menu
満ちることのない月

注意:主要人物の二人は生きてます
   設定が特殊です
  

 崩れ落ちた茅葺屋根の隙間から月の光が差し込んでくる。
 下弦の月。細い光が左近の頬に濃い陰影を作っていた。
 体が火照る。無性に女体に飢えている。
 もうどれくらいアレを抱いていないだろう。
――アレしか俺を満たせない。
 だが向こうはどう思っているのか?
――今もお前はその身を誰かに預けているのか?
 焼けるような感情が湧き、胸を掻きみりたくなる。
 うめきはやがて咆哮となり、喉の奥から迸る。
――まるで獣だな。
 浅ましいまでの自分の姿に左近は自嘲を漏らした。
 月が満ちてくるほどに狂気は増してくる。それが妖かしの習性であり、宿命である。もとは人間であっても、妖かしの血が滾りだすと理性の鎖は簡単に砕け散る。それを止める術を自分は持っていなかった、自分でない他人事でなら尚更。
――綾女……。
 左近は愛し憎いひとの名を呟いた。
 あの柔肌が忘れられない。この腕に抱いたときの細さ、じかに感じた体温、嗅いだ体臭、そのひとつひとつが昨夜のことのように思い出される。
 満月は満ちる月だ。花は開花し、美しさで相手を惑わせ、種を身のうちに取り込んで実をなす。ある種の妖魔にとって満月の夜は、自己の生命値を最大限に上げ、再生を図る大切な時期であった。そのためにひとの精を多く必要とする。
――俺が間違っていたのか?
 さわとも風の吹かぬ、蒸す夜。片隅でひっそりと鳴く虫の音さえ耳に障る。
――アレが他の男を誘うのを、黙って見ておればよかったのか?
 ふっと口の端が上がる。左近はすぐ「否」の答えを出した。
――無理だな。この手で相手の男を縊り殺している。
 会わぬほうがお互いのため。しかし募る切なさを代わりに満たしてくれるものが存在しない
 左近はぎりりと唇を噛んだ。切れた唇から真っ赤な血が伝い、朽ちて地面に散らばる板の上にポタリと落ちた。
 

