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  「 それは、かつて日のあたる場所という名で呼ばれた地にて 」
 

「ならば、あなたは何故葉ヶ塊に行くのです!」
「さて………何故かな…」
 そう言って、左近は頭の下に組んだ手を枕代わりに、目を閉じた。
 動かないその横顔を暫く睨みつけていたが、やがて綾之介は唇を噛んで静かに揺れる焚火に目を向けた。
 八つ当たり気味に手近の枯れ枝をへし折る。
―――――この人は…解らない 
 火は……否応なく香澄の最期を思い起こさせる。
 のたうつ炎に絡め取られ、燃え尽きてゆく村。まざまざと焼きついた兄の最期。―――思い出すだけで胸が煮える。
 自分から愛するものを奪った者を、決して許すまいと心が凍る。
 この男とて生まれ育った故郷を失い、仲間を、思い出に繋がる全てを失ったことに変わりは無いはずなのに。 
 何故、そのように平然と冷めていられるのだ。
 焼け落ちた里を後にしながら、香澄や葉ヶ塊に走るでもなく野党にまで身を落として、ただ諾々と時を過ごして。
 何を思ってそのような真似をしていたものやら、左近の胸中は綾之介には到底理解できるものではなかった。
 そして今もまた、ここまで道を共にしながら、葉ヶ塊に行ったところで無駄だと平然と言い放つ。
 この男の考えていることは、解らない。
 綾之介は乱暴な手つきで枝を炎に投げ込んだ。
 パチパチと高い音をたてて、一瞬火勢が増す。
「…………香澄が、恋しいか…?」
 不意に、眠ってしまったとばかり思っていた男が目を閉じたまま呟いた。
「何が言いたいのです!?」
―――馬鹿にされたと、思った。
先刻のやりとりの名残もあった。大人気ないと思いながらも声が尖るのを止められない。
「誰もがお主のようには思うておらぬということだ」
「………?」
「俺から奪ったのは、妖魔などではない。………里だ」
 一瞬、何を聞いたのか理解できなかった。
「日向の里が、姉を殺した」
 冷えた声だった。
 ずいぶん……昔の話だがな、と。そう付け加えて。
 左近はそれ以上を語ろうとはしなかった。

 ……それ以上は、訊けなかった。
 

 
    ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
 

 
 加賀の国の片隅の、今はもうそこを訪れる者も無い。
 2年前、一度だけ訪れた。
 ここが、あの男の生まれ育った場所―――――
 
 雲が流れ、月を覆い隠した。
 闇の中、深草色の外套に身を包んだ旅人が溜息を吐いた。
 綾之介である。
 ……急ぐことなど、なかったのだ。どのみちもうここには何も残っていないと解っていたではないか。
 訳も無く気の急くまま、あるかなきかの獣道をわき目も振らず歩きに歩いて……息を切らしながら、やっと辿り着いてみれば真夜中だ。
 木立を抜けて目の前に広がるのは、夜の闇に沈んだ村の残骸。
 不思議と、心は波立たなかった。
 以前この惨状を目の当たりにした時の、絶望に放心した自分を覚えている。
 あの時は、まさかこんなものを見ることになるとは思っていなかった。
 今はそれを承知の上で来たのだとしても……何故だろう、ここに来るまでは何かに追い立てられるかのような焦りすら覚えていたというのに。
 いや、むしろこの光景を前にしたからこそ、心は鎮まったのかもしれない。
 2年前の惨劇の跡は、生い茂る草木に癒されつつあるのが夜目にも見て取れる。
 それは即ち、かつてあった人々の営みの痕跡すらも飲み込まれてゆくということに他ならなかったが。
 草の葉が風に揺れて音を立てる。柔らかなその音が、今はひどく空虚な音に聞こえた。
―――――解りきっていたではないか
 自嘲の笑みが唇を歪める。
 いったい、何を期待していたと言うのか。
 外套の下で、太刀の鞘を握る手に力が篭る。
 解っていたのに。
 ここに来たところで……あの男の過去の影を見ることなど、もはや叶わないのだと。

