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<月飼い> ※ 現代版です。

開けたままのカーテン。
晴れ上がった青い空が窓の向こうに広がっている。
部屋の中には男が一人。渋面で窓の向こうを眺めていたが、不意に視線を下に落とし、すぐ目の前に置かれている水しか入っていない水槽を睨みつける。
「・・・ひどい話だ。」
シャツのポケットに手を突っ込んで、目当てのタバコの箱がすでに空っぽだったことに気付くと男は、苛立ちそのままにその箱を握りつぶして毒づいた。
こんな後味の悪い終わり方があるのだろうか、と。

一週間前の夜までは、確かに彼女が傍にいた。

俯いてる彼女の横顔を覗こうとすると、長い髪の毛に遮られる。
もとより月明かりばかりが頼りの視界。窓に向かっておいてある、空の水槽を覗き込んでいる彼女の表情はうかがい知れない。
「何をしてるんだ?」
不意に間近で声を掛けられたからだろうか。女は僅かに驚いた表情を見せたが、それも一瞬。どこか困ったような笑顔を男に向ける。
「ん。月がね・・・。」
そう言って窓の向こうを見上げる彼女の視線を追いかけると、そこには遠い記憶を呼び覚ますような見事な満月があった。
「・・・今日は満月か。」
「そんな感じね。」
彼女の白い顔に浮かんだ微笑の奥には、どうしても陰りがあるようで。
大体、彼女が何を想っているかが解ってしまう。気が遠くなるほどの、昔の話。彼女にとってはほぼ間違いなく古い傷が疼き出していることだろう。
もどかしさに男が次の言葉を捜し出せずにいると、彼女は視線をふと落として、見て。と言う。
二人の前にあるのは水槽。ただ、水を張っただけの箱の中に、小さな月が捕らえられていた。
「飼おうと思って。」
「月をか?」
男の問いかけに、彼女が頷く。水面に捕獲された縮小版の月を、触れることなく、飽きもせずに見つめたままで。
「月は優しいのよね。冷たい光なのに、すごく柔らかいの。」
「詩人だな。」
「貴方のことよ。」
苦笑交じりの彼女の台詞が、細い刃のように男の喉下に突きつけられた。
茶化して二人の間の空気を変えようとしていた男の目論見が、いとも簡単に壊される。
「忘れた? あの最後の、満月の夜。」
彼女の、その水槽の縁に置かれた細い手が僅かに動き、水面の月が歪んで揺れた。

その時。
残された時間は余りに短い夜だった。
悲痛な声で己を呼ぶ彼女に、何一つ残せない事がどうにもやるせなかったので。
霞む視界に映った見事な満月を。どこまでも穏やかな夜の闇の静けさを。
どこか笑い飛ばすように。少しでも、彼女が笑ってくれるように。
ただ、それだけを言い残したところで時間は終わった。
彼女の、歩んでいくであろうその人生の先に心を残しながら・・・。

