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「今宵、星の降る夜に」


澄みきった空気、満天の星。
時折聞こえてくるのは、風にそそのかされた木々の囁き───そこはまさに、静寂の支配する世界。
そんな中、ふぅ、と一つ綾之介は大きく息を吐く。
「・・・たまにはこういうのもいいものだな・・・」
それは久しぶりの、安堵のため息だった。

───ほんの少し時をさかのぼることとしよう。
葉ヶ塊の里を後にして既にひと月以上が経とうとしている。
山あいの木々は秋色の衣を纏い始め、折から吹いてくる風は徐々に冷たさを帯びてきた。
そんな日のことである。今日はこの辺りで野宿をしようと言い出したのは龍馬だった。
「ここからちっと先に、湯が湧いとったのをさっき見つけたんじゃ。久しぶりにゆるりと風呂にも入れそうじゃし・・・おんしら、それで構わんじゃろ?」
と、旅を共にする二人に同意を求める龍馬の顔が、自然とほころんでいく。
無理もあるまい。伊賀までの道のり、そうそう宿に泊まっていては色々とと不都合が生じるし、第一足がついてしまえばその宿の人たちにも迷惑をかけてしまう可能性が高い。
自然、風呂というものに縁遠くならざるを得ない状況がここしばらく続いていたし、この先も同様である。久しぶりの風呂にありつけるのだとしたら、嬉しくならない理由などあるわけがない。
「・・・俺は別に構わんがな。」
言葉少なに左近が答える。
「おんしゃぁ、相変らずじゃのう。もうちっと素直に喜んでもええじゃろうが・・・のぅ、綾之介殿。お主はどうじゃ?」
「・・・あ、あぁ、そうだな。私も龍馬殿の意見には賛成だ。」
「ならば、これで決まりじゃのぅ。」
山あいの夜の訪れは思った以上に足を速めている、日が傾き始めているのに気づいた三人は闇に覆われぬうちに適当な場所を探し、今宵の宿とすることにした。
慣れた手つきで火をおこし、簡単な食事を済ます。そして待ちかねたかのように、
「さぁて、と・・・久しぶりの風呂を、ひとつ楽しんでくるかのぅ。」
意気揚々とする龍馬。その手には何処から調達してきたのか、酒の入った瓢箪が握られている。
「お前さん達は、どがいする?」
「左近、お主も行って来い。どの道一人はこの場に残らないとまずかろう・・・私は後でも構わぬ。」
左近はしばらく黙っていたが、ふっと小さく笑うと、
「・・・では、そうさせてもらうとするか・・・」
そう口を開いて、龍馬と共にその場を後にしていった。

───そして真夜中。綾之介は一人、湯が沸いているというこの場所にやって来たというわけである。
里を焼かれ、いつ終わるとも知れぬ戦いに身を投じる日々。こうして晒しを解き、自分本来の姿に戻るのも彼───いや、彼女にとっては本当に久しぶりのことだった。
凛と冴え渡る空気の中、星空を見上げる。しばらくぶりに訪れた静かな時の流れの中で、ふと目を閉じてみる。
思い出すのは香澄の里───時には小さな子供たちと戯れるような平和な日々。
もしもあの時何事もなかったら、自分は今頃どうしていたのだろう。あの里で、女として幸せな時間を過ごしていたのだろうか?───
ふと頭の中によぎった思いを、綾之介は否定し、自嘲した───そう、訪れるはずもない日々に思いを馳せても仕方がないことなど、自分自身が一番よく分かっているのだから。
(・・・父上、兄上・・・きっと敵は討ちます・・・!)
綾之介のそんな叫びは声となって現れることなく、闇の中へと吸い込まれていくのだった。