 
「まあ……珍しいこと」
 不意にすぐ近くで女の声がした。ぎくりとして振り返ると、10歩と離れていないところに若い娘の姿があった。
 雲が切れ、顔を覗かせた月の光に、その身に纏った小袖の藤色が白く映えた。
 切れ長の目をした、おとなしやかな美しい娘だ。
 綾之介とさほど変わらぬ年頃に見えるのだが、落ち着いた雰囲気のせいだろう、幾つも年上のように感じられた。
 しかし。この距離にいて綾之介に気配すら感じさせないなど、ただの娘ではない。
―――――当たり前、だ
 まだまだ修行が足りぬ、と胸の内で呟いて綾之介は強張った肩から少しだけ力を抜いた。
「日向の里の方ですか…?」
 当たり前だ。
 生き残った者がいるなどとはよもや思ってもみなかったが、ここは影三流が一、日向の里のあった場所なのだ。
 このような刻限に、何もなくなったこのような場所にたった一人でいるならば、それがただの娘であるはずがない。
 当の娘は……何故か辺りを見回し、そして驚いた顔で綾之介を見つめて瞳を瞬き。もう一度、まあ……と声を漏らした。
 失われた村を訪れた余所者に驚いたというのとは少し、違うようだった。それはまるで、何か不思議なものでも見ているような。
「……日向の、方ですか?」
 相手の様子に戸惑いながら重ねて問うと、娘は静かに頷いた。
「怪しい者では……」
 言いながら綾之介が娘の方へ一歩踏み出したとたん、二人の間に白い影が飛び込んできた。
 草叢に息を潜めていたのだろう、それは一匹の大きな白犬だった。
 娘を背にして低く唸り声を上げ、綾之介を威嚇するそれは間違いなく忍の者の訓練を受けた犬だ。
「およし、如月」 
 強い口調ではなかった。だが、犬はその一言で唸るのを止め、綾之介の前へと歩み寄る主の左横についた。
「ご無礼、お許しくださいませ。―――私の名は紫乃。おっしゃるとおり、日向の里の者です」 
「私は香澄の綾之介と申します。この太刀を、届けに参りました」
 朱塗りの鞘に収められた、一振りの太刀。
 外套の下から現れたそれが誰のものであるかを知っていたのだろう。柔らかな笑みを浮かべていた娘の顔がすっと蒼ざめ凍りつくのが、月明かりの元ですら見て取れた。
 しばし言葉もなくそれを見つめ―――やがて震える手が綾之介の差し出す太刀を受け取った。
 胸に抱いた太刀の柄を、白い指が優しく撫でる。
 今は亡い持ち主の手の跡をたどるかのように……或いは幼子をあやすように。ゆっくり……ゆっくりと。
―――ああ、このひとは左近を………左近の……
 そのいとおしげな仕草が、その娘の左近への想いを言葉よりも雄弁に語った。
 まだこの場所に、左近の死を悲しむひとがいたのだ。
―――左近が生きていたら……このひとが生きてこの地で待っていたことを知ったら、どんなに… 
「左近は、死んだのですね…」
 長い睫を伏せ、紫乃が呟く。
 綾之介は無言のまま頷いた。
「他に……生き残った方は…?」
 その問いに、応えが返るのには僅かな間があった。
「……ここにいるのは、もう私と如月だけです」
 薄い色の瞳が、淋しく微笑んだ。
 

 
 