「あの時も、こんな満月の夜だったわよね。」
「そうだったな。」
「本当に、貴方みたいよね。月って。」
今も昔も、と彼女が呟く。
「捕らえどころが無くて。遠くにあるのに確実に視界に入ってて。」
「随分な言われようだな。」
「すごく冷たいように見えるのに、優しくて柔らかくて綺麗なのよね。」
「・・・・・・俺は褒められているのか?」
「そうね。」
ふわりと彼女は男の方に振り向いた。彼女の両方の口の端が僅かに釣りあがる。笑う、というには些か儚い表情。
「手が届かないって感じてしまうものだからこそ、褒めたいくらい魅力的なのかも、ね。」
「・・・おい。」
まさか「今」も手が届かない、なんて言う気じゃないだろうな。と男が苦言を呈しかける。
「今」「この時代」に再び出会えた。あの頃とは違う二人になれるはずだと、迷いを捨てて築いた関係のはずだった。だが。
彼女の視線が、再び水槽の中の月に戻る。
「あの時も・・・こんな風に掴まえることができたらよかったのに。」
「昔と今は違う。」
「解ってる。でもね。」
怖いのよ。
まるで最期の息を吐き出すように、彼女は言った。
「朝が来てしまうのが、すごく怖い。そこにあったはずの月が気が付いたら消えてしまってる。そんな思いはもう・・・。」
彼女の言葉を最後まで待たずに、男はその華奢な肩をきつく抱きしめていた。
「・・・今は今だ。いつまでも昔の話を続けなくてもいい。」
苛立ちが、不完全燃焼のまま喉の奥でくすぶる。
彼女が今、何を言って欲しいか、彼女を一番安心させる言葉は何か、男は良く知っていた。
だが。「そんな思いはさせないから」と言いかけた台詞は形にならない。
不確かな約束が果たされない時の絶望も、男は嫌と言うほど見てきている。
そして。今も昔も、いや永遠に。「絶対」という言葉を人が使えないという事実も理解していた。だからこそ・・・。
「・・・ごめんなさい。」
ごく僅かな沈黙の時間の後。男の言葉に彼女はそれほど間を置かずに、謝罪の言葉を口にした。
「貴方を困らせるつもりはなかったの。」
くい、と彼女の掌が男の胸を押し返し、自然に男は腕の力を緩めてしまう。
するりと抜け出た彼女は、どこか吹っ切れたような微笑を男に向けた。
月の穏やかな光が、そのシルエットを柔らかく縁取る。
「帰るわ。」
そう言い置いて、流れるように彼女が脇を通り抜ける。
「送っていく。」
その後を追いかけようとして男がそう言うと、一瞬だけ彼女は歩みを止めた。
気配を押し殺した深呼吸。その後で。
「いいわ。大丈夫。一人で帰れる。それより・・・。」
ゆっくりと、彼女が男の方に振り返る。その表情は殆ど見えない。
「大事にしてね。それ。」
恐らく微笑みながら。男の背後にある水槽を指差して、彼女はそう言った。
そして。男が言葉をかける間もなく、彼女は踵を返してドアに向かう。
室内に残されたのは、水槽の中の月と沈黙と、そして男だけ。
ただ、時間だけが流れていき、朝が来ると男だけがそこに取り残される。
そして、彼女は、姿を消した。

「・・・思い知れ、というところか。」
数時間前までは、月が居たはずの水槽を眺めながら男は呟いた。
・・・一週間、彼女とは連絡が取れなくなっていた。携帯もメールもつながらない。
どうも、今度ばかりは自分のほうが置き去りにされたようだと、ひどく他人事のように男は考えていた。今も昔も、自分は彼女を捨て去るつもりなど更々無かったのだが。
「昔、二度もやってしまったからな・・・。」
伊賀と、安土と。今だって、「先には死なない」と約束できない不器用極まりない自分が居る。
言葉だけでも彼女を安心させてやることができない自分を呪いながら、男は月が逃げ去った水槽をシンクに運んだ。
傾けるだけで、呆気なく。水槽はただのガラスの箱と化す。もう月を捕らえることはできない。
彼女を不安にさせるのは、昔の自分と、そして今の自分の不甲斐なさゆえで。そのことを痛いほど自覚しているからこそ、男は一方的に彼女を責めることなどできなかった。
だが、と男は声に出して呟く。
「・・・俺たちは、今、生きてるのだろう?」
朝に姿を消す月ではなく、水面に揺れる月でもなく。
嫌われたのなら、それを受け入れよう。愛想をつかされたのなら、それも仕方が無いだろう。
だが。「居なくなるのが怖いからそばに居られない」などという後ろ向きな理由で、彼女が去ってしまうのはどうにもやりきれない。
「俺は、月なんかじゃない。」
吐き捨てるようにそう呟いて。ふと気付く。
お前が月ではないのと同じように。
今。自分がここに居て、彼女も存在するという事実。
「絶対」は約束できない。だが、最善を尽くすということなら十分できるはずだ。今更、月を捕まえることもないのだと、ただこれだけでも今の彼女に伝える必要があるだろう。
ゆっくりと顔を上げる。決めたら、もう迷うことは無い。男はクローゼットからジャケットを取り出すとそのままドアに向かった。
勢いよくドアの開けられる音。間を置かずに響くのはそれが閉められる音。

そして、部屋には誰も居なくなった。

<To Be Countinue? But Now, It is The End>
 

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