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「縁滝〜月の満ちる夜に〜」
(これで何度目になるのだろう)
そんなことを思いながら奈津は山道を歩いていた。
この道をしばらく行くと滝の音が聞こえてくる。
その場所はこの辺りでは縁滝と呼ばれ、将来を誓い合った男と女の逢瀬の場として知られている。
しかし奈津はその場所へ行く時は何時も一人だった。
何時も一人、いつの日か将来を共にするであろう相手をずっと待っているのだった。「あっ…」
縁滝に着いた奈津の鼓動がドキリと鳴った。
何時もは無人のその場所で岩石に腰をかけている人の姿があったのである。
動揺して思わず町に戻ろうと身を引いた奈津は、人の気配に振り向いたその人物と目が合ってしまった。
(……どうしよう)
その人は立ち上がると自分の方へと歩み寄って来た。
だんだんと近づいて来るその人物を間近に見て、奈津は茫然とした。
(こんな綺麗な男の人、初めて見た)
意志の強そうな細眉に凛とした瞳。
一つに結んである長い髪が風に揺れている。
状況を忘れ見惚れていた奈津はその相手に微笑みかけられ頬が熱くなるのを感じた。
「あなたはこの辺りの町の方ですか?」
「はっ、はい!」
「私は旅の者で綾之介と申します。今晩の宿を探しているのですが、よろしければ町まで案内していただけないでしょうか?」縁滝から町へと続く道を二人で歩く。
そんな日が来ることを夢見ていた奈津だったが…。
「奈津さんはあんな山奥に何用があったのですか?」
「私は、…………人を待っていたのです」
綾之介の足が止まる。
「人を?約束でもあったのですか?それならそうと言って下されば…」
「いえ、いいのです」
「え?」
「どうせ待っていても、来てくれはしなかったでしょうから…」
寂しそうな口調で言う奈津を綾之介は怪訝そうに見た。
そんな綾之介に奈津は小さく笑って見せる。
その時、枝分かれしている道の向こうから十歳前後に見える少年が声を上げて走って来るのが見えた。
「奈津姉ーっ!」
「和吉!」
奈津はギクリとした。
「弟さんですか?」
「いいえ。幼馴染の弟で、和吉といいます」
そう言っている間に和吉はすぐ側までやって来た。
「奈津姉!こんな所で何やってんだよ!」
「何って…」
「町まで案内してもらっていたんだ」
噛み付くような口調の和吉に動揺している奈津。その間に綾之介が口を挟んだ。
和吉が眉をヒョイと上げて綾之介を見る。
「あんたは?」
「旅の者で綾之介というんだ。奈津さんには先程この道を行ったところにある山滝で会ってね、町までの案内を頼んだんだ」
「山滝って、あの縁滝で!?」
叫んだ和吉に綾之介が驚く。
「縁滝?」
「和吉!違うのよ!」
「こりゃあ大変だ。だから言ったんだ。あの馬鹿!いつまでもグズクズしてるから…」
奈津の言葉など耳に入ってないかのように和吉はそう呟くと、「こうしちゃいられない」と全速力で町の方へと走っていく。
「和!待ちなさい!和吉!」町に着くと綾之介は奈津の家へと案内された。
「父と二人暮しなんです。父は夜になるまで仕事から戻りませんので、何も無い所ですがどうぞゆっくりしていって下さいませ」
「かたじけない」
綾之介が微笑んでそう言うと奈津は顔を赤く染めて俯いた。
町に着いた時に別れてもよかったのだが先程のことが気になって誘われるままこの場にいる綾之介である。
「先程の」
「え?」
「和吉という子が言っていた縁滝とはあの滝の名なのですか?」
「さぁ。本来の名がどういうものかは存じませんが、この辺りの者は皆その名で呼んでおります」
「何かあらぬ誤解をされてしまったようですが…」
「申し訳ありません。綾之介様が気になさることはないのです。ただ、……縁滝は昔から互いに想い合う男女の密会の場所として有名なのです。あそこで将来を誓い合った二人は必ず幸せになれるという言い伝えがあって…」
「なるほど。それで縁滝という名が…。しかしそれでは気にしない訳にはいきませんね」
「え?」
「あなたはあそこで人を待っていた。と、そう言っていた」
「あ、あれは…」
バタン!!