 紫乃と名乗ったその娘が綾之介を招いたのは、村の外れに焼け残っていた一軒の家だった。
 屋根も壁も破れ、雨露をしのぐのがやっとのそれは、かろうじて形を保っているといっても良い代物ではあったが。
 囲炉裏の前に脚を崩して座った紫乃の傍らに、一応は警戒を解いたのか如月が丸くなって眼を閉じている。
 左近のことを聞かせて欲しいとせがまれるままに、綾之介はぽつりぽつりとこの僅かな年月のことを語った。
 葉ヶ塊の里へ向かう旅の途中、永伏山で野党の頭となっていた(それには紫乃も呆れたようだった)左近に出会ったこと。
 行き掛かり上とはいえ、出会うなり刃を交える羽目になったこと。
 葉ヶ塊の里へ向かい、龍馬と出会い。
 伊賀へと走り。
 信長軍と戦い、化物と戦い。
 やがて戦う意味を問うて左近は、戦う意味を見失った者達を残して一人去った。
 一度だけ、飛騨の山奥に彼を訪ねたが、結局その心を変えることは出来なかった。
 そう、思っていた。
 だがあの夜、安土に、左近は現れた。
 あの冬の日から半年余り。その間に彼に何があったのか、何を思ったのか……綾之介は知らない。
 さだめのために生きるつもりも死ぬつもりもないと言い放った男は、そして戦い、傷つき、倒れ……死んでいった。
「―――穏やかな顔を…していました…」
 苦痛が無かったはずはないというのに、それは不思議なほどに穏やかな最期だった。
 言葉を挟もうとはせずにただ頷きながらじっと話に耳を傾けていた紫乃は、そうでしたか……と一言だけ呟いて、沈痛な面持ちで長い睫を伏せた。
 重い沈黙が暫したゆとう。
「……申し訳…ありませぬ…」
 声が掠れた。膝の上に握り締めた拳が震える。―――それだけ言うのがやっとだった。
 いいえ、と、紫乃は静かに頭を振った。
 血の気の無い唇で、それでも気丈に微笑もうとする紫乃を、綾之介は綺麗だと思った。 
 このひとの心の中には、自分の知らない左近の姿がある。今となっては決して知ることの出来ない、あの男の姿が。
 語りながら、綾之介は改めて気づかされた。かの人と共にあった時間が余りにも短かったことに。
 綾之介は左近のことなど、何も知らないに等しい。
 多くを語る男ではなかった―――――語ってはくれなかった。
 自分自身のことも。日向のことも。
 このひとの、ことも。
 この場所に人の営みの息づいていた頃……あの男もこうしてここから彼女を見つめたのだろうか。
 あの男はこのひとにどんな顔を見せていたのだろう。
 どんな顔で笑ったのだろう。
 このひとは―――――……
 視線を逸らして俯いた綾之介に、紫乃は鳩のように小首をかしげた。
 囲炉裏の中で揺れる炎が日に焼けた顔に影を刻んで揺れている。
 その横顔をしばらく黙って見つめていたが、やがて何か得心のゆくところがあったのか紫乃は困ったように微笑み、口を開いた。
「綾之介様、本当のお名をお聞きしたいのですけれど…?」
 はっと顔を上げた綾之介を、紫乃は穏やかに見つめている。
 ―――1年前……同じ会話をした。    
「……綾女、と申します」
「綾女様、―――――良いお名ですわ」
 そう言った紫乃の微笑の上に、今は亡い男の面影が重なる。
 良い名だ、と。同じ言葉を左近の口から聞いた……
「では、綾女様。あなたは多分、誤解しておいでだわ。―――私は左近の、姉です」
 …………………………。
「あ…姉君!?」
 綾之介の頓狂な声に驚いて、眠っていた如月がびくんと顔を上げる。
 ずいぶんと的外れなことを考えていた己に気づくより、頬に朱の色が差す方が先だった。 
 思わず片手で顔を覆った綾之介に、紫乃は口元を袖で隠してころころと笑った。
「私のことはあの子、話しておりませんでしたか?」
「姉君がいらしたと……聞いてはいましたが…」
 目鼻立ちはさほど似ているようには思えない。言われてみれば確かにその瞳の薄い色はあの男のそれと同じ色だが、それと聞くまで気づかなかった。
 それほど自分の知っている男と、穏やかな微笑を絶やさないこの紫乃とではあまりに印象が違いすぎた。
 あの男の笑った顔は……口の端に皮肉な笑みを浮かべた顔ならば、良く覚えているが。
 姉がいたとは言っていたが、それがどんなひとだったのかもその名すらも綾之介は知らなかった。左近も語りはしなかったが。
―――――違う。
 そうではない。聞けなかったのだ……あの時。
 左近の語った数少ない話を思い出して、綾之介は凍りついた。
 そう、姉が「いた」と。
 たった一人の姉はずいぶん昔に死んだと、左近はそう言わなかったか。
―――――では、今、目の前にいるこのひとは。
「……ご存知ですのね」
 さすがに顔を強張らせた綾之介に、紫乃は微笑む。
「亡者、死霊……今の私はそういうものです。自分が死んでいるのは承知しておりますが、気がついたらこの姿でここにおりました。
それからずっと、この場所におります」
