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八角平か、仁王門か。
すでに安土城は妖魔の巣窟と化していた。
騒々しくも死臭漂う城内の一間に、彼らは取り残されている。いずれ真実の魔王となる主君を守護すべく、その命狙う影忍を何としても阻止しなければならない。
守りの要のうち、どちらかを選べ、と残りの朧・・・喜平次と香我美に言い渡し、蘭丸は退出した。
安土城。ついに妖星がこの地を覆いつくす待望の時がやってきたのだ。
先の、見えない、この夜が。
「お前はどちらを選ぶ?」
楽しげな色を隠さない喜平次の問いかけに、香我美は黙って振り返った。
「先に選べばいい。どちらにしてもお前が戦うとしたら、妖術を使って罠にはめるのが精一杯だろうからな。」
不甲斐ない連中が皆やられちまったからしょうがない、と喜平次が一通り嘯くのを待ってから、ようやくその小さな紅い口が開かれる。
「八角平がいい。」
人形のようにすら見える童女が、言葉も意思も明確に答えたことに少なからず喜平次は興味を持ったようだった。
ほう、と薄い唇を歪めたように笑う。
「理由でもあるのか?」
「仁王門には香澄の影忍が来るみたいだし。」
「香澄・・・?話には聞いているが、小太刀を扱う小童か?」
ならむしろ、お前が仁王門に行った方が楽だろう?と不審気に喜平次が問う。少なからず、不満の色も濃い。どうせなら、手応えのある方と戦いたいという気分なのだろう。
確かに見た目は、香澄の綾之介と名乗っている影忍の方が非力に映る。・・・だが。
「無理。私じゃ勝てない。」
断言された、その言葉をどう捉えたのか。喜平次は頬の片側を歪ませて、たらし込むのは難しいということか、と嘲る。意に介すことも無く、そのとおりだと香我美は答えた。
「ただ闇雲に先を急ぐ子に、私の術は通じない。多分、足止めにもならない。」
挑発に応じる気配の無い相手にこれ以上関わるのが疎くなったのだろう。そういうものか、と喜平次は興味を失ったように呟くと肩をすくめた。
「まあ、先に選べと言ったのは俺だ。仁王門に向かうとしよう。」
そう言いおくと、ゆらりと喜平次は立ち上がる。
動作自体は緩慢にすら見えるが、実は一分の隙も無い。間違いなく、これからの戦いに高揚しているのだ。
「小童とは言え影忍。少しは楽しませてもらわんとな。」
含み笑いと共にそう呟く喜平次を、紅い、まるで表情を宿さない瞳が一度だけ見上げた。遠くない未来は、ある程度予測できる。
もし、天守閣に辿り着く影忍が居るとすれば、それは。「私も、行かなきゃ。」
ゆらゆらと持ち場に向かう喜平次の後姿を見送りながら。
まるで自分だけに言い聞かせるように。そう呟く。■
さだめをその手中に転がしている者。 倣岸で、不遜で、美しくどこまでも孤独な存在。
独り、という隙間を埋めるべく、数百年の長さを経て全てを仕組んできた彼の姿を見てきたのはいつからだろう。
表向きは森蘭丸として、織田家に仕える彼の指示の元、朧衆が一として加わるようになったのは。それは、春の宵のことだった。
「・・・香我美か。何用だ?」
安土城内の奥。濃い闇の支配する一室、水を張った盆を覗いていた蘭丸が顔も上げずに声をかける。
傍に控えた香我美が、短く報告を伝えた。
「陣内が日向を壊滅させたと。」
「・・・日向には、代々伝わる太刀があったはずだ。見つかったのか?」
信長が、陣内に下した命令の内容は他の朧衆も把握していた。
-----忍の源流、影忍の里を滅ぼすこと。全て根絶やしにした後は、その証しとして里に伝承されている刀を持ち帰ること。
「それはまだ見つかっていないみたい。」
つまり、陣内はしくじったのだ。太刀を持ち出した日向の里の生き残りが、確実に存在する。
「思うようには、いかぬものだな。」
半ば吐き捨てるように、蘭丸はそう呟いた。だが、言葉とは裏腹に。その整った口の両端がかすかに引き上がる。
まるで、満足しているかのように。
報告すべきことは済んだ。そう判断した香我美がその場を離れようとしたときだった。
無言のうちに、蘭丸がその白い顎で膝下に置かれた水盆を指し示す。反射的に向けた視線の先に映し出されていたのは、実直そうな男だった。温厚な表情だが、意思の強い眼をしている。
「次の陣内の標的・・・香澄の里の者だ。殿が言われていた小太刀は多分こやつが持って居よう。」