 湿り気を含んだ黒髪が、左近の赤みのかかった髪と入り乱れ、床に広がっていた。
 新月の夜に浮かぶのは女の裸身である。ときどき白い肌の上に影が過ぎるのは、男が手を伸ばし女の身体を弄るためであった。
 女の赤く濡れた唇から絶え間なく熱い吐息が漏れている。ときに「左近」と男の名を女は呼ぶ。
 常に乞うように女は男を見ていた。潤んだ瞳が男を見つめ、男の視線を引きつけて放さなかった。
 闇に落ちた美しい女。「影忍」という宿命に流されただけでなく、妖かしの血に侵されて、その身は「ひと」でさえなくなった哀しい女。
 だが、女が何者に変わろうとも男の心は揺るがなかった。愛しいという気持ちは溢れるばかりで、留めようがなかった。
 こうして契るたびに認識する。
――お前が愛しい。
 五感全てを使って知る「綾女」という存在、彼女を独占できることに至福を感じた。
 このまま時間が止まってしまえばいい。月が沈むまで、……いや、月が沈んで日が昇っても、ずっと二人っきりでいたかった。永遠に、彼女を自分のもの「だけ」のものとできうるのなら。
「……もう行かなくては」
 余韻の残る身体を、綾女は気だるげに起こした。
 褥につかれた手を左近は掴む。
「まだ、いいだろ」
「いいえ」
 綾女は左近の手をやんわりと払った。
「理由は前に話したはずよ」
「薄情なものだな」
「あなたも承知したことだわ」
 綾女の瞳が深紅に輝いている。精が満ち、身体を構成する細胞のひとつひとつが活性化されている証拠であった。こうして綾女は新生し、永遠の若さを保っていく。知り合った頃に比べ妖艶さが増したのは、それが彼女の生きていくために必要な手段だからであった。
 綾女は困ったように曖昧に笑みを浮かべ、左近の額に口づけを落とした。
「また、あなたのもとへ帰ってくるから」
「そう言って、すぐに戻ってきたためしはない」
「あなたを死なせるわけにはいかないもの」
「貴重な生餌だからか?」
「そうね。そうとも言えるわ、でも、それだけじゃない」
 綾女は左近の上半身に指を滑らせた。
 左近は綾女がするままに身を任せている。
「あなたほど熱く、私を夢中にさせる男はいないもの」
 そう言うと綾女は左近の胸の上に頬を埋めた。
 左近は綾女の黒髪に指を絡ませ、ゆっくりと梳る。その手をふと止めて、髪の一房をいきなり鷲掴んだ。そのままぎりっと後ろに向かって髪を引っ張り、綾女の顔を自分のほうに向かって仰向かせる。
「痛いわ。離して、左近」
「淫乱な奴め」
 告げる左近の声音は異常に冷たい。
「そうやって他の男にも媚びを売るのだろう」
 掴んでいた手を開き、体を反転させると綾女を自分の下に組み敷く。
 綾女は小さな悲鳴を上げたが、左近が自分の上に覆い被さっても、別段驚いた様子を見せなかった。逆に冷静な面持ちで左近を見上げ、左近を憐れむかのように見ていた。
「そんなことはしないわ」
「いや、今のお前ならやりかねない」
 ゆっくりと綾女の存在を確かめるように、綾女の肌の上をなぞって行く。
「この髪、この肌……そうでなくても、お前の存在そのものが男を誘い狂わせる」
 胸の谷間に左近は顔を埋めた。ちりりと肌の上に痛みが散った瞬間、左近は底冷えするような微笑を浮かべた。
 所有の証は一時的なものだ。数日もすれば消えていってしまうものである。それでも、一時的なものだとわかっていても、綾女の上に己の跡をつけずにはいられない。
 新月の間二人はともにいた。しかし月が満ちだすと綾女の性は妖魔へと変わっていく。それは止められない性だった。妖魔の血を幾度となく浴びた。妖魔の血に耐性はあるが、妖魔にならない保証にはならなかった。そして今、綾女は妖魔の性を持つ故に男の精を必要とし、左近は人間であるが故に綾女の糧となり続けるわけにいかなかった。人間の男が妖魔と交わり続ければ、死ぬしかないからだ。
 この髪に自分以外の男の指が触れる。この唇に自分以外の男の唇が触れる。誰かが――その光景が振り払っても振り払っても脳裏に浮かび上がってくる。聞こえるはずのない声までもが聞こえてくる。
――いっそ……。
 左近はむくりと上半身を起こした。
 綾女は褥の上に仰向けに寝ている。
「俺が好きか?」
「好きよ」
 綾女は即答した。
 左近はじっと綾女を見つめ、二呼吸したのちその首にゆっくりと手を伸ばした。
 綾女は身動きせずに、左近にされるがままになっていた。
 左近は綾女の首に巻いた指に力を込めた。
 綾女はいっさい抵抗しなかった。
 綾女が瞳を閉じる。
 左近はいっそう力を込めた。
 それは瞬間。息の止まる寸でのこと。
「もういい! 勝手に行け!」
 悪夢のような時間は終わった。
 左近は綾女に背を向けて座った。背中が綾女のどんな返答も拒否していた。
 喉元を撫でながら綾女も身を起こす。黙って衣服に手を通す。
 

 綾女が左近の傍から離れてから、二度目の満月の夜が過ぎた。
 いつもならそろそろ綾女は戻ってくる頃であった。
 しかし、今回はいつもと違う。
「わたしたち、もう会わないほうがいいのかもしれないわね」
 戸口から出て行くとき、綾女が呟いていたのだ。
 左近が振り返ったときには、風の気配しか残っていなかった。
――別れる、だと?
 血の気がすっと引いていった。
 お互い疲れている。それは分かっていた。
 自分の身勝手さが綾女を追い詰める。それも分かっていた。
 だが、手放せない。知ってしまったのだ。二つの魂が溶け合う心地よさを。
「お前が俺のつがいの魂だったのだな」
「な、何をいきなり言い出すのだ」
 最初の夜に綾女は顔を真っ赤にして左近に言い返した。
 綾女はああは言ったが、左近は大真面目で言ったつもりであった。
 今からして思えば、なんと満ち足りていたことだろう。
――もう満ちることはないのか。
 下弦の月は細く細く漆黒の闇に浮かんでいる。
 今夜もいつ訪れるとも分からぬ女を待って、左近は眠れぬ夜を送る。

 渇く心を抱き、火照る身体を持てあまし――。
 
 

menu