。ふたりぶんをキャンセルして再度取り直したチケットであった。
 遠くなくていい。ただ国内にはいたくない。そして決めた行き先は――香港だった。
 
 

 クリスマスシーズンから旧正月にかけて、香港は街中が色鮮やかに彩られ、最も華やぐ。
 “Hong Kong - Live It. Love It! (ハマル、ミリョク、香港)”
  ――この冬、香港政府観光局が掲げたキャンペーンテーマだ。
 “Live It” ようこそ、香港へ。
 “Love It” あなたは香港と恋に落ちる。
 香港は両手を広げて訪れる者を優しく迎えてくれる。
 
 ウインターフェスタ真っ只中ということもあり、街中は大勢の人が行き交う。
 人の波を縫うようにして歩いていると、自分だけが時間のハザマに取り残されているような感覚に陥る。

 どん

 いきなりひとりの男がすれ違いざまぶつかってきた。
 違和感を覚えて、その手首を即座に捉えた。とっさにしては信じがたい反応速度。
 綾女が振り返るのと、男の驚愕に見開かれた眼がこちらに向くのとほぼ同時であった。
 男が広東語で綾女を罵る。力ずくで手にした獲物を奪い去っていこうとする。
 綾女は男の腕をこともなげに捻って、鮮やかに地に返した。

「邪魔しないで」

 こちらに来てから感覚が鋭敏になっている。
 殺気さえ帯びて綾女は男を見下ろした。

「ちっ、あばずれめ!」

 そんなことを言っただろうか。男は這這の体で綾女から逃げていった。
 アクション映画でも見るような一幕に、野次馬の中からやんやと歓声が上がる。

――違う。私じゃない。

 綾女は武道の心得がある。だが、今回はそれだけでない。何かを体現したような、以前体験したことを再現するかのように体が勝手に動いた。

 私ハ、ダレ?

 思わず身震いが起こる。
 気が付いたときには人垣をかき分けて走り出していた。
 
 

 走り去る綾女の姿が車のサイドミラーに映って、消えた。

「ほう。たいしたもんだ」
「どうかされましたか?」
「いや。さっき面白いものを見かけてね」
 
 状況を垣間見たのは偶然。しかしそれだけで男を魅了するに十分事足りた。
 双眸を細めて男が何事かを思案している。くっと唇がシニカルな笑みを浮かべた。

「決めた」
「何をですか?」

 歳若い運転手が主人の思惑を測りかねて、バックミラーを覗いた。
 ダークグリーンのスモークガラスに囲まれた後部座席には丹精な顔立ちの男が座る。
 アジア系の人種にしては色素の薄い髪と瞳。その歳にして不敵ともいえる光を眼差しは湛えている。

「あれを俺のものにする」
「彼女を、ですか?」
「いけないか?」
「面倒なことになりませんか?」
「なぜだ?」
「彼女、外国人のようでしたよ」
「そのくらい。俺のものにしてしまえばたいしたことではない」

 主人の気まぐれは現在に始まったことではない。
 欲するものは必ず手に入れる。それがこの男の流儀であった。
 どんな困難をも力でねじ伏せていってしまう。それだけの技量を持っている。

――気の毒に……。

 花は一夜にして開花する。芳しい香を放つ大輪の花となる。
 だが、どんな花も咲いているうちから捨てられる運命にあった。
 執着がない。それが致命的な結果を生む。

――だが、私には止められない。

 この有能な部下は、主人の底知れぬ飢えを知っていた。
 全てを望むままに手に入れていながら、常に苛立ちが見え隠れしている。
 「欲」と名のつくものは憚ることなく言葉にするのに、決して核心には触れさせない。

――どうか、この方をお守りください。この方の魂をお救いください。

 そんな真摯な祈りが、すぐ傍に存在することすら気付いていないだろう。
 祈りは願いでしかなく、現実を覆すだけの力にはなりえない。
 奇跡を期待するに等しいことであった。
 
 

 夕闇が近づくと対岸の香港島のビル群はイルミネーションで輝く。
 綾女はぼんやりと夜の顔へと移っていく摩天楼の風景を眺めていた。
 風が海のほうから吹いてくる。パレットで留めてあるため、髪が乱れることはない。頑ななまでに風に抗い、原形を留めようとしている。

――私は何を待っているのだろう?

 多くの人が目の前に広がる絶景を楽しんでいる。その全てが他人で、目の前に広がる景色も自分に関係のないものであった。

「ひとり?」

 ふいに背後から日本語で話しかけられた。
 驚いて振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。
 
「それとも誰かを待っているとか」
「どうしてそんなことを尋ねるのかしら?」
「なんとなくあんたの背中が寂しげに見えたから」
「それはご親切にどうも。でも、あなたには関係ないことだわ。違う?」

 ソールズベリーRd.の海側に連なる遊歩道は、夜ともなると街灯に照らされ西欧的雰囲気を持った夜景の美しいデートコースに様変わりする。折りしもシーズンに入り、対岸のライトアップショーが始まっているため、それを目当てにやってくるカップルも多い。

「そうかな? それほど関係なくはないと思うけどね、綾女」
「どうして……どうして私の名前を知っているの?」
「左近、って言えばわかるかな?」
「さこん?」

 疑問符を浮かべたままの綾女に急に男が接近する。
 そこから顎を捉えられ、いきなりキスされるのに瞬く暇もなかった。
 深く、長い、口づけ。性急で、強引で、身勝手で、不躾な、最低の――。

「何をするの!」

 綾女が男を叩くのと、男に罵声を浴びせるのとはほぼ同じタイミングだった。
 離れた男の手の中で、はずされたパレットが二、三度宙に浮かんでは消えた。

「無粋だ。あんたはそのほうがいい」
「いや! それを返して!」
「駄目だ」

 何かが目覚める。封じた何かが。
 髪がとけ、綾女の髪が風に乱れた。

 男は綾女の手首を捉えて、有無を言わさぬ力で引き寄せた。
 力尽くで奪い、容易に放さず、獰猛な獣は獲物に向かって優位を示す。
 喰らうのは自分だと、お前は逃げられないのだと、眼差しが強く告げている。

――逃げられない……っ。

 そう悟った瞬間、綾女は口と鼻とをハンカチで覆われた。
 甘い、甘い、危険な夢へと誘う微かな香り。
 駄目だと気付いたときには遅すぎた。

 崩れていく自分を支えたのは男の腕。
 最後に見たのは口元を緩めた男の顔。
 そして薄れゆく意識で男の声を聞いた。

「Good night, my Sleeping Beauty」
 
 



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