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かりそめなるは
 

 過去は未来へとつながり、現在はうたかたの夢となる。
 かりそめなるは過去なのか? 現在なのか?
 その刻を告げに白い鳥が舞い下りる。
 

――また夢か。
 顎に伝う汗を蘭丸は手の甲で拭う。
 噴出した汗で単衣が貼りつき、水垢離でもしたあとのようであった。
――何を暗示した夢なのだ。
 物心ついた頃より見る夢があった。光のない、音ひとつしない、「闇」という空間。そこにぽつんと独りでいて、ただ気配だけが忍び寄ってくるのがわかる。音はしないのに、羽ばたきが伝わってくる。確実に、そのときを狙って、それは下りてくる。蘭丸は薄ら恐ろしさを覚えて、幾度となく夜を中途で覚醒していたのであった。
 ただ、ひとつの救いは、闇に見えた羽が白かったこと。白きものに邪気など存在しない。自分に害なすものであれば、それは闇のような漆黒でなければならなかった。
 大きく息を吐く。安堵を促すための儀式であった。何も来ない。何も起こらない。自分の将来に垂れ込める暗雲などどこにも存在していない、はずである。
 蘭丸は褥から出ると、廊下へと出る障子を開け放った。そのまま廊下の縁へと近づき、空を見上げる。
 月のない夜であった。星々は己の位置を勝手に違えることなく、整然と光り輝いている。
――私の選択に間違いはなかったはずだ。
 光り輝く星々を見上げながら、蘭丸は現在いる自分の場所を確認する。蘭丸は尾張の織田信長に小姓として仕えていた。
 うつけ者と蔑まれた時代を払拭するかのように、信長は戦国の世を頂点めがけて駆け上がっていく。信長に才能があったわけでない。彼こそが自分のために準備されたものであると直感が告げたからこそ、蘭丸は信長を主人と定めた。蘭丸の持つ運気が信長を天下人へと導いていく。
 蘭丸は星々の彼方へと視線を凝らした。星の彼方に暗黒が存在し、紅玉に似た妖星が近づきつつあるのを彼の両眼は捉えていた。
 幼いころ、あれはちょうど父と長兄が亡くなる直前のこと、自分が六歳になったばかりのころのことだった。
「兄上、赤い星が見えまする」
「星だと? 何を寝ぼけたことを言っておるのだ、お乱」
 次兄にあたる長可は蘭丸の言葉に呆れて答えを返した。
 時刻は正午を少し過ぎたころ。空は快晴で真上に太陽が存在する。
「お乱、どこにもそのようなものは見えないぞ。気のせいではないのか?」
「気のせいなんかじゃありません。信じてください、兄上」
「ああ、信じるよ、お乱」
 そうは言ったが、長可は蘭丸の言葉を本当と捉えたわけでない。この当時、既に長可は十三歳となっており、その歳の差が兄に弟を幼いと思わせただけで、言葉を信じさせるに至らなかった。
兄ばかりでなかった。誰にも赤い星の存在はわからず、母でさえ蘭丸の言葉に首を傾げた。
「赤い……星ですか?」
「はい、母上」
「お乱には見えるのですね?」
「はい」
「でも、皆は見えない、と」
「はい」
 母は深く嘆息した。既に侍女から蘭丸のことを聞いていた。見えない星を見えると、皆が見えないと言うと不思議そうな顔をして帰っていくと、そのことに母は危惧を抱いた。星を「赤い」と、それを蘭丸が言葉としたことに、不吉を感じたのであった。
「いいですか、お乱。このことは二度と他人に言ってはなりません」
「なぜ言ってはいけないのですか?」
「皆が不安になるからです」
「不安に、ですか?」
「ええ」
 蘭丸は考え込んだ。難しいことはわからない。しかし、例の星のことは言わないほうがいいのだと、それが他人のためであり、自分のためでもあると漠然と理解した。以来、赤い星ことは見えていても話題にしたことはない。
 実際、母が恐れていたとおり、森家は相次ぐ不幸に見舞われた。元亀元年 四月には長兄・可隆が、九月には父・可成が戦死している。
――偶然だ。
 最初は凶兆だったと、赤い星のことを恐れたものだった。自分が言ってしまったから、長兄も父も死んでいったのだと、心を痛めたときもあった。
 だが、実際のところどうだろう。いつ、誰が、どこで、死んでも可笑しくなない乱世である。長兄と父の死も勇猛果敢に敵勢に攻め入った上でのことと聞き及んでいる。二人を森家の誉れとしても、犠牲と位置づける必要はない。
 今は昔と違う気持ちで赤い星を見上げる。まるで自分のところへとやってくるような懐かしささえ感じながら、星の到来を待ちわびている。
――何かが変わる。今までとは全く違う時代が始まろうとしている。
 それが「何」であるかはわからなかったが、未来に思いを馳せるとき心は高揚した。
 ふと自然に笑みがこぼれる。その笑みが中途で凍りついた。
――!?
 現実に羽音を聞いたような気がした。
 油断なく周囲に気配を探る。
 気配はすぐ後ろ、自分の背後にあった。
「何やつ!!」
『ラン』
 名を呼ばれた瞬間に体の自由は奪われた。
 背後から回る。真っ白な大きな翼が蘭丸の全身を覆い隠す。
「お前は……っ」
『ラン、待ッタヨ』
 耳元で囁かれたのは人外の言葉であった。
 愛しげに、この上もなく優しく、白い腕が蘭丸を抱きしめる。
『ラン、アナタヲ返ス』
「何……っ」
 赤い星にまつわる記憶。
 本来持つべき能力。
 そして、優先される「使命」
 それらが一気に奔流となって蘭丸の中に流れ込んできた。
 

 頬を伝った一筋の涙。
 それが人として表した最後の感情となった。
 

 もう人としての記憶も感情も記録としてしか認識されない。
 真紅の瞳が見上げるのは、すぐそこまできている故郷の妖星であった。
 

 五百年かけて準備された舞台が最終幕を迎える。
 今、永き眠りを経てひとりの妖魔が目覚めた。
 
 


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