そこに激しい物音が入口方向から上がった。
「奈津!」
男の声が聞こえ奈津が顔色を変え素早く立ち上がった。
戸を開け部屋を出てすぐに二人の怒鳴り合いが聞こえ始めた。
「得体の知れねぇ旅の男と縁滝で逢ってたってのは本当か!?」
「うるさいわね!あんたには関係無いでしょう!」
「関係無いだぁ!お前がどこぞの男に遊ばれて捨てられるのを心配して来てみれば!」
「そんなこと誰も頼んでやしないでしょう!大体綾之介様はそんな方じゃないわ!そこいらの男なんかと一緒にしないで!」
「綾之介様だぁ!?あ、何だこりゃあ!まさか家にまで上げてるんじゃないだろうな!」
「ちょ、ちょっと!勝手に上がらないでちょうだい!綾之介様!綾之介様逃げてください!」
激しい足音と共に二人が姿をみせた。
男を止めようとしている奈津の手が後ろから男の手の袖と背の辺りを掴んでいる。
男は憤怒の表情を隠そうともせず辺りを睨み付ける様に部屋へと入って来た。
それに対する綾之介は逃げも隠れもせず、座ったままその男へと顔を向け、そして言った。
「どなたかは知らぬが、男の嫉妬は見苦しいものですよ」一瞬の間があった。
だがその台詞は男の怒りに油を注いでしまっただけのようだった。
「この野郎〜!!」
顔を真っ赤にさせ奈津の手を振り払うと男は綾之介に向かってその拳を上げた。
奈津は悲鳴を上げ顔を覆いうずくまった。
ビュンと男の拳が音を上げる。だが次の瞬間、パシリと小気味のいい音がした。
男が目を見開く。男の拳は綾之介の手の平に収まっていた。
綾之介の口元が笑んだ。
「馬鹿な」
手加減などしなかった。こんな華奢な身体付きの男に自分の拳がこうも簡単に止められたことが男には信じられなかった。
「いいかげんにして!」
その叫び声に男は我に返った。
「出てって!出てってよ!!」
奈津の涙混じりの声に男は少し青ざめた顔をした。そして小さく舌打ちすると言葉もなく出ていった。「申し訳ありませんでした。大丈夫でしたか?綾之介様」
奈津が裾で涙を拭いそう言うと、綾之介が手を差し伸ばしてきた。
「ええ。それより奈津さんの方こそお怪我はありませんか?」
立ち上がるのに手を引いてもらった奈津は笑みを浮かべて見せた。
「私の方は何とも…。でも、驚きました。お強いのですね、綾之介様。信吉はこの町では自分が一番腕っ節が強いと豪語しておりますのに」
「いや…。信吉殿、と申されるのか」
「ええ。すぐそこにある呉服屋の息子で私の幼馴染なんです。でも、いつもはあんな乱暴者ではないのです。口は悪いのですが、優しい所も…あって…」
沈んだ表情の奈津の顔を綾之介は覗き込んだ。
「男というものは、惚れた女が他の男と言葉を交わしただけでその身が妬かれる想いをするものだ、と聞いたことがあります」
そして目を見開いている奈津に微笑んで見せると綾之介はこう続けた。
「信吉殿はあなたのことをとても愛しておられるのでしょうね」「まだ私達が子供だった頃の話です。そう、丁度今の和吉位の歳の頃、私は町の姉様方から縁滝の話を聞いてとても憧れていたのです。縁滝でのことを話している姉様達はとても幸せそうで…。私もいつか恋しい人と縁滝で将来を誓い合うのだと、そう夢見ておりました。その事を信吉に話したことがあったのです。そうしたら信吉は俺が迎えに行くと。お前が嫁に行く歳になったら俺が縁滝までお前を迎えにいってやる、とそう言ってくれたのです。子供心にそれがとても嬉しくて、ずっとその言葉を忘れたことはありませんでした。ですが歳を取るにつれ、信吉と遊ぶこともなくなり、言葉も前ほどには交わすこともなくなったのです。