 なんでもないのよ、と犬の首筋を撫でながら言い聞かせるその姿は、しかし生きた人間以外の何者にも見えはしなかったが。
 若く見えるのも道理。恐らく紫乃はこの年頃に死んだのだろう。
「ですから本当に驚きましたの。………ねえ、綾女様。あなた、2年前にもここにいらっしゃいましたでしょう。
日向の里はもう無かったけれど―――私はもちろんここにおりました。あなたのこともお見かけしましたのよ。
その時、私の姿を見ることのなかったあなたが、今はこうして私と話しておられる。……何故でしょうね?」
 何故、と言われても。
 考えてもみなかったことだ。
「………………何故…でしょう…?」 
 それとしか答えようがなかった。
「左近は、幸せでしたわね。……そういうことです」
 戸惑う綾之介に、紫乃はふふ、と笑った。楽しげな少女のようにも、嬉しげな母のようにも見えた。
 しかし、その屈託のない笑顔を見れば見るほど、綾之介には解らなくなってくることがあった。
 左近は言った。
 日向が姉を殺したと。
「………どうして…」
 言いかけて、途端に後悔した。
 どうして、あなたはお亡くなりになられたのですか、と。
 あまりにも無礼な己に我に返り、言葉は気まずげに口の中にわだかまった。
 しかし、知りたかったのだ。この優しげな美しい女人が、一体どのような咎の故に死なねばならなかったというのか。
「たいしたことではありませんのよ」
 紫乃は、ことさら変わらぬ様子でさらりと口にした。
「私は、日向忍ではないひとを、愛しましたの」
「……!」
 その言葉が何を意味するか、解らない綾之介ではなかった。
 あの時の左近の、凍てついた声の意味を、今ようやく理解した。
 ひとりの男を愛した、ただそれだけのことが罪となった。
 惹かれあった二人が添い遂げる為には他に方法は無かった。
 忍びの世界における抜忍の罪の重さを……その代償は死の他にはありえないと承知の上で。
 それでも賭けた。二人、共に生きられる未来のあることに。
 しかし、それ故に紫乃は死んだ。生まれ育った里から送られた追手の―――旧知の者らの手にかかり、愛した男と共に。
 まだ幼かった弟の目の前で……左近を一人残して。
 一人、連れ戻された左近は「抜忍の弟」になった。
 彼を育てた師があった。技を競い合う友もあった。
 だが、どんなに近くにあろうとも彼らは日向忍だった。日向忍としての己を……人の命よりも里の秘密と団結を守ることを迷いなく受け入れ、認めることのできる人々だった。
 彼を生み育てた日向は、里人として生きることを否応無しに求めながら、彼を芯から受け入れはしなかった。
 そして、左近もまた日向忍としての自分を受け入れることのできないままに成長した。 
   ―――香澄が、恋しいか…?
 左近の呟きが耳の奥に蘇る。
   ―――誰もがお主のようには思うておらぬということだ 
 あれは……もしかしすると憧憬だったのだろうか。
 故郷を懐かしむことも出来ない男の、二度と帰ることすら叶わぬ故郷を想って命をかけようとする愚か者への。
 左近もまた、淋しかったのだろうかと、思う。
 あの男には似合わないと思った。それでも、そう考えれば……解る、気がする。
「私があのような真似をしなければ、弟の生き方はもう少し違ったものになっていたかもしれませぬ。
ごく当たり前に日向忍として里を大事に思って生きることができたかもしれない。
……それでも、私は自分のしたことを悔いてはいないのですわ」
 それまでの自分に繋がる何もかもを捨てて。 
 たった一人の弟の、生き方を変えてしまっても。
 それがどれほど身勝手なことと解っていても。
 罪と言わば言え。―――それでも。
 小春日のような微笑みにはいっそ不釣合いなほどにきっぱりと、それでも悔いは無いと今もって言い切る。
 今、目の前にあるこの優しげなひとの、どこにそれほどまでの情熱が隠されているのか。
「……あなたなら、どうなさいます?」
 そう言った紫乃の顔に、笑いはなかった。
 まっすぐに綾之介を見つめ、重ねて問う。
「もしもあなたが、私の立場にあったら……あなたはどうしたと思われます?」
「……私は…」
―――――私なら、どうしただろう。
 もしもあの頃、平穏な日々を送りながら香澄の娘として日向の左近という男に出会っていたならば。
 もし、左近がそれを望んだとして。
 その手を取ることができただろうか。
 厳しくも優しかった父。慕わしい兄。遠い日に失った母の思い出。
 他愛もないことに笑いさざめきながら、共に育った娘たち。
 そして―――許婚が、あった。燃えるような激しい恋慕の情を覚えたことはなかったが、彼と共にあるはずの未来に幸福を疑ったこともなかった。
 忍びとして鍛錬を積み、田畑を耕し、いつか嫁いで子を育て……そんな日々がずっと続くと信じていたあの頃。
 優しい人々、穏やかな日々を捨てて。命を賭けて。
 全てと引き換えにして、それでもただひとつその手だけを選び取ることができただろうか。