風呂から帰ってくると、火の番をしているのは左近だった。
「何だ、今日は龍馬殿が寝ずの番ではなかったのか。」
「どうやら風呂で引っかけたのが効いたらしくてな。」
左近の言葉に綾之介は納得した。
綾之介も龍馬も、それほど酒に弱いわけではない。しかし目の前にいる男の酒の強さが並大抵ではないことを、この短い旅の間で知ったからだ。
「・・・まぁ、それも仕方ない、か。」
半ば呆れたように言い放ち、火のそばに腰を落とす。
「お主も飲むか?・・・といってもあいつに飲まれてほとんど残っていないがな。」
「そうだな・・・いや、今日ははやめておこう。」
「そうか・・・」
「それにしても、なかなかいい湯だった・・・このような機会にはなかなか巡り会えぬからな。」
「・・・それで、つい長風呂になってしまった、というわけか。」
「少し、考え事をしていたのでな・・・」
「考え事、ね・・・」
独り言のようにそうつぶやくと、左近は酒の残りを一気に飲み干した。
「ま、そういうことにしておいてやろう。」
「───何が言いたい?」
意味ありげな物言い───綾之介は怪訝そうに目の前の男の顔を見やる。
そんな反応を知ってかしらずか、左近は火を見つめたまま徐に口を開いた。
「・・・葉ヶ塊の里でもそうだったな。湯殿に行こうという龍馬の誘いを断り、館を出て行った・・・」
足元の小枝をパキン、と折って火の中へと放り込む───それは一瞬にして炎の一部と化していった。
「そして、今宵もだ・・・何故、お主は湯浴みというと我等を避けるのだ?」
「・・・誰だって一人になりたい時ぐらいはあるだろう?」
「理由はそれだけか?」
つかさず返された問いに、綾之介は言葉を詰まらせた。
チロチロチロ・・・
しんとした空気の中、焚火の音だけが妙に響いている。
「・・・俺はこれでも幾人かの女を相手にしたことぐらいはある・・・短い間とはいえ、寝食を共にしている者が男か女かの区別がつかぬほど愚かではないさ。」
「・・・・・」
「いくら身形を変え、言葉や仕草に気をつけていても───」
左近の眼差しが、突き刺さる。
綾之介の表情に、緊張が走る。
「───所詮、お主が女であることには変わらぬ・・・違うか?綾之介。」

そういつまでも隠し通せるものではないことぐらい、綾之介も十分に承知していた。
しかし、あまりにも突然に“その日”がやってきてしまったことに、今は戸惑いを隠すことは出来なかった。
しばらくの沈黙───破ったのは彼のほうだった。
「何故、自分を偽る必要があったのだ?そんなことをしなくても十分に戦えるはずだと、俺は思うがな。」
「・・・あの日・・・里を焼かれ、自分だけが生き残ってしまった・・・皆の敵を討つために、今までの自分と決別するために・・・こうする他なかったのだ!」
言葉を一つ一つ紡ぎ出すうちに、綾之介の頬には熱いものが伝っていた。
自分の意志とは無関係かのごとく、とどまることを知らぬ涙───
それでも、目の前にいる青年───いや、少女というべきか───は、それでも声を荒立てることはなかった。
そんな様子を黙って見ていた左近だったが、
「・・・仕方無いな・・・」
ため息混じりにそうつぶやくと、その頭をぐいっと自分のほうに寄せ、自らの片膝にあてがった。
「・・・い、いきなり、何をするっ・・・!」
突然の行動にうろたえる綾之介。
「安心しろ。何もしやしないさ。」
「・・・・・?」
「・・・夜明けまではまだ間がある。今のうちに体を休めておくんだな。」
しかし、それが左近の精一杯の慰めであることに気づくと、綾之介は素直にその厚意を受け取ることにした。
夜空の星は、先刻と何ら変わることなく輝き続けている。
「・・・なぁ、左近。人は死ぬと、星になって天に昇るそうだ・・・そんな話も、今宵のような空を見ていると信じてみたくなるものだな。」
「・・・そうだな・・・」
二言三言、言葉を交わしたものの、彼女の寝息が聞こえてくるのにそう時間はかからなかった。
左近は、まだ乾ききっていない漆黒の前髪をそっと掻き上げた───まだあどけなさの残るその寝顔を優しげに見つめながら。




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