それなのに町の人たちは私達のことを恋人同士だと決め付けていて、少し話でもしようものなら周りがからかって冷やかしていくのです。その度に信吉は機嫌が悪くなってしまい、今では道で偶然すれ違っても私の事を無視するようになってしまったのです。私は段々信吉の事がわからなくなって…。もしかしたらあんな子供の頃の言葉を今でも信じて待っている私が馬鹿だったのかと…。そう思って、私は確かめることにしたのです。一月ほど前から私は縁滝に通うようになりました。そのことを信吉に伝えてくれるよう和吉に頼んで…。でも、」
「迎えには来てくれなかった」
奈津の話を黙って聞いていた綾之介がそう言葉を続けた。
奈津が寂しそうに目を伏せる。
「はい」
「待っていても来てくれぬと言っていた相手とは信吉殿のことだったのですね」
「……こんな状態がいつまで続くのかと思うと、私…」
「ですが、先程の信吉殿の様子からいってあなたを想う気持ちだけは信じてもよいと、私は思いますよ」
そう言って綾之介は立ち上がった。
「綾之介様?」
「まずは、誤解を解かねばならないでしょう。それともう一つ」
綾之介が微笑んで言う。
「伝言を頼まれますよ」店に入る前からその怒鳴り声は聞こえていた。
「だから言ったんだこの馬鹿兄!このままじゃ奈津姉あいつの嫁さんになっちまうんだぞ!」
「うるせぇ和!お前は黙ってろ!」
「誰が黙るか!オレがあれ程グズグスするなと忠告したのに!あいつは俺にベタ惚れだからだの一人の女に縛られる気はないだとぬかしやがって!へっ!でもオレは知ってるぞ!信吉兄はただ女を口説くのが苦手なだけなんだ。奈津姉の前で何を言っていいか分からないだけなんだろう!」
「なんだとこのガキ!さっきから黙って聞いてれば!!」
その時だった。店内で今にも取っ組み合いを始めようとしていた兄弟の耳に聞き覚えのある声がしたのは。
「邪魔をする」
二人は同時にそちらへと顔を向けた。
「あっ!」
「て、めぇ〜!」
綾之介の姿がそこにあった。
「何しに来やがった!」
信吉が噛み付くように叫んだ。それに対し綾之介は涼しげな顔をして応える。
「客だ。ここは呉服屋ではないのか?」
「てめぇなんぞに売るもんなんかねぇ!」
綾之介が小さく溜息を吐く。
「それは困ったな」
「へっ、こんな了見のない男、奈津姉が見捨てて当然だね」
和吉がそっぽを向いて言う。
「何ぃ〜!」
信吉が拳を握り締める。そこに奥から一人婦人が姿を見せた。
「何やってんだいお前達!」
その雷が落ちたかのような怒鳴り声に兄弟二人はビクリと身体を震わせた。
「母上」
「さっきから聞いてれば!信吉、おまえみたいな情けない息子もって私ゃ本当恥ずかしいよ!いい歳して女心も理解できないのかい?奈津が他の男に気持ちを移して当然だね!」
そう言い捨てるとその婦人は綾之介へと視線を移した。
その瞬間、婦人は少し目を見開いて驚いた顔をして見せた。
「おや。……まぁ、いらっしゃいませ。うちの馬鹿息子共がとんだ失礼を」
「いや。…見立てて下さいますか?」
「まぁ、勿論です。どうぞ、奥の部屋へ…」「な?」
「嘘…」
男兄弟二人は着替えをすませた綾之介の姿を見て開いた口が塞がらなくなった。
「まったくこの子達は…」
婦人があきれ返ったように肩を落として見せる。
「男のくせにこんな美人を前にして性別の区別もつかないのかい?」
返す言葉の無い二人である。
目の前には先程までとは違う綾之介の姿があった。
髪は下ろされ、唇には紅をひいている。艶やかな紅の生地に青紫の花の装いは彼女にとても似合っていた。
「まずは誤解を解かねばならぬと思ったので…」
目の前の美女に見つめられ信吉は身体を硬直させた。