―――――選びたい。

 それは里を失い、左近も亡い、今だからこその言葉かもしれない。
 だが、思いもかけない強さで胸に浮かんだその言葉に、綾之介は驚いた。
 何よりも……選びたいと思ったその手が香澄の里と共に失った許婚ではなく、左近の手であったことに。
―――――ああ、そうだ
 私は、あの男に……惹かれていたのだ。
 ただそれだけのこと。名を与える間もなく、気がつけばただ手の中に残されていた想い。
 ……恋と呼ぶにはあまりに幼い、だが、やがては必ず愛情へと育っていったであろう心。
 最初に刃を交えた時、強いと思った。自分の剣を止めた腕の力強さに、戦慄すると同時に憧れた。
 自在に閃き、立ち塞がる物を容赦なく鮮やかなまでに両断する白刃に息を飲み、燃え立つ焔を思った。
 冷めた瞳の、焔のような剣を操る男。
 意地悪だと思った。何を考えているのか解らなかった。置いて行かれた。
 それでも―――守ってくれた。命を捨てて。
―――――遅すぎる
 もう、あの男はいない。 
 不意に涙が溢れた。
 ああ、最後の最後までおまえはおまえだったよ、左近…!
 いつだってそうだった。謎かけのように遠まわしな言葉だけ残して。答えは決してくれないで。
 考えて出せる答えなら探せばいい。
 だけど、おまえの中にしかない答えをどうやって見つけろと…!? おまえはもういないのに…!
 死に逝く左近を看取ったあの時、与えられたと感じたと思ったものはあった。
 しかし、それすらも時が経つにつれて遠くなり、今綾之介の手の中に残ったのは後悔と、戸惑いと……不安だった。
 言葉が、欲しかった。
 おまえはそのようなものに何の意味があると言うのだろう。
 きっとそれ以上のものを与えてくれたのだと……多分、解っている。
 それでも一度だけでいい、戯れでも構わない。言って欲しかった。
 あの一瞬、確かに感じたと思ったものがそのとおりのものだったというのならば。
 両手で顔を覆った綾之介の肩に、暖かな腕がまわされる。 
「………だから、あの子は幸せだったと申しますのよ…」 
 子供のようにしゃくりあげる綾之介の背を撫でながら、紫乃はそっと呟いた。 
 
   死ぬことは、哀しいことです
   私は確かにここにいますのに、風も草も水も土も、日の光も、もう私を受け入れてはくれません
       ………そのことは、とても哀しい
   でも、私は自分のしたこともそのために死んだことも、一片たりとも後悔はしておりません
   思うままに、生きたのですもの……最後の最後まで

   死が……この世に受け入れられない者となったことがどんなに悲しくとも    
   私の姿を見、私の声を聞くことのできるあなたが、あの子のために泣いてくださるなら
   そのあなたのために最後の時を生きたというなら、左近は決して後悔などしておりませぬ 
   そう生きることが、そしてあなたが今ここに在ることがあの子の望みだったはず
   
   私が死んだ時、きっと左近も私を恨んだことでしょう
   好きなように生きて、自分を残して死んでしまった私を
       ……幼かったあの子が恨まなかったはずがありません
   それでも、結局あの子も同じように生きることしかできなかった
   
