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「雪夜」
ふと目が覚めた。
横になったまま見回した部屋の中は妙に明るい。
障子越しにも、青白い光が見て取れる。“雪か....”
部屋の空気は冷え切り、少しでも起きあがればたちまち
寝具の温もりも奪い去られてしまうだろう。
だが、人影は音もなく戸を開け、廊下へと出た。月も星もない、霞んだ黒い空から、絶え間なく雪は落ちてくる。
その雪の向こうに佇む姿を見つけ、左近は息をついた。
白い寝間着に、長い髪を肩下で結わえた後ろ姿。さく.....
無意識に踏み出した足元で、真新しい雪が音を立てた。
弾かれたように、人影が振り返った。
“左近か....”
呟いた綾女の口元に、かすかに白い息。
それだけがわずかな体温を示すようで。
思わず肩をつかんで引き寄せたい衝動に駆られる。
それを押さえ発した言葉は、いつもながらの皮肉な響きを持っていた。
“こんなところで考えごとか?風流なことだな”普段ならすぐに向けられるまっすぐなきつい眼差し。
だが今は、うつろで悲しげな光が降りしきる雪に注がれるのみ。“だんだん....思い出せなくなっていくんだ”
小さな掠れた声。“皆の顔や...里の景色が....おぼろげになって...”
ぽつりぽつりとこぼれる言葉。“わたしは、なにを愛していたのか...何の為に今を生きているのか..
...もう何も...分からない......”
冷え切った体を引き寄せても、何の抵抗もなかった。
氷の様に冷たい髪が喉元に触れ、廻した両腕で初めて
その体の細さを知った。今なら何の苦もなく、この腕の中閉じこめられる。
死んでいった者の為だけに生き続けるくらいなら...
いっそ哀しみに呑まれてしまえばいい。そうすれば、お前は.....
“あたたかいのだな”
どのくらいの刻が過ぎたのか。
暗い望みにとり憑かれた耳に、小さなつぶやき。
“何がだ....?”
“お前の体は、もっと冷たいと思っていた”触れあった体を伝わって響く、微かに笑いを含んだような声。
そこにさっきまでの虚ろな響きはもうない。
その刻は過ぎたのだと分かった。
踏み切れなかった己に思わず苦笑が漏れる。“なら、もっと暖めてやろうか?”
言った途端、暴れ出した柔らかな感触を、からかいに
紛れ、一瞬だけ力を込めて抱きしめた。
“なっ....放せっっっ!”
朱に染まった耳に口づけて、やっとの思いで腕を弛める。
すり抜けた存在は射すような視線を残して、駈け去っていった。
綾女が消えた懐がひどく寒かった。
焦げ付くような想いを持て余しながら、自分自身は決して
暖めることができない。“あたためるより、いっそ.....”
ー焼き尽くしてやりたい掠れたつぶやきは闇に吸い込まれていった。