「その上で改めて奈津さんからの伝言を伝えます。縁滝にて待つ、と。…これが最後だそうです」
その言葉に信吉はハッと目を開かせた。
「それからこれは私からの忠告ですが。…女心は移ろいやすいもの。惚れてる相手とはいえ、つれなくされればその心を癒す為に他の行き場を求めても、おかしくはないのですよ」
「信兄」
黙ったまま睨みつけるように下を向いている信吉の袖を和吉が軽くひっぱる。
しばらくした後、信吉はバッと勢いよく顔を上げるとそのまま身をひるがえして脱兎のごとく店から姿を消した。
それを見送った婦人が苦笑して言った。
「まったく、やれやれだね。しかし貴方には本当に礼を言わねばなりませんねぇ」
「いや」
そこで婦人が何か思い出したように眉をひそめた。
「どうか、されましたか?」
「いやね、もう日が暮れかけてるもんだから…。聞いた話じゃ最近夜になると縁滝付近で山賊達が姿を見せるようになったらしくてね」縁滝への山道を休むことなく走って登って行った信吉は、滝の音が大きく聞こえるその場で足を止め、乱れる息を整えた。
そして意を決したかのように顔を上げると縁滝へと足を踏み入れた。
すっかり日が落ちた暗闇の中、まるい月がその姿を教えてくれた。
「奈津」
しゃがみこんだままのその後姿に声をかける。
「遅い」
振り返らずに言う奈津にどうしたらいいか分からず困惑した表情を浮かべ信吉は頭を掻いた。
「すまん」
「……待ちくたびれたわ」
「すまん。本当にすまん」
振り返らない奈津の目には涙が浮かんでいた。
信吉のその言葉に奈津はこの男の不器用さが今更のようにわかった気がした。
そう思うと自然と口がほころんでくる。
「奈津、俺は…」
その時だった、複数の男達の声が聞こえてきたのは。
二人はハッとそちらを見た。
「おいおい、こんな所に人がいるぜぇ」
向こうもこちらに気づいたばかりなのだろう数は6人。それぞれ太刀や槍などといった武器を身につけ、見るからに性質の悪そうな連中である。
信吉は立ち上がった奈津を背に隠すように山賊達と向かいあった。
「後ろに若いねぇちゃんがいるなぁ?」
「こんな所で何してたんだい?」
「何野暮なこと聞いてんだよ。こんな時間に男と女が二人きりとくりゃあやるこた一つだろうよ」
「違ぇねぇ!」
男達の下卑た笑い声が滝の音に負けぬ大きさで響き渡る。
奈津は信吉の背を掴み身を竦ませている。
信吉がいくら腕に自信があるとはいえ相手は複数の山賊である。どう考えても信吉に勝ちは無い。
どうにか奈津だけでも逃がさねばと信吉は歯をくいしばったまま考えるが良い知恵が頭の中に浮かんではこない。
山賊の一人が歪んだ笑みを浮かべ足を一歩踏み出した時だった。
「まったく、無粋な連中だな」
「!誰だ?」
その場にいた全員が一斉にそちらを見た。
「あ、あんた…」
「綾之介、様?」
驚いた顔の信吉の後ろで奈津が困惑の声を上げる。
声は確かに綾之介の声のはずなのにその姿を見て戸惑ったのだ。
先程の艶やかな姿のままの綾之介が言う。
「おまえ達の相手は私がしよう」
山賊の一人が口笛を鳴らした。
「こりゃあ上玉だ」
「おいおい。あんたが俺達の相手をしてくれるってぇのは本当かい?」
下卑た笑みを止めない山賊達に綾之介の唇が魅惑的に笑んだ。
「そう言っただろう?」
そう言い終わった瞬間に綾之介は動いた。
「何っ!」
皆の目には綾之介の姿は消えたようにしか見えなかった。
そして次の瞬間には山賊達の一人一人から悲鳴と呻き声が次々と上がっていった。
「なっ、どうした!」
山賊の頭領であろう男が声を上げる。
だが突然喉元に冷たい刃を当てられ身体が硬直した。