退屈していたのだろうか。それとも機嫌が良いだけなのだろうか。 命令でもない会話を、蘭丸がするなど珍しいことだ。
「となると。」
恐らく、常人が聞いたのならばぞっとするような冷たさを含んだ声が言葉を続けた。
「香澄の生き残りは、この男になるわけか。」
反射的に、香我美は顔を上げて蘭丸の顔を見る。白い麗貌は相変わらず水面を見ているだけだ。それは、全てを背負う責任をいずれ持つ者。親兄弟一族、生まれ育った土地全てを奪われる運命の者。
守るべきものを守ること叶わず全て失う。その無念こそ我らにとって良き滋養となろう、と抑揚の無い声で少年は呟いた。「一人ずつしか、残さないの?」
「その方が負の思念が少しは強くなる。」
香我美の問いにも、面を上げることなく、つまらなそうな声で蘭丸は答えた。
「人間の負の思念など、たかが知れているだろうがな。せいぜい己の無力さに喘ぐがいい。」
吐き捨てるように蘭丸が呟いたときだった。
ふと、その形のよい唇が引き締まる。視線は変わらず水面から動いていない。
半ばつられる様に視線を戻すと、水面に映る、男の表情に変化が生じていた。穏やかさに満ちた顔。それは、先の男と同じものであり、違うもののようでもあった。
あにうえ、という柔らかな声が響く。
男は振り返り微笑を浮かべて、あやめか、と答える。視線を再び上げると僅かに眉根を寄せた蘭丸の表情があった。一層引き締められた口元。不意にその白い細い指が水面に触れたとき、映し出される光景が変化した。
一人から、二人に。水面には新たに一人の娘の姿が映る。整った顔立ちだが、優しげな表情を浮かべている娘。
幸せそう、というのはこのような表情を言うのだろうか。あやめ、と呼ばれた娘の笑顔には正に一点の曇りも無い。
しばらく会話が続き、娘の祝言に話が及んだときだった。娘の表情にはっきりと不安の色が浮かぶ。兄が軽く叱咤し優しく励ましても彼女の表情からは弱さが取れない。
交わされる短い言葉の端々に、兄を始めとする家族から離れることを、どこか恐れている妹の姿が浮かび上がってきた。
くつっ、という嗤い声が、兄妹の会話を遮ったのはしばらくしてからだった。
顔を上げると、普段無いほどに生気に満ちた蘭丸が、そこにいた。
鮮やかで、美しく、冷たくて、残酷な表情。これだ、と呟き、蘭丸は嗤った。
「香我美。」
冷ややかな声で、蘭丸は命じた。
「香澄の里に行き、陣内が攻撃を始めるまで潜んで居よ。そして、如何なる手段を講じてもよい。この男に御神刀を持ってこの妹を落ち延びさせるよう仕向けるのだ。」
今、決定が下された。はじめ生き残るはずだった男は命を落とすことになり、この兄を心底信頼しきっている妹だけが生き長らえることになる。
黙って頷いた香我美に言うでもなく、蘭丸は言葉を続けた。
「守るものを失うよりは、信ずるものを失う方が遥かに闇を引きずり出す筈。」
これで全ては動き出すのだ。と蘭丸は低く嗤い、再び水面に指を触れる。
「いずれ、全てを知った時。・・・お前は一体どんな表情を見せてくれるのだろうな。」
紅い光を潜ませる瞳を細め、この上なく冷たい微笑を一瞬だけ浮かべると、その指で水面を弾く。春の夜、穏やかに過ごしていた兄妹の光景を漣が崩していく。
■
それから、月日は流れた。
あの夜、儚いほどに見えた娘は、今は男の姿をとり、妖魔も朧衆をも凌駕する影忍として、残された小太刀を振るっている。
恐らくは、あの晩に見せた儚い笑顔を跡形も残さぬ、厳しい顔で。
・・・全ては、こうなるように動いてきたのだ。
一番非力に見える者が、一番恐るべき存在となっている。あの陣内を青い光で焼いたのは、間違いなく「あやめ」と呼ばれていた彼女ではなかっただろうか。
あの夜、兄妹の生死を決めた蘭丸。
彼は、影忍を追討する企みが失敗するたびに、どこか嬉しそうではなかっただろうか。-----全てを、知ったとき。お前は一体どんな表情を見せるのだろう。
あの言葉は、明らかに水鏡の中の、彼女に向けられたものではなかっただろうか。
全てとは。恐らくは、朧衆にも、あるいは、主君でさえも知らぬ、真実の、ことなのだろうか。それが、自分に、喜平次にとって何を意味するかは分からない。だが、いずれにしても。
「全ては、今日。」
呟いて空を見上げる紅い瞳に、不自然に欠けた月が映った。
<Fin>