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<音の無い森 風を知る時>

汗が一滴、背を伝う。
山中。森の奥深く。高い所からこぼれている光は緑に遮られているが、それでもなお強い。
・・・そういえば、あの時もこんな時分だっただろうか。
最初に、疾風と呼ばれたあの人と出会ったのも。



その気配を察知するのとほぼ同時に、鳥の声は止んでいた。
綾之介は構えるでもなく、ただ立ち止まる。
「何者だ。」
低い声が、その薄い唇から放たれて数秒後。僅かに離れた茂みから人影が現れる。
雑兵の身なりと思しき姿の男は、ひどく狼狽した表情を見せていた。
年若くも見えるが、髪の毛は激しく乱れており、落ち窪んだ眼窩が只ならぬ様相を呈している。
野盗の類か、それとも常人の域から外れたものなのか。一瞥して、軽く目を細めた綾之介に対して、男は及び腰のまま刃を向けて威嚇した。
「・・・だ、誰だ・・・お前は誰だ!?」
「ただの旅の者だ。」
男の問いに短く答えた綾之介だったが、その眼光は鋭く男を射抜いていた。
震えながら向けられるいびつな刃先。その刀は折れ、血糊のためか元の刃の色も判然としない。
かすかなため息。
綾之介の脳裏に、しばらく前に見た廃墟の光景が一瞬だけ浮かんで消えた。
「お前はこの先に村があるのを知っているか?」
自分の通り過ぎてきた道を指し示し、あくまでも冷静に話し掛ける。
綾之介の問いに、男は全身をこわばらせた。
「足軽崩れの野盗に襲われたようだったが。」
男は答えない。ただ、恐怖の色を湛えた血走った眼球が綾之介の顔を凝視している。
時折、痙攣するように刀を持つ手が震えるのを横目に見ながら。なおも綾之介は問いつづけた。
「何があった?」
「・・・・・・。」
「質問を変える。・・・お前がその野盗の一味ではないのか?お前の仲間はどうした?」
「うわあああああっ!!」
その問いに弾かれるかの如く。
堰を切ったように。男は発狂したように折れた刀を振りかざし、綾之介に切りかかってきた。
綾之介は微動だにせずにそれを眺める。
まるで、哀れんでいるかのように。
鈍い色の刃がまさに綾之介の首元に振り下ろされようとした瞬間だった。
突如、激しい風が吹き抜ける。

(綾女!)

--------聞くはずのない声を、呼ばれるはずの無い名を呼ぶ声を、綾之介だけが、聞いた。

息を呑み、驚いたように目を見開いたが、それも一瞬。その表情はすぐに狙いを定めた怜悧なものへと変貌する。
迅速な動き。
その白い手が腰の小太刀に伸びたのすら、恐らく男には分からなかったのだろう。
翻る細身の刃。蒼い閃光。
聴覚が狂ってしまいそうなほどにおぞましい絶鳴が、男の背後で響き渡った。
そして、静寂。
男がようやく目を開けた時、綾之介は既に小太刀を元の鞘に収めているところだった。
何が起きたのかすら判然とせず、ただ背後で聞こえた恐ろしい悲鳴を思い出して振り返った男の目に飛び込んできたのは黒い醜悪な化け物が今まさに消えゆこうとしている姿であった。
その姿に見覚えがあったのだろうか、絞り上げるような嗚咽にも似た悲鳴が男の喉から洩れ、振り上げたまま硬直してしまった手から刀が落ちる。
震えながら、ゆっくりと綾之介の方を向き直り、また化け物の躯に振り返る。
女とも見まごう整った面立ちがどこか哀れんでいるような表情で自分を見ているのと、消えゆく異形のモノの姿を交互に見比べながら、呆けた声で「ばけものが」と男は呟いた。
「その通りだ。」
さらりと男の言葉を受け流し、綾之介は言った。
「判ったのなら、早く去ね。」
途端に。
弾かれたように奇声を上げながら男は身を翻して走り去り、森の奥へ消えていった。
ざわり、と風が木々を揺らす。
その姿を見届けてから、ようやく一つ、綾之介は深いため息をついた。
本来なら、あり得ないこと。
だが、ずっと感じていた存在。
またも自分は助けられたのだ、と。
情けないまでのやるせなさ、そして懐かしさ。涙が零れ落ちそうな感情を、必死に奥歯で噛み潰して語りかける。
「よもやお主を引きずり出してしまうとは思わなかった。すまなかったな、左近。」
(・・・全くだ。)
呆れたような、だがどこか観念したような苦い男の声が風に乗って聞こえてきた。



「恐らく・・・」
誰に語りかけるでもなく、綾之介は呟くように言った。
「村を襲ったのは、あの男や仲間だったんだろう。だが、連中は妖魔に。」
(そのようだな。)
応える風に頷きながら、綾之介は通り過ぎてきた廃墟の光景を思い出していた。