背後には短刀を手にした綾之介の姿。
「去れ。今夜は無駄な殺生をする気分ではない」
「あ、あんた、その動き、忍び……くノ一か」
その問いに応えはなかった。仲間達は受けたばかりの傷口を押さえ苦悶の表情を浮かべながら成り行きを見守っている。
「わかった。あんたの言う通りにする」山賊達が立ち去った後、茫然としたまま言葉の出ない二人の前で綾之介は手にしていた短刀を鞘へと収めた。
「綾之介、様?」
奈津のその声に綾之介が笑って見せる。
「大丈夫でしたか?奈津さん」
その見覚えのある笑みにやはり別人ではないのだと納得した奈津は今更のように狼狽した。
「えっ、あの、だって」
「あなたの誤解も解いておかなくてはならなかったようですね」
奈津はその言葉に真っ赤になった。
「その、綾之介、殿。…礼をいいます。危ない所を助けてもらった」
この美女を前にしてその名で呼ぶのにかなりの違和感を感じながらも信吉がそう言った。綾之介があの山賊達を追い払ってくれなかった場合のことを考えると背筋の寒くなる思いだった。
それには笑みで応え、綾之介は口を開いた。
「今夜はもう町へ戻られた方がいいでしょう。家の方々が心配していらした」
「は、はい」
その言葉にその場を去ろうと歩き出した二人は綾之介がその場から動かない事に気づき振り返った。
「あの、綾之介様?」
「私はしばらくここに残ります。あなた方の邪魔をする気はありませんからね」
からかい混じりの口調に二人は顔を赤くした。
「そ、そんな」
綾之介が艶やかに微笑む。
「二人きりで、話すことがたくさんあるはずです」二人が去り、一人縁滝に残された綾之介に声をかける者があった。
『綾女』
その声に、綾之介がふわりと笑う。
「左近」
明るい月の光の下、一人の男の姿が綾之介の前に浮かび上がった。
茶色味を帯びた髪の男だ。
『綾女』
と実体を持たぬその男は彼女の本当の名をもう一度呼んだ。
『いろいろと大変な日だったな』
「まったくだ。だが、妖魔がらみの話ではなかったし、あの二人もうまくいったようで良かった」
男はフッと笑う。
この男の持つ鋭利な眼は、今は優しげに綾之介、否、綾女を見つめている。
『よく、似合っている。あの者達には感謝せねばなるまいな。おぬしのそのような姿を見ることが出来ようとは、な』
その言葉に綾女はフフ、と笑い少しはにかんで見せた。
「今回だけだ。もうこのような姿をすることはないだろう」
『つれないことを。…まぁ、俺にしてみればその方が安心できるがな』
綾女が怪訝そうに男を見た。
『今宵おぬしを町へ戻すことは出来なくなった』
「どういうことだ?」
『町でおぬしのその姿を見た男達の視線に気づかなかったとでもいうのか?』
その台詞に一瞬驚いた表情を見せた綾女だったが、その次の瞬間にはフフフと笑い出した。
「男の嫉妬は見苦しいと、私は言わなかったか?」
『しかたあるまい。男とはそのようなものだ』
苦笑してそう言う男に、綾女はニッと笑って見せた。
「安心しろ。私は女を捨てた身。そのような心配はいらぬ」
そしてフッと優しく微笑むと、綾女はこう続けた。
「私が女に戻るのは、おまえの前だけだ…」「今夜は月が満ちている。闇夜の晩と違い、こうして…」
綾女が左近の胸板に手を伸ばした。
「おまえに触れ、感じ取ることが出来る」
肉体の持つ確かさは無い。
だが綾女には確かに感じ取ることが出来た。
目を閉じればより鮮明にそれを感じ取れることも知っている。
男の手の感触を頬に受けながら綾女は目を閉じた。
「縁滝と呼ばれるこの場所で、左近…おまえと二人夜を明かすのも、悪くはない…」