春待ち月
タイマーが時間を告げる。9時。ジョギングに出かける時間だ。最後の問題を解き終わったところでキリも良い。ノートを閉じて立ち上がり、ウェアに着替えて玄関を出る。路上で軽くストレッチをしながら自分の部屋を見上げる。向かい合った窓は暗くて、帰りは今日も遅いらしい。
夜の中へゆっくりと走り出す。住宅街とあって、この時間は車も人もほとんど通らない。月明かりに照らされた人気のない道に自分一人の足音が響く。
受験で最後に物を言うのは体力だと、中学受験の時から始めたこの習慣ももう6年目か。
先に夜のジョギングを始めたのはあいつの方。それこそ体力づくりのために。で、それに乗ったのが俺。『女の子が夜に一人で出歩くなんて』という親の後押しもあって、以来ずっと二人で走ってきた。一昨年、あいつが大学に受かるまでは。あいつは大学にはいるとすぐにバイトだサークルだと忙しくなって、いつの間にか俺は一人で走るようになっていた。あいつを感じられない、多分、初めての時間。
考えてみれば幼稚園の頃から一緒だった。あいつはどういうわけか小さい頃から面倒見が良くて、一人っ子の俺は何かとかまってもらっていた。まるで本当の姉弟のようだと、俺の親もあいつの親もよく言っていた。あいつもよくそう言って笑っていた。俺もそう思っていた。折り返し地点の公園に入る。この公園を抜けたところにあったケーキ屋は、あいつがものすごく気に入って一時通い詰めていたが、去年コンビニに変わってしまった。時は流れる、世の中は変わってゆく。
それを実感したのは去年の今頃のことだ。やっぱり月が明るい夜だった。
ジョギングから戻ってきてみると、ちょうどあいつが車から降りてくるところだった。夏を過ぎたあたりからちょくちょく見かけるようになった、あの車だ。中をのぞき込んでなにやら話しかけている。
その時の笑顔が。
長いつきあいで、初めて見た顔だった。はにかんだような、嬉しそうな楽しそうな、甘い甘い笑顔。見たことのない女の顔だった。あいつはあんな顔も出来たのに。俺はそんなこと、全然気づいていなかった。俺は何を見てきたんだろう。『姉』の顔しか見ていなかった。いままでもこれからも、ずっと『姉』だと思っていた。本当はそれ以外の顔を見たくなかっただけかも知れない。
そして思い知らされた。過ぎた年月の長さと、越えられない2才という年の差を。
あいつは花の女子大生、俺は受験真っ最中の高校生。二人とももう、真っ黒に日焼けしてじゃれ合って笑い転げている小学生ではなくて。
あいつは姉なんかじゃなくて、あいつにとって俺はただの弟で。
あいつにあんな顔をさせてやれなくて。 あいつは誰かの手を取って、俺は手を差し出すことすら思いつかなくて。
俺が本当は一番見たかったはずの笑顔は、そうと気づいたときはすでに他の誰かのものになっていたのだ。町内を一周して日課は終わる。所要時間は30分ほど。受験日も迫った今、気分転換にはもってこいだ。
もう一度軽くストレッチ。門扉に手をかけて見上げると暗いままの窓。まだ帰っていないのか。
「あらぁ、蘭じゃない。受験生がこんな時期にまだジョギング続けてるの? 感心感心」
後ろから上機嫌な声がかかった。振り向くと、ほんのり桜色をしたあいつが笑いながら立っていた。
「……綾姉。デートだったんだろ? そんなに酔っぱらってると嫌われるんじゃねーの?」
「ふふ、はーっずれ。今日はね、友達の誕生日だったんだもーん。女4人でカラオケ三昧だよー」
女4人……あいつと一緒じゃなかったのか……。
「なんだそれ、色気ねーのな。いい年してなっさけない」
「たまにはいーの。それよりアンタ、もうすぐ受験でしょ? こんなとこにいちゃ風邪引くわよ。ほら、早く中に入ってあったまろ」
そう言うと自分のマフラーを外し、俺の首にかけてくれた。自分のではない温もりが伝わる。その暖かさで、自分の体が冷えきっていたことに気づいた。
手招きされるまま、綾姉にくっついて隣の家に上がり込む。いつものように。昨日模試の結果が出た。全ての志望校にA判定が出ていた。これならばどこへでも好きなところへ行けると、先生が喜んでいた。ならば行き先は決まった。
どこへでも行けるなら、より遠くへ、ここから一番遠いところへ。
大学に入ったらひとり暮らしをするってことは元々の約束だから、親は遠くへ行くことに反対はしないだろう。
でもこれは綾姉にはぎりぎりまで内緒。
要らないはずの滑り止めが綾姉の大学なのも、内緒。
綾姉は綾姉の知らない俺がいるってことに気づくだろうか?遠く離れている間に、手を差し出すのにふさわしい男になれるだろうか。
実際に手を伸ばすことはあり得ないけど。
それでも、いつかは。
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【終】