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サボテン (現代版)
 

それは、突然の出来事だった。

「……おい、一体何処行くんだ?」
「…別に、いいじゃない?どうせ貴方には関係ないんだから。」
そう言って彼女は降りしきる雨の中、小さなボストンバッグを片手にして部屋を飛び出していった。
追いかけようと思ってみたものの、───今の俺には、どうする事も出来なかった。
 

部屋に一人取り残された俺は、とりあえずジャケットのポケットをまさぐり、そのケースから残り少ない煙草を一本取り出し、おもむろに火をつけた。
(……まったく、何考えているんだか。)
煙を吐き出す度に、洩れる溜め息。
こうして一緒に住むようになってからは日がまだ浅い。だが、その前からお互い付き合っていたわけだし、それ以上に自分たちには深い絆がある。だからお互いは十分に分かり合えている───そんな自信が何処かにあった。それだけに今回の彼女の行動に正直、多少のショックを受けたのは事実だった。
しばらくして短くなった煙草を八つ当たり気味に灰皿に押し付け、ソファに横たわる。
何となく部屋を見回していると、窓際に置いてあるサボテンの鉢が目に入ってきた。それは彼女が日頃から世話をしているもので、今日は何故か溢れんばかりの水を湛えていた。
不意に、昨日の出来事が頭をよぎる。
 

「…ねぇ。私って、貴方の恋人……よね?」
サボテンに水をやりながら、彼女は突然そんな事を訊ねてきた。
「……当たり前だろ、そんなの。」
「じゃあ、私の事、どう思ってる……?」
「…そんなの、今更言わなくても分かっているだろ?」
何を今更、という思いに照れくささも手伝って、俺はそう応えた。すると、サボテンに水をやる彼女の手の動きがしばらく止まった。
「…やっぱり、そうくるか……」
「……何が言いたい?」
「…まぁ、別にいいんだけど。でもさ、最近…何か、ちょっと寂しいんだよね。そういうの……」
そう小さく呟くと、再び手を動かし始めた。
そして彼女はそれっきり、必要最低限の会話以外に口を開く事もなかったし、俺と視線を合わせようともしなかったのだ……
 

俺はソファから立ち上がってそのサボテンに近づいた。
興味本位で指を伸ばして触ってみると、小さくて柔らかなトゲが刺さる。
大した痛みではないと、その瞬間は思った。
そのトゲを抜いてみても、案の定どうってことはない。けれども、指先に残るこのじんわりとした痛みは何だろうか───?
もしもこの指の痛みのように、ささやかな言葉ですら口にしなかった俺の態度が彼女の心に少しずつ小さなトゲを刺していたのだとしたら。それに俺自身が気づいていなかったとしたら───
こんなに情けない事はない。

ただの恋人ではない。何百年も前の、深い繋がりを持った関係。
だから、こうして彼女が傍にいてくれるのが当たり前の事のような気になっていた。
想いは十分伝わっているものだと信じていたから、敢えてそれを形にして表わすこともしなくなっていた。日々重ねられていく日常の中、俺はいつの間にかこの状況に慣れきってしまっていたのだ。考えてみれば奇跡的な確率で俺達はめぐり会えたはずなのに。
(…あいつが出て行ったのも仕方ない、って訳か。)
自嘲気味に苦笑するしかなかった。

雨は未だ途切れることなく降り注いでいる。
今、彼女は何処でこの雨音を聞いているのだろうか?
彼女の心にこの雨音はどう響いているのだろうか?
まるで彼女の居場所をかき消すかのように、その音はなおいっそう俺の耳に大きく響いてくる。
(確か、あの日もこんな雨だったな……)
ふと彼女と出逢った日の事が思い出された。
あの頃は何かと口実をつけては彼女を誘い出していたものだった。何気ない日常で見せる彼女の笑顔はもとより、怒ったり拗ねたりする態度ですら、愛おしく思えたものだった。

それなのに今の俺と来たら、何たる有様だろうか。
彼女の瞳をまっすぐ見詰める事にすら、自信を失いかけている───
 

彼女が今何を思っているのか、どんな言葉を待っているのか、今の俺に知る由もない。
だが、俺の気持ちはとうの昔から決まっている。
それをきちんと伝えるのがどんなに大切な事なのかを思い知らされた。前世の縁があるとはいえ、俺も彼女も“現在(いま)”を生きている。俺自身もそうであるように、彼女は“綾女”であって“綾女”ではないのだから。
(……それに、このまま女に逃げられたとあっては、“疾風の左近”としてはいまいち腑に落ちんから、な。)
 

どれくらいの間そこに佇んでいたであろうか。いつしか雨音は止み、うっすらとオレンジ色をした陽光が窓辺に差し込んできた。
俺は財布と携帯を無造作に手にすると、部屋を後にした。
 

<Fin>
 
 
 

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