壊された戸。燃え落ちた家。散らばる家財。そして、無惨な死体の山。
明らかに略奪暴行の後に見受けられたが、人ならぬものの気配もまた、確かに残っていた。
村人たち、女子供の死体には斬りつけられたような傷が少なくなかった。
だが、一方で。一目で武装していた者達の死骸も数多くあり、それには不自然な痕が多く残っていた。
この世ならざるモノの所業。と一目で分かるような。

「恐らく今の男が唯一の生き残りなのだろうな。」
(なぜだ?)
綾之介の呟く声には応えず、風がどこか苛立ちを含んだ声音で問い掛ける。
(なぜ、あの時、攻撃をかわそうとはしなかった?)
「その前に勝負がつくと思ったのだ。」
まだまだ読みが甘いと自嘲する綾之介の言葉に、風は無言で応えた。
ああ、彼は。
綾之介は軽く瞑目し、ため息をついた。
怒って、いるのだ。そう、ほぼ、真実を見抜いているのだろう。私が動かなかった、その理由を。
(・・・お主なら)
しばらくの沈黙の後だった。焦れたように風が言葉を続ける。
(お主ならあの時、奴を斬った後で妖魔を仕留める事はできたはずだ。なぜその身を危険に晒した?)
「あれは、私の敵ではない。」
さらりと断じた綾之介の答えに、一瞬、風が止んだ。
「私が相手にしているのはこの世ならざるものだけだ。それに。」
しばし、言葉を躊躇う。ここから先は本心で、それを命投げ打って自分を救ってくれた男に明かすことは正直できないと綾之介は感じていた。
それでも・・・。
「それに、今あの男を切り捨てたところで・・・あの村が元の姿に戻る訳ではないだろう。」
本心のごく一部を、ようやく口にする。
返事は返って来ない。
男が、かすかにため息をつく気配を、どことなく綾之介は感じ取っていた。
鋭い眼を持った男だった。恐らくは、口にはしなかった本心まで見抜かれているのかもしれなかった。
僅かな後悔を噛み締めながら、綾之介は瞼を閉じたまま少しでも風を感じ取ろうとしていた。

過ぎたものは戻ってはこない。
私の里も、仲間も、そして、あなたも。
・・・それなのに。

(だが。)
淀んだ沈黙の時を断ち切ったのは、優しく諭すような風だった。
(お主なら)
「すまない。左近。」
遮るように。綾之介は風の言葉を封じた。
「安土の後から、あなたが傍に居てくれる予感はしていた。見守ってくれていると思っていた。だが。」
開いた瞼。目尻から涙が僅かに滲むのを感じながら綾之介はかろうじて笑顔を浮かべた。
「私に出来ることは、前に進む事。戻る事はどうしても出来はしないんだ、左近。」
------------これで、お主も女に戻れる、な。
風がまだこの手に触れる事の出来た存在であった頃の、最後の言葉を思い出して再度「すまない」と綾之介は呟いた。
吐息のように優しい空気が、綾之介の頬を撫ぜ目尻を拭う。
(・・・お主が謝る事ではない。)
「左近・・・。私は」
(お主の望みを、お主は果たせ。俺は俺の望みのままに、お主の歩く先を見届ける。)
今度は自分が言葉を封じられたように感じ、綾之介は切なさに息が苦しくなる。
あなたが望んでくれた姿に戻れない以上、あなたを束縛している事が心苦しい、と。あなたを現世に縛り続ける訳にはいかない、私は大丈夫だから、と。
本当はそう言いたかった。そしてそれは、恐らく見抜かれているのかもしれなかった。
「・・・お主は変わらない。」
(お互い様だろう。)
ようやく出した、ため息混じりの言葉も難なくかわされて。
どこか虚勢を張るような笑顔を綾之介が浮かべた時だった。
(だが、覚えていてほしい。俺の望みもまた、変わらないのだと言うことを。)
それは本当に俺の勝手だと言うことは分かっているんだが、と。髪を風が撫でる。
間近に、困ったような笑顔を浮かべる男の姿を見たようで、綾之介は微かに震えるため息をついた。
しばらくの沈黙。
ようやく、どうしても伝えたい言葉を探し出した綾之介がゆっくりと口を開く。
「・・・ありがとう、左近。」
穏やかな風が、一度。綾之介の前髪を軽く躍らせた。



ほんの少し、視線を上に向ける。
見上げる空は木々に阻まれて、まるで切り取られているかのようだけど。
それでも空は、何処までも青く透き通っている。
葉や枝の隙間から差し込む木漏れ日がこんなに眩しいものだったと、あの頃の私は知っていたのだろうか。
吹き抜ける風が、こんなに優しいものだと感じる事が出来ただろうか。
だけど、今は。

あまりにも眩しい日差しに、私は一度だけ目を閉じ、再びゆっくりと空を見上げた。

悪くはない。
多分、この道の先は。

・・・きっと、明るい。

<Fin>
 
 

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