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こいごころ
 

あれは、もうずいぶん前のことなのだろうか.
 時の間隔さえ、ここではあいまいだ.
 鳳来洞ーー。
 ここにこもって、もうだいぶ経つ.
 左近は一人、想いを重ねる.
 過去へ、未来へ.

 
 血塗られた衣を纏う綾之介に、左近は血で濡れた刀を鞘に仕舞うことさえ忘れて見入っていた。
 つい先ほどまで綾之介は短刀を手に戦場を駆けめぐっていた。鬼神の如く、そして蝶のように敵陣の中を舞うように駆けめぐり、敵を葬っていたのだ。
 短刀を仕舞った綾之介は戦いの中だという緊張感さえ失っていないのに、何故か艶めいて美しかった.まるで乙女のような、そのような魅力をはなっていた。
 左近は思わず綾之介を見つめる.
 何がこの綾之介を鬼の如きものに変えるのか。
 その理由をその時から左近は知っていた。

 恨み。
 憎しみ。
 そして。死を願う心。

 それが綾之介を鬼神の如きものに変えていた。
 それをいまの左近は知っている.
 考え、考え….そして知った.
 悲しい現実だ。
(何故お前はそこまで自分を偽るのだ――)
 女であることを棄てて。
 男となることを選び。
 平和な生活を送ることさえ望まず。
 敵を取ることを望んで自ら戦場の中に身を置き。
 優しい、素直な娘である綾女を固く封印して。
 綾之介として生きて。
 そして、戦いの果てに、何が残るのだろう。
 何が、残るというのだろう。
 

「左近、どうかしたか?」
 訝しげな綾之介の視線に射られた。
 左近はこの辺りに他の敵がもういないかどうかを確認していたかのような振りをして、懐の懐紙を取り出して血で濡れた刀を拭って鞘に収めた。
「もうこの辺に敵はいないようだな」
「ああ、そのようだ」
 頷く綾之介に左近は苦笑した。
「今日は信長軍も一体何を考えているやら。お粗末な軍を送り込んできたものだ」
「いつもこのくらいならいいのだが……」
 ぎりっと唇を噛みしめる綾之介を見て左近は心の中で眉を顰めた。
(何故お前は――)
「――戻ろう」
 綾之介がやがて絞り出した言葉に左近は同意して伊賀の里に足を向けた。

 里は、信長軍を撃退したことに喜びの表情を隠せない人に満ちていた。
「これぞ伊賀の底力よ」
「信長軍がなんぼのもんだ。また来ても撃退してやるさ」
 血気にはやる里人の声に左近は小さな溜め息をつく。
 今日の信長軍は明らかに弱い軍を送り込んでいた。あれが信長軍の真の力では有り得ないのだ。そのことに里人達は気付いていない。
「おめでたい奴らだ」
 けれどそれを聞き咎める者は既に隣にいない。
 綾之介は途中で出会った龍馬と共に今日の戦いについて長の屋敷で報告しなければ、と長の屋敷に指向していた。
(何故分からない? 今日の敵が弱すぎたことに。呆気なさ過ぎたはずだ。それなのに気付かないのか?)
 左近は村を巡り、里人達の喜びように一層深い溜め息をついた。

「今帰ったところか?」
 長の屋敷の廊下で綾之介と出会った。
 血に濡れた戦闘服は既に脱ぎ、普段の服に既に着替えているのを見て左近はふと気が緩むのを感じた。
(何故だ――?
 ああ、血塗られた衣でないだけで普通に見えるからか)
 そう、そこにいるのは鬼神の如きものではない。その鬼神の残像のような血塗られた衣も纏っていない。それだけで、それだけで綾之介は普通の少年のように見えた。
「お前はいつまで戦場にいるつもりだ? 綾之介」
 綾之介は眉をつり上げる。綾之介の心は既に伊賀と共にあるというそのことを、左近は知っているくせに、問い掛ける.
「無論、信長を倒すまでに決まっている!」
 激昂する綾之介に左近は静かな視線を注いだまま黙り込んだ。
 沈黙。
 それは長いような短いような。
 一瞬のことだったのかも知れない。
「それは、価値あることなのか?」
「あるに決まっているだろう!? 今更なことを――!」
 綾女は肩を怒らせて左近に険しい視線を注ぐ。
「本来の自分を棄てることにどんな意義があるというのだ。
 本来の自分を棄ててこの戦いで一体何が得られるというのだ?」
 左近の言葉に綾之介はぐっと息を呑んだ。
「お前の名は? 本当の名は?」
「綾女……。香住の、綾女」

 そうこたえながら、綾之介の心に少女として生きていた頃の自分の残像が、頭をよぎる。
 当たり前のように与えられた幸福な微睡みの中で生きていた少女の姿が。
 そして、当たり前の生活が、一気に打ち砕かれたあの日のことが。

「何故、お前には分からないんだ。
 同じ里を滅ぼされた者だというのに!」
 綾女は左近に背を向けると一気に駆け去っていった。
 左近に重い一言を残して。
 

(俺はただ請うているのだ。お前が女子として生きることを――その術を。お前の真実を.真実の名を知ったあの時から)
 甘く、苦い綾之介――綾女への感情。
 その感情の名を左近は既に知っていた。
 甘い囁きを持って語られる、その恋という名を。

(俺達は何故男として、女として出会うことが出来なかったんだろうな)
 輝く木漏れ日の中、出会ったあの日。
 既に綾女は綾之介として生きることを選んでいた。男として生きる、茨の道を。(俺は請う。
 俺は恋う。
 お前が女として生きられる道を。
 お前に恋する一人の男として――請う)
 
 

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