   だから……左近に代って申します
   ごめんなさい
   悲しい想いをさせて……泣かせて…
   ごめんなさいね……
 

「―――綾女様。この太刀は、矢張りあなたがお持ちください」
 その手に返した太刀を、紫乃は綾之介に差し出した。
「しかし……左近の亡骸は安土です。せめて、これだけでも故郷の地に―――あなたがいるこの場所に帰るのなら…」
 だが紫乃は、いいえ…と静かに首を横に振った。
「申しましたでしょう。ここは、確かに左近の生まれ育った場所かもしれませんが、あの子の安らげる場所ではありません」
「紫乃殿…」
「……生きてください、綾女様」
 そう言って紫乃はすうと立ち上がった。
 それまでの物腰の柔らかさとはどこか違う。体重を感じさせない、それはまるで空気の流れるような動きで。
 ゆっくりと歩いて素足のまま土間に下り、綾之介を振り返る。
「あなたの来た道は……それはきっと私の想像も及ばぬ、過酷なそれであったかもしれませぬ。それでもこの世はこんなにも綺麗なんです
―――――ほら」
 紫乃の開け放った戸口から、窓から、果ては屋根や壁の破れ目から、さっと日の光が小屋の中に差し込んだ。
 金色に縁取られた山の端から朝日が顔を覗かせ、陽光に紫乃の輪郭が霞む。
 それが「霞んだように見えた」のではないことに気づいて綾之介は息を飲んだ。 
 異変に如月が立ち上がる。
 主の手を求めて走り寄った犬の鼻先が、だがその体温を感じることなく紫乃の体をすり抜けた。
「ありがとう、如月。お別れね」
 キュウ、と子犬のように鳴いて見上げる如月を、既に実体を失った手が優しく撫でる。
「私がここに留まっていたのは、あなたにお会いするためだったのかもしれませんね」
「紫乃殿!?」
「逝けるときが来たようです。………もう、これで思い残すことはございません」
 戸口を潜り抜け、綾之介に向き直った紫乃はそのままゆっくりと背後へ歩を進めてゆく。
 思わず後を追った綾之介の目の前で、朝の光に柔らかな笑顔が溶けてゆく。
「綾女様。どうか生きてくださいまし。
  この世は決して極楽ではありませんが、どんなに辛くとも……それでもあなたはこの世が受け入れてくれる者なのですから」
 待って、とその言葉は唇の内に留まった。
 自分が何故彼女を留めることなどできよう。彼女には行くべきところがある。そこには彼女の弟も、愛した男も待っていよう。
 解っている。それでも―――あと少しでいい、ここにいて欲しかった。もっと、聞かせて欲しいことがあった。
 だが、時が無さすぎた。
「ああ、いいえひとつだけ。あなたに姉と呼んではいただけなかったことだけは、残念でしたわ」 
 別れの言葉の代わりに、そう告げて。
 紫乃の姿は消えた。
 

 如月が一声、悲しげに長く吠えた。
 応えてくれる主はもういない。
 のそりと綾之介に近づいた白い忍犬は、綾之介の膝にぐいと頭を押し付けて離れた。
 如月は名残惜しげな瞳でじっと綾之介を見つめていたが、やがてきびすを返しどこへとも無く走り去っていった。
 主の去った今、如月にこの場所に留まる理由は無かったのだろう。跡形も無くなった日向も、綾之介も、如月を留まらせるものではなかった。
 恐らくは本当に最後の日向忍となったその一頭の犬がどこへ行くのか、どうなるのか……
 犬は、ただ己の目にのみ映るその道を、まっすぐに駆けて行った。
 
 

 

 振り返ってみれば朝日に照らし出された小屋は、それはもうただの廃屋だった。
 荒れ果てたその有様は何ひとつ変わってはいないというのに、そこはもう先刻までとは違う物になっていた。
 ほんの僅か前、紫乃が去るまでのその廃屋は、それにも拘らず確かに「家」であったのに。
 今は、去って行った彼の人を……そしてかつてこの場所に満ちていたであろう人々の日常を偲ぶよすがも無い、荒れ果てた、ただの木切れの集まりだった。
 日向の里は、もうない。
「さようなら」
 ―――左近が生きていたとして……だからと言ってそうなったとは限らない。
 彼が何も口にしなかった以上、今となってはもはや確かめる術はない。
 もしかしたら、それは思い上がりかもしれない。それでも。そう思っていても良いだろうか。
 そしてそれは、私の望みでもあったのだ……多分。きっと。
 残された太刀を手に。
 綾之介は少しためらい、やがてぽつりと呟いた。
「……姉上」

 黄泉路を行く紫乃の耳にそれが届いたかを知る者はない。
                                                 
              
                                              終        